大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 平成10年(う)568号 判決 1999年9月29日

本籍《省略》

住居《省略》

無職 (旧姓澤崎) 山田悦子

昭和二六年八月三一日生

右の者に対する殺人被告事件について、平成一〇年三月二四日神戸地方裁判所が言い渡した判決に対し、検察官から控訴の申立てがあったので、当裁判所は次のとおり判決する。

検察官中村雅臣、同岩橋廣明、同須藤政夫 各出席

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、検察官作成の控訴趣意書及び控訴趣意書補充書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は主任弁護人古髙健司ら作成の答弁書及び答弁書(補充書)に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

(以下の判断において、原判決が用いた略語はとくに断りなくこれを用いることがある。)

第一控訴趣意中、訴訟手続の法令違反の主張について

一  拘束力違反との主張について

1  論旨は、要するに、原判決は、犯行直前の被告人の行動を目撃した園児の供述(供述調書及び証言を含む。以下同じ。)及び被告人の自白の各信用性を否定し、また、被告人の着衣とXの着衣に付着した繊維鑑定結果の証拠価値を認めなかったが、これらの判断は、差戻判決たる控訴審判決(以下「第一次控訴審判決」という。)の判断に反するものであるから、原判決は裁判所法四条に違反しており、この訴訟手続の法令違反は判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。そこで、所論にかんがみ記録を調査して検討する。

2  裁判所法四条は、上級審の裁判所の裁判における判断がその事件について下級審の裁判所を拘束することを認めているが、これは、上級審の裁判所の判断と下級審の裁判所の判断とが食い違うことにより事件が際限なく審級間を上下するのを防止することをその趣旨とするものであり、上級審をして下級審の裁判の指導に当たらしめるために認められたものではない。したがって、この拘束力を有する判断とは、破棄の直接の理由、すなわち原判決に対する消極的否定的判断についてのみ生ずるものであって、この判断を裏付ける積極的肯定事由についての判断は、破棄の理由に対しては縁由的な関係に立つにとどまり、何らの拘束力を有するものではないと解される。論旨は、原判決が事実認定に関する第一次控訴審判決の判断の拘束力に違反している旨主張しているので、第一次控訴審判決がいかなる事実判断を示しているのかをまず考察することとする。

3  第一次控訴審判決は、被告人を無罪とした差戻前の一審判決を破棄して差し戻したものであり、その理由の結論部分には、「以上検討してきたように、原判決が、園児供述に関しては、これら園児に対する口止め等の罪証隠滅工作の有無とその初期供述した時の取調状況等について、自白に関しては、アリバイ及びアリバイ工作の有無について、また、繊維鑑定に関しては、本件犯行以外に付着の原因があったか否かの点等につき、各検察官請求の証拠を取調べしないでそれらの事実を考慮することなく、それら証拠の信用性を否定し、あるいは、本件との結び付きを否定したのは、取調べるべき証拠を取調べなかった結果各証拠の評価とその事実判断を誤ったもので、原判決には、少なくともこの点において審理不尽があり、その結果、当然これらの証拠により認めるべき事実の認定をしない誤りをおかし、被告人と犯行を結び付けるその他問題となる事実に対する検討を加えないで、被告人と公訴事実とを結び付ける立証が不十分としたことは、そのこと自体判決に影響を及ぼすこと明らかであり、原判決は到底破棄を免れない。論旨は理由がある。よって、刑訴法三九七条一項、三七九条、三八二条により原判決を破棄し、本件につきさらに前記の各点等につき審理を尽くさせるため、同法四〇〇条本文により本件を原裁判所である神戸地方裁判所に差し戻すこととし、」と記載されている。判示するところ、判文上必ずしも明確ではないといわざるを得ないが、掲げられた条文によれば、審理不尽による訴訟手続の法令違反と事実誤認の両方が破棄の理由となっていると考えられる。そして、さらに、別の箇所では、「今後これらの証拠を正しく評価判断するためには、少なくとも、園児供述に関しては、園児の知的及び供述能力やその置かれていた立場、特に学園関係者らによるこれら園児に対する口止め等の罪証隠滅工作の有無とその初期供述をした時点の取調状況を、また、自白に関しては、被告人のアリバイ及びアリバイ工作の有無、繊維の相互付着に関しても、本件犯行時以外に付着の可能性があったか否かの点を取調べる必要があるものといわなければならず、結局原判決が以上の証拠調をすることなく、これらの事実を正視しないで、園児供述及び自白の信用性を否定し、また、繊維の相互付着の本件との結び付きを否定するなどした判断はこれらの点につき審理を尽くさず、ひいては事実を誤認したものである。」と判示している。この判示からすれば、事実認定に関する判断としては、判文全体を読むとき、結論として被告人と公訴事実とを結び付ける立証が不十分とした差戻前一審判決の事実判断を否定する判断をしていることは明らかであるが、さらに、その理由として、当時の証拠関係の下で、差戻前一審判決が自白の信用性を否定したこと、園児供述の信用性を否定したこと、繊維鑑定の結果が犯行を裏付けるものではないとしたことといった判断をいずれも誤りとし、これらの誤りが、検察官において取調請求した取り調べるべき証拠を取り調べないでなされた結果、すなわち審理不尽の結果もたらされたものとしていることになる。したがって、この第一次控訴審判決は、差戻前一審が取り調べるべき証拠を取り調べれば、右に掲げた各点の事実判断が異なり、その結果公訴事実が立証される可能性があるという判断を前提に、前述のような結論的判示をしたものと解される。すなわち、事案の真相を明らかにすることは裁判所の職責であるから(刑訴法一条)、そのために必要な証拠は取り調べるべきであって、被告人と公訴事実とを結び付ける立証の可能性があるにもかかわらず検察官の証拠請求を却下した点で原判決には証拠採否の裁量権を逸脱した違法等による訴訟手続の法令違反があり(審理不尽)、また、その結果、原判決が、自白及び園児供述の信用性が認められる可能性があるのにこれを否定し、また、繊維鑑定の結果が犯行を裏付けるものと認められる可能性があるのにこれを否定し、ひいては被告人と公訴事実との結び付きが認められる可能性があるのにこれを否定した点で事実誤認があると判断したものと解するのが相当である。そうすると、第一次控訴審判決の事実判断としては、今後の立証により裁判所の判断が変わり得ること、すなわち差戻前一審判決当時の証拠関係及びそこで示されているような理由のみにおいて否定的な確定的結論を下した判断が否定されるべきことを示しただけであって、第一次控訴審判決当時の証拠関係の下で、公訴事実が立証されていると判断したものではないことはもちろん、自白及び園児供述の各信用性並びに繊維鑑定の証拠価値のいずれについても積極的、肯定的判断をしたものでもないと解するのが相当である。

4  これに対し、所論は、事実は存在するかしないかの二者択一的なものであることを前提にして、第一次控訴審判決は自白及び園児供述の各信用性並びに繊維鑑定の証拠価値について積極的にこれらを認める判断をしており、この判断に拘束力がある、との主張をしている。

しかしながら、第一次控訴審の判文を検討すると、確かに、総論的記載である第一の四2「判断の骨子」部分は、「これまで取調べた証拠関係(当審注・差戻前一審の証拠に第一次控訴審の事実取調べによる証拠を加えたものと考えられる。)をみる限り、BやA子が事件直前に被告人が被害者Xを連れ出したとする被告人の犯行を結びつける事件の核心的部分に関する供述は信用できるとみるべきである。」旨積極的判断をしているかのような記載がなされているものの、その判断を具体的に説示する第二「各論」の中においては、自白や園児供述の各信用性を認めるべき事情、あるいは繊維鑑定の証拠価値を高める事情を積極的に指摘している部分が存在するのみであって、結論的にこれらを信用すべきものであるなどと明言している判示部分は存在しない。むしろ、「差戻前一審判決が指摘した理由のみで」信用性を否定し、証拠価値を否定することはできないとした上で、前記のような点についての審理をすべきであるとしているのであるから、第一次控訴審は、当時の証拠状態においては信用性ないし証拠価値について積極にも消極にも確定的な判断ができないと考えたものと解される。

検察官も、このような判断があり得ることを前提に、第一次控訴審判決が当時の証拠状態に照らしての積極的判断をしていると主張しているかもしれない。しかし、第一次控訴審判決が、園児供述や自白の各信用性及び繊維鑑定の証拠価値が確定的に認められると考えて差戻前一審の判断を事実誤認であると判断したのであれば、これらの証拠により公訴事実そのものが認定できるのであるから、事実誤認の点を論理的前提としてさらに別の点の事実を確定するために証拠調べが必要になるような場合と異なり、差戻しという迂遠な方法をとることなく有罪の自判をすることもできるはずである。有罪の心証を持っているにもかかわらず、さらに審理を尽くせば、被告人と本件公訴事実とを結び付ける証拠が出てきて証明十分となる可能性があるからとの理由で破棄差戻しするのは背理である。仮に、被告人の審級の利益ないし防御権の確保のために差戻しが相当であると判断したとしても、その場合に差戻審に求める証拠調べは被告人の有罪を疑わせる事情の存否が中心なるはずである。にもかかわらず、第一次控訴審判決は前記のとおり被告人に有利にも不利にも働き得る事実関係についてのさらなる審理を命じているのであって、この点からしても前記問題とされる各点につき積極的な肯定的判断をしたとは考えられない。

なお、所論中、この点に関連して、第一次控訴審判決は差戻前一審判決の審理不尽の程度が余りにも甚だしいので差し戻した旨をいう箇所があるが、それは、裏を返せば、さらに多くの証拠調べ等の審理をしなければ確定的な事実を認定したり、確定的な結論を出すことができないというにほかにならないのであるから、そのような不十分な審理状況の下において、なおかつ判決の結論に直結するような重要な事実認定について拘束力を云々するのも、また理解し難い。

5  以上のとおり、第一次控訴審判決が確定的な事実判断をしていないと解される以上、その事実判断に拘束力を問題とする余地はなく、したがって、その拘束力からの解放を論じるまでもない。もちろん、審理を尽くさない状態で確定的な否定的判断をすることは否定されており、この点の拘束力は存在するが、これはむしろ審理を尽くすか否かの問題であって、証拠による事実判断自体への拘束力をいうものではないと解すべきである。しかるに、所論及び原判決が拘束力からの解放を問題としているので付言する。

原判決は、破棄判決の拘束力は、「破棄の直接の理由、すなわち原判決に対する消極的・否定的判断について生ずる」ものであり、右にいう「破棄の直接の理由となった判断」というのは、「被告人と公訴事実とを結び付ける立証が不十分としたこと」が誤りであるとの判示部分に当たると解すべきであると正当に判示した上、さらに、「破棄の直接の理由となった判断」というのは、前記のところにとどまらず、右要証事実に関する結論的事実認定の判断と直結する特定の点についての事実判断やその判断に必要な特定の証拠の証明力に関する判断をも含むとし、本件では「園児供述の信用性を否定した判断」、「被告人の自白の信用性を否定した判断」、「繊維鑑定結果そのものが犯行を裏付けるものとは解されないとした判断」をいずれも誤りであるとした判示部分に破棄判決の拘束力があり、第一次控訴審判決時と同一の証拠関係にある限りこの判断に反する判断はできないと説示し、所論はこれに加えて、破棄判決の拘束力から解放されるためには、破棄判決の破棄の直接の理由たる消極的否定的判断に直接関係し、かつ、右判断に反する方向で心証に影響し得るような証拠が得られた場合でなければならないのに、本件ではそのような証拠は何一つ取り調べられていない旨主張している。

しかし、既に指摘したように、本件では破棄理由として審理不尽がいわれており、「園児供述の信用性、自白の信用性、繊維鑑定の証明力についてなお調べるべき証拠を調べて審理し直し、これらについて判断し直すべし。」としている判断を前提にした事実判断や証拠の証明力に関する判示部分に拘束力を認めるといっても、自ずから極めて限定的なものにならざるを得ない。そして、拘束力が前記要証事実の点に限られること、すなわち本件では「被告人と公訴事実とを結び付ける立証が不十分としたこと」に限定されるとすることには、審級制度を考慮した実質的根拠が存在する。また、原判決がいう、要証事実に関する結論的事実認定の判断と直結する判断にも及ぶとの見解は、一般論としては是認できないではないにしても、本件において、例えば個々の園児供述や自白それ自体がそれぞれ独立して要証事実に関する事実認定の判断と直結するとまでいえるか疑問があり、少なくともそこに解釈の余地を残すといわざるを得ない。さらに、原判決も正当に指摘しているように、第一次控訴審判決が特定の事実あるいは証拠の証明力について事実誤認として判示している点については、それぞれが独立して直ちに要証事実に関する結論的事実認定についての判断と結び付いているものではなく、それぞれが直接あるいは間接に影響し合ってその信用性が判断されるべきものとの証拠の総合的評価という見地、すなわち、例えば各園児供述の信用性がそれぞれ他の園児供述のそれに関連すること、自白の信用性もアリバイの成否やその蓋然性あるいは繊維鑑定の証明力と関連することは明らかである。これらを総合して考察すれば、原判決や所論のいう点についての第一次控訴審判決の拘束力を認めるのは相当でない。

なお、右の点に関連して、所論は、例えば園児供述の信用性と被告人のアリバイの成否は関係がないかのようにいうが、園児が目撃したという時刻一つとってみても、供述の信用性ひいては要証事実の事実認定に密接に関連すること明白であって、所論は証拠の総合評価の視点が欠落しているといわざるを得ない。

結局、拘束力に違反するとの論旨は理由がない。

二  審理不尽の主張について

1  論旨は、要するに、原裁判所は、検察官が取調べを請求したBの目撃供述に関する鑑定人武貞、吉田及び一谷の証人請求並びにA子の目撃供述に関する鑑定人萩原及び赤羽目の証人請求を却下し、同人ら作成の鑑定書のうちそれらの中核をなすB及びA子の本件に関する具体的な目撃供述の信用性の部分についてその証拠調べの途を閉ざしたが、刑訴法二九八条に基づく証拠採否の決定は裁判所の全く自由な裁量に委ねられているものではなく、同法一条に掲げられた「事案の真相を明らかにする。」という目的に従ってなされるべきものであって、本件におけるように右各証拠がB及びA子の各供述の信用性をより明らかにするための重要な証拠である場合には、その証拠調べが義務づけられているのであるから、右各証拠請求を却下して審理不尽のまま判決をした原裁判所の措置は同条に違反しており、この訴訟手続の法令違反は、判決に影響することが明らかである、というのである(検察官は刑訴法二九八条二項の規定を掲げるが、同項は職権証拠調べの規定であり、本件のように検察官請求の証拠についての採否の権限は、同条一項の定めるところであって、同条二項は、必要に応じて職権でも証拠調べをすべきであるという解釈の基準として理解すべきである。)。そこで、所論にかんがみ記録を調査して検討する。

2  証拠の評価は裁判所の専権事項であり、刑訴法二九八条に基づく証拠採否の判断も、基本的には裁判所の自由な裁量に委ねられている。ただし、もとよりその恣意独断を許すものではなく、同法一条に掲げる理念に従った合理的な裁量に基づいて行使されるべきことはいうまでもない。したがって、当事者の証拠調べ請求のうち、事案の真相を明らかにするために必要なものをも却下することは裁量権の逸脱があるとして違法となり得るのは所論指摘のとおりであって、問題は、検察官の指摘する前記鑑定等の証拠が本件事案の真相を明らかにするために必要と認められるか否かにある。本件公訴事実の認定判断において、A子及びBの各供述が最も重要な証拠の一つであることには異論がないから、右各供述証拠の信用性判断のために右鑑定等の証拠が必要と認められるのであれば原裁判所はこれを採用すべきであったことになる。

ところで、鑑定とは、裁判所が裁判上必要な実験則等に関する知識経験の不足を補給する目的で、その指示する事項につき第三者をして新たに調査をなさしめて、法則そのもの又はこれを適用して得た具体的な事実判断等を報告せしめるものである。供述の信用性判断の大前提となる供述者の供述能力については、通常の場合、供述者に最低限の供述能力があるという裁判官の経験に基づく判断で足りているため、鑑定の必要までないことが多い。しかし、仮に、精神病その他の理由によって一般的供述能力自体に問題がある疑いがあれば、そのような精神病の病理については通常の知識経験では対応できないこともあり、その場合には専門家による鑑定が必要となる。

本件において、このような意味での鑑定を考えると、A子及びBは精神遅滞者とされており、一般的供述能力自体を備えているか否かにも問題がある可能性も否定できないのであって、この点の鑑定を必要とした原審の判断は相当である。

また、一般の供述者においても個人差としてみられる供述の特性や供述者の性格といった人的な要素は、その後の供述分析に当たって考慮される要素であり、通常は供述分析の中で裁判官が判断考慮しているが、この点に関しても精神遅滞者の場合、特別なものが存在する可能性があり、供述能力の鑑定の中で明らかになる部分もあると思われるから、供述能力に関する鑑定の際に併せてこの点に関する鑑定を求めることも有用であろう。

3  それでは、右のような人的な要素を越えて、具体的供述の信用性そのものについて鑑定を求めることは相当であろうか。この点が本件ではまさに問題になっており、原審は、本件鑑定書等を採用するに際して具体的供述の信用性に関する部分を除外しているのであるが、当裁判所も右結論を相当と考えるものである。以下、理由を説明する。

まず、理由の第一は、専門家の不在ということである。すなわち、供述の信用性判断が精神医学ないし心理学的要素を含むことは否定できず、主として海外においてではあるが、供述心理学というテーマで様々の専門的研究がなされ、真実でない供述の原因分析や信用性判断の手法について多くの成果が発表されてきていることは評価すべきことといえる。しかし、この供述心理学は従来の精神医学及び心理学とは独立した新たな専門分野ともいうべきものであって、現段階において供述の信用性判断の方法が専門家の知見により確立されているとは認め難い。ことに、日本においては、一部法律実務家の立場から海外の研究成果の紹介・研究はなされていたものの、精神医学者ないし心理学者において十分な研究がなされているとはいい難いというのが、最近はともかく過去の状況であったとみられるのである。法律実務家及び心理学者の最近の研究発表では、一般的には、当裁判所も採用しようとする供述分析を中心とした方法、すなわち、供述内容及び供述経過(供述史)等を中心に信用性を判断することが最も有用な手法とされていると窺われるのであるが、その供述分析の具体的基準についても、これが専門家の間において体系的に確立されているといえるのか疑問である。そもそも、供述分析という場合、その判断に必要なものとして心理学的要素が多いとしても、供述内容の合理性等については一般的な経験則の適用場面も多いのであって、供述心理学を研究した者が必ずしも供述分析全体について専門的知見を有することにはならない。これに対し、裁判官は、供述心理学を体系的に学んだものではないとしても、多くの事件に関与する中で、供述分析という方法による供述の信用性判断についてはある程度経験的に学んでいるといい得る。そうすると、そもそも精神医学ないし心理学的要素が供述の信用性判断の一部であることからも、右各専門的要素についても現段階で供述心理学に関する理論が確立されているとは考え難いことからも、前記のように、基本的には裁判所の専権事項とされている供述の信用性判断全体についてまで、現在これを的確に補うことができる専門家の存在には疑問があるといわざるを得ず、逆に専門家とされているだけに別の果てしない論争に陥ってしまう懸念がないともいえない。

理由の第二は、信用性判断が総合判断であることからくる問題である。すなわち、供述の信用性判断が供述分析を中心とするとなると、供述内容と対比すべき客観的事実及び供述経過に関する事実が供述の信用性判断の前提になるはずである。しかし、これらの事実が容易に確定できる場合は稀であり、通常は、その多くの部分がさらに証拠判断を経て認定される事実であって、その結果、供述の信用性判断は事件全体の事実認定とかかわる総合的判断とならざるを得ない。現実的には、供述の信用性判断の前提となるべき事実の認定における心証が、逆に供述の信用性判断をする中で形成されることもあり得る。そうすると、事件全体を離れて、ある具体的供述のみの信用性を判断することは、不可能とまではいえないもののかなり困難を伴うものであり、事件全体の事実認定に責任を負わない者に個々の供述の信用性について判断を委ねてしまうことになりかねず、甚だ危険なことであって相当性を欠くと考えられる。

以上のような点から考えると、供述分析の際に用いる経験則のうち精神医学ないし心理学的要素については、専門家の知見を参考にするために鑑定を求めることがあるにしても、最終的な信用性判断についての結論まで含めて鑑定を求める必要性があるとは到底いえないというべきである。

4  右のとおり、一般的な観点からみても具体的な供述の信用性について鑑定を求める必要性はないが、本件においては、検察官が証拠として請求している鑑定等に携わった鑑定人が、いずれも供述心理学について特に研究した経験がなく、現実に供述の信用性を判断した経験もほとんどないことが認められるのであって、この点からも具体的信用性に関する鑑定について証拠調べの必要性は認められない。

したがって、審理不尽との論旨も理由がない。

第二控訴趣意中、事実誤認の主張について

一  論旨

論旨は、要するに、原審において取り調べた証拠によれば被告人がXを殺害した事実を優に認定できるのに、原判決が公訴事実について証明がないとして被告人を無罪としたのは、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認である、というのである。記録を調査し当審における事実取調べの結果をも併せて検討したところ、結論として原判決に検察官が主張するような事実誤認はないとの判断に至ったので、以下その理由を説明する。

二  はじめに

1  本件の証拠構造

A山学園の概要及び園児の行方不明等の本件事案の前提となる事実関係は、原判決が第四「A山学園の概要、園児の行方不明状況等」(41頁以下。これ以降「以下」を省略する。)に記載するとおりである。

そして、公訴事実立証に関する本件の証拠構造についてみると、原判決も第三の一及び同二(28、34頁)において説示するとおり、被告人の犯行についての直接証拠としては、捜査段階における被告人の断片的で不完全な自白が存在するのみであり、検察官も、他のいわゆる情況証拠たる間接事実(以下単に「間接事実」ともいう。)に基づき被告人の犯行が推認できると主張して種々の事実を指摘している。すなわち、①被告人が、本件犯行時刻と考えられる時刻の直前において、Xを連れ出したという事実は、現場の状況等に照らせば被告人の犯行を推認せしめるともいうべき間接事実であり、また、②当時の被告人及びXの各衣服の構成繊維と考えられる繊維が相互に付着していたという事実は、物的証拠というべきものであり、他の機会における相互付着の可能性等も併せ検討することにより、被告人とXの接触を推認させ、ひいては被告人の犯行をも推認させ得る間接事実である、というのである。さらに、検察官は、③被告人の事件発生前後の行動状況、④犯行時間帯における在園職員の行動、⑤B谷を中心としたアリバイ工作、⑥Xの胃の中にみかん片と被告人購入みかんの同一性、⑦本件の二日前に行方不明となり、Xとともに浄化槽の中から発見されたY子が浄化槽に転落した状況等についても被告人の犯人性を推認するための間接事実として主張している。これら検察官の主張する間接事実の存否やその状況のいかんは、最終的には直接証拠たる被告人の自白の信用性判断に用いられるのであるが、その前提として、①の被告人によるX連れ出しを目撃したとする園児供述の信用性判断に用いられたり、あるいは、それぞれの事実がそれ自体で被告人の犯行を推認する間接事実として用いられたりする可能性を持つものであり、前記のように、犯人と公訴事実との結び付きに関し、客観的物的証拠が極めて少なく、供述証拠に依拠せざるを得ない本件では、これら間接事実に対する判断がとりわけ重要な意味を持つといってよい。

2  検討の順序

このような証拠構造を念頭に置きつつ本件公訴事実について検討するが、一般に公訴事実が認められるか否かの判断に当たっては、自白を除いた証拠によってどのような間接事実が認定できあるいはできないかを十分検討しこれを整理した上で、最終的に自白の信用性を判断するのが望ましいと考えられるところ、本件の間接事実の中でも、①の被告人によるX連れ出しの事実は、右に述べたように公訴事実立証に極めて重要な意味を持つから、これを立証しようとする園児供述の信用性は他の間接事実の検討を終えた後に判断することとする。間接事実のうち、⑤アリバイ工作の有無、③被告人の行動、④在園職員の行動(他の者のアリバイ)は、Xの死亡時刻との関係でいずれも本件で重要な争点の一つになっているアリバイの成否に直接、間接にかかわる事実であるので、そのような観点から考察する。また、その他の各間接事実については、検察官と弁護人との間で、その事実の存否についてはもちろん、間接事実が持つ意味、すなわち、その事実がどのような経験則に基づいて被告人の犯行の推認に影響を及ぼすのかについても争いが存するので、各間接事実の持つ意味について、できる限り当裁判所の考えを示すこととする。なお、⑦については、検察官は間接事実として掲げているものの、実質的には被告人の自白との関係で問題になるものと考えられるので、被告人の自白の項において検討する。

ところで、本件の間接事実の中には供述証拠を中心に立証されるものも多いが、これらの供述は同一人物において様々の事実に関してなされている場合もあり、その検討に際しては、当該人物の立場、個性等も考慮すべきではあるものの、これらのみによって当該人物の供述はすべて信用できるとか、逆に信用できないなどといえるものではないことは当然である。問題となる間接事実ごとに、それに直接かかわる部分の証拠価値を判断し、その後他の事実との関連も含めて、間接事実の存否を総合的に判断する。

三  情況証拠たる間接事実のうちアリバイに関するものについて

1  Xの死亡時刻について

検察官は、本件において、昭和四九年三月一九日午後八時(以下、時刻のみを記載する場合は同日の時刻をいう。)ころに被告人がXを殺害したとして公訴事実を構成している。事案解明のためには、犯行が行われた時刻における関係者の行動を検討することが不可欠であるが、本件においては、前提たる犯行時刻が必ずしも明確に判明しているわけではない。犯行時刻は、被告人のアリバイの成否を判断すために必要であるばかりでなく、仮にアリバイの立証までに至らない場合にも、被告人を含む関係者の犯行の可能性を検討するために重要である。

まず、B原ことB川秋子(以下「B川」という。)が、午後七時ころ、青葉寮倉庫からXの服の入ったふろしき包みを持って男子保母室に入ろうとしたところ、Xが来て廊下のところでふろしき包みを引っ張ったという事実があったことは、B川が明確に証言しており、これが事件翌日から捜査段階を通じて一貫した供述であること、B野もこれに沿う証言をしていることからほぼ間違いないと認めることができる。

問題は、午後七時三〇分ころにXがデイルームにいたか否かである。検察官は、これを前提に事実を構成しているものの、弁護人は、Xは午後七時三〇分ころには確認されていないとの主張をし、原判決も同旨の結論を採用している。

証拠をみると、B川は差戻前一審の公判廷において、午後七時三〇分ころ女の子を寝かす時にデイルームのベンチにXがいたのを見た記憶があり、また、B野からXの行方不明を知らされて捜す際、デイルームにいた年長の園児に対し「Xいたよね。」と尋ねたところE子がうなずき、さらに自分が「七時半までいたよね。」と尋ねるとKもうなずいた旨証言しており、この点に関してはE子の対応の仕方について一部変遷はあるものの、基本的には事件後間もない時期からほぼ一貫した供述である。さらに、B野は、差戻前一審において、Xを捜して男子棟から女子棟へ行く途中、デイルームでDに「X、知らんか。」と尋ねたところDが「七時半までいたよ。」と答えた旨証言しており、このDから七時半までいたと聞いたことは、いつ聞いたのか記載上明確でないものの、事件翌日のB野の昭和四九年三月二〇日付警察官調書にも現れている。

これらの証拠について、弁護人は、B川の記憶はあいまいである。E子及びKの返答はB川の思い込みによる問いに引きずられたものである、Dの記憶・供述は信用性が低い、などと主張し、原判決もおおむねその主張に沿う判断によって、Xが午後七時三〇分ころまでいたことを確実なものとして認定することはできないとしている。しかしながら、B川の記憶は確かにあいまいではあるが、事件直後の感覚であるから、それなりに尊重すべきものと考えられる上、E子、Kの返答はB川の思い込みの質問によって引きずられたものであるとの考えは一つの可能性をいうに過ぎず、E子及びKは園児の中では能力的に優れている者であること、質問者は同人らと通常接しているB川であること、二名とも肯定しており他にこれに異を唱える者もいなかったことなどからすると、両名にXを見た記憶があったと考える方が素直な見方である。また、B野に対するDの答えも、直前の事実についての返答であって、これも無視できない。園児らが、後の供述・証言においてそのときの返答を供述していないことは、テレビを見ている際に尋ねられたことに対して返事をしただけという場面からして、記憶がなくなっても不自然ではなく、B川やB野の証言する場面の存在を疑わせるものとはいえない。そうすると、これらの証拠のみによって、Xが午後七時三〇分ころまでデイルームにいたことが間違いないと判断するのは性急に過ぎ、原判決がいうように確実なものとして認定することはできないとしても、その可能性はある程度高いといえる。

さらに、その後、Xが青葉寮女子棟「さくら」の部屋にいたのか、廊下を被告人と歩いていたのかということになるが、これらは、本件で最大の争点である園児供述の信用性判断によって認定の可否が決せられる「被告人によるX連れ出し行為」と表裏一体をなすものであり、この段階で判断すべき間接事実とするのは相当でない。

なお、B川及びB野の各証言によれば、B野においてXが青葉寮にいないことに気付き、そのことをB川に伝えるとともに青葉寮内を捜し始めたのは、午後八時二、三分ころと認められ、少なくともこの時点までにXが青葉寮から連れ出されたと考えるのが相当である。

2  アリバイ工作

(一) はじめに

検察官は、本件において、被告人及びB谷を中心とした「アリバイ工作」があり、E田がまずこれに同調し、次いでB山が同調したと主張している。アリバイの成否はもとより「アリバイ工作」の存否も、本件犯罪の成否に直接又は間接に影響する事項であるが、検察官は多くの場でこの「アリバイ工作」を主張し、これを根拠として被告人、B谷、E田及びB山の各供述を評価しているので、他の間接事実の判断に先立ち、本件においてこの「アリバイ工作」なるものがいかなる意味を持っているのかについての当裁判所の考えを示すこととする。

(二) 「アリバイ工作」の主張、立証

(1) 本件において、「アリバイ工作」はどのようなものとして主張され、また、結果としてどの程度立証されているのか問題である。

そもそも、検察官の全主張を通読しても、アリバイ工作が誰と誰の間で、いつ、どこで、どのように話合われたのか不明であるといわざるを得ない。もちろん、アリバイ工作の内容をどの程度具体的かつ明確に記述できるかは、存在する証拠いかんにかかることであり、ケースによって、ある程度の幅と限界があるのは致し方ないとしても、本件において、いつ、どの時点で話合いがなされたかが明確にされないと、関係者の供述の信用性を判断する上で重要な視点を欠くことになる。まず、この点において本件アリバイ工作の主張には重大な欠陥があると考えるが、とりあえず、立証の観点からみてみる。

(2) まず、アリバイに関して虚偽供述をした旨のアリバイ工作者の自白や、虚偽供述をするよう働きかけられた旨の被アリバイ工作者の供述は直接証拠となるが、本件ではそのような証拠は存在しない。

この点、検察官は、E田の同人に対する偽証被告事件の差戻後一審最終陳述における供述(当審で取り調べた証拠)がアリバイ工作を受けたことを認める供述である旨主張する。すなわち、右最終陳述中の、①「事件後、警察の取り調べが開始された頃から、山田氏に所かまわず至るところで『E田』はアリバイのことで話しかけられ、ひどく閉口させられた覚えがある。それが『E田』の警察供述にどのように影響したのか、しなかったのか、今となっては分からないが、影響しなかったとは、明確に言い切れないのも事実である。」との供述が「被告人からアリバイ工作の働きかけがあったこと」を認めたものであり、②「『E田』が国賠で証言するため、大阪弁護士会館のアコーデオンカーテン型仕切りで区切られた小部屋において、弁護士との最初の打ち合わせの折、『先生のおっしゃることは何でも証言しますが、偽証罪に問われることにはなりませんか』と尋ねますと、『民事ですから、そういうことにはならないでしょう』と返答された。『E田』は、司法権力犯罪をマスメディアなどを通じて多く知っていたため、一抹の不安を覚えたが、有能な弁護士が確実な保証をしてくださったため、安心をして国賠で証言をしたのである。」との供述が「国賠訴訟においてE田が偽証したこと」を認めたものである、というのである。

しかしながら、右のような解釈はとることができない。確かに、右①②の文言をそれだけ読めば、それらが検察官主張のような意味を表していると受け取られかねない表現がないわけではなく、それゆえ当審でもE田にその説明を求めたのであるが、同人は、「そこだけをピックアップして読まれたら誤解を招くので最初から最後まで正確に読んでほしい。」と繰り返すのみで、具体的には説明を加えなかった。そもそも、右最終陳述は、書面にすればB5版の用紙四二頁に及ぶ分量で、A山学園における園児及び職員の一般的な状況や事件当時の職員の対応、さらに、本件並びにE田及びB山に対する偽証被告事件を含む訴訟に対する自己の意見を細かく述べたものであり、検察官が指摘する部分はそのごく一部であって、全体の中での位置付けといってもその解釈はいくとおりか考えられるのである。例えば、弁護人は、①について、E田が被告人から事件当時のお互いの行動や警察で聞かれたことを所かまわず話しかけられ、おしゃべりな被告人(E田は、最終陳述の別の部分で「本来のおしゃべりという性格」と記載して被告人を非難している。)にあきれるとともに、それにより自己の記憶が混乱した趣旨であると解釈し、②につき、「偽証罪に問われる」とは、えん罪事件において無実の被告人に有利な証言をした人が不当にも権力によって偽証罪に問われているのと同様に、真実を証言したとしても偽証罪に問われるという意味であって、その心配を弁護士に相談した状況を記載したものであると主張している。このような相当量に及ぶ最終陳述書のごく一部の記載から、E田の真意を推し量ろうとすること自体E田本人が供述するように誤解を招きかねない無理なことをあえて行っているとのそしりを免れないが、加えて、①については、検察官の主張するアリバイ工作はB谷が中心であるのに、右最終陳述書には被告人から話しかけられたとなっており、別の部分には被告人がおしゃべりであるとも記載されていることの関連からみて、②については、「司法権力犯罪をマスメディアなどを通じて多く知っていたため」という記載との整合性からみて、いずれもむしろ弁護人の解釈の方が自然であるといい得るものである。検察官は、E田が差戻前一審の公判廷でアリバイのことで被告人と話したことはないとか、記憶がないとか供述していたのに、最終陳述はこれとその内容を異にするものであって、アリバイ工作があったことを認めたものというべきであると主張する。しかし、E田の右公判廷での供述は、アリバイ工作を意識して話し合ったことはないという趣旨を述べているとも解釈できるのであって、事件後警察の事情聴取がなされている時点で、職員が事件のとき自分がどこで何をしていたのか自ら想起しようと試み、あるいはさらに、一緒に行動していた者がいたら、お互い確認し合うようなことがあってもおかしくないのであるから、若干ニュアンスの違いは感じられるとしても、E田の右公判廷での供述と、最終陳述が全く異なった意味合いを有するとまではいえない。そして、何といっても、E田の最終陳述が、全体として自己の無実を含む正当性を訴えるものであることは否定し難く、検察官のような解釈はかなり無理があり、少なくとも、これをE田が「アリバイ工作」や偽証を認めた供述であると評価してこれらの事実を立証するための証拠に用いるのは相当でない。

(3) したがって、その他の情況事実によって「アリバイ工作」が認定できるか否かを検討しなければならないのであり、検察官が「アリバイ工作」の推認の根拠としている、B谷の異常な支援活動と、関係者の供述変遷状況とを以下検討する。

前者は、「B谷において、本件事件後、職員らに対して警察捜査への非協力を呼びかけ、被告人の逮捕時には、被告人に対し事実を述べないよう指示し、自己の支援活動方法に反対する弁護人の解任を画策し、自己に協力的な弁護士と会合を開くなどして関係者がアリバイにつき矛盾のない供述をすることを確認し合うなどし、アリバイ主張に疑問を呈する職員に対してはその批判を封じこめようとするなど異常なまでの支援活動をしたことが、『アリバイ工作』を推認させる。」というものである。しかしながら、この点については、原判決が第十二の三4「アリバイ工作に関して」(1422頁)において詳細に説示しているが、同所で説示するところは相当である。そもそも、B谷の活動の過激性は、これが社会的に相当であったか否かは別として、仮にB谷の供述するところが真実であってアリバイが事実であるとすれば、B谷の立場からは、被告人の無実を信じるのは当然であるから、人間としてのやむにやまれぬ正義感の発露として他の者に対して働きかけていた行動であるとして説明するのに何の問題もない。視点を変えていえば、B谷の供述が真実であるか否か、すなわち被告人にアリバイが成立するか否かが立証のテーマであって、B谷の供述が真実に反するとすれば、確かにB谷の行動は異常ということになろうが、この立証のテーマを確定せずして異常であるとかないとかの評価を下すことは困難である。そして、「アリバイ工作」という言葉で通常イメージされるのは、共犯者や極めて親密な関係にある者同士の間でなされる密やかな工作であって、殺人罪というような重大事件において、多数の職員や父母の前であからさまにかつ過激な態様でなされることが、全くあり得ないとはいえないとしても、その効果に疑問があることと危険性を考えれば、かなり特異なアリバイ工作であることは否定できず、少なくとも、活動の内容がアリバイ工作であることと活動が過激であることとは直接には結び付かないと考える。

次に、後者は、「関係者、すなわちB谷を中心としたB山、E田及び被告人の各供述状況及び供述変遷から、『アリバイ工作』が推認できる。」というものである。一般に、アリバイの存否を確定できるような直接証拠がない場合においても、ある範囲の関係者のアリバイ供述がある時点から急に一定方向に変遷し、その理由が余りにも不合理な場合には、その変遷状況自体から意図的な虚偽供述であることが推認できる場合もあり得ることは否定できない。検察官は、本件における右関係者の供述変遷がこのような推認の根拠となると主張するかのようである。しかし、人の記憶は常に明確であるとは限らずあいまいな部分も多いのであるから、たとえ供述内容に変遷があったとしても、その変遷の理由が記憶喚起であったり、勘違いであったりすることを軽々に否定してしまうことはできず、また、変遷前の供述が真実であるのか、変遷後の供述が真実であるのかも、その供述内容だけから判断するのはなかなか困難である。本件における右関係者の供述変遷については後に個別に検討するが、弁護人も主張するように、その供述変遷は統一的に一定方向に変遷したとはいい難い部分も多く、それぞれに変遷の理由が説明されているのであるから、これを合理的と考えるか不合理と考えるかは微妙な問題であって、右変遷は、それ自体から意図的な虚偽供述を推認できるようなものではない。

(三) 「アリバイ工作」論における根本的疑問

このように、「アリバイ工作」を推認せしめるとして検察官が掲げる根拠ははなはだ弱いといわざるを得ないものであるが、それ以上に、この「アリバイ工作」には、主張自体に常識的な見地から根本的な疑問があることを指摘しておかなければならない。すなわち、検察官が主張する「アリバイ工作」につき、原判決が第十二の三4(三)(1483頁)において、「そもそも、事件直後においてはXの行方不明の時刻などは明らかになっていない段階であって、事件直後からアリバイの主張をしなければならないような事情はうかがえないのである。考えられるとすれば、B谷が、被告人の供犯者であるとか被告人が犯人であることを知っている場合であるば、例えば、被告人が犯人であることをいつどのようにして知ったのかなど、それをうかがわせる具体的な主張もなければ、証拠もないのである。」と批判するのに応じてか、検察官は、当審に至って、「B谷における被告人の犯人性の認識については、B山が管理棟事務室から出発した後、同事務室に残ったのがB谷と被告人の二人であったことなどに照らすと、B谷が、事件直後ころ被告人の犯人性を認識し、あるいは、被告人から犯行を打ち明けられたということは、十分あり得ることである。」旨、主張をある意味で鮮明にしている。アリバイ工作に関する原判決の前記指摘は誠にもっともなことであり、検察官としては主張だけでも明らかならしめる必要に迫られたと考えられるが、B谷において、検察官のいう状況のみで被告人がX殺害の犯人であるとどうして認識できるのか、被告人がどうしてB谷にX殺害を打ち明けることになるのか、いずれについても納得できるような説明は全くなされていない。この時点では、B谷を含めて誰もが被告人を怪しいなどと思ってもいなかったのではなかろうか。当初は、むしろ用務員や園児が疑われていたことが証拠上窺われる。また、検察官の主張によれば、被告人は、Y子転落死の責任をカモフラージュするためにXを殺害したというのであるが、そのような被告人が、いまだ何人が犯人であるか見当もつかない時期に、一同僚に過ぎないB谷に自分がX殺害の犯人であることを打ち明けるであろうか。B谷に打ち明けたなどという事実についてもちろん被告人の自白はない。

また、検察官は、B谷が「アリバイ工作」の中心であり、まず被告人に指示し、次いで本件直後の段階でE田に同調するよう働きかけたと主張するが、B谷及びE田は、単に被告人と職場を同じくする者に過ぎず、これに対して問題となっている犯罪は、自分達が通常接して世話をし保育している園児の殺害である。直前まで協力して捜索表を作成しようとするなどY子の行方を捜していた被告人が別の園児を殺害した犯人であると知り、若しくはその可能性が強いと考えたならば、驚愕すると同時に被告人に対する非難ないし憤りの気持ちがまず生じ、アリバイ工作など考えられないはずであり、しかも普通の社会生活を送っている人間であれば、本件のような状況で、アリバイ工作をしたからといってそれが成功すると思わないのが通常であろう。所論は、アリバイ工作といってもその基本は「Xの行方不明を知らされるまで終始管理棟にいた。」との事実を作出するだけでよいといい、確かにそのこと自体は間違いではないが、検察官の主張によれば、E田は午後七時五〇分ころから午後八時二〇分ころまでB木と一緒に若葉寮職員室にいたというのであるから、B木の存在を無視してE田がそのようなアリバイ工作に加担できるはずがないし、外ならぬ園児を殺害した犯人を逃がすために虚偽の事実を作出するという以上、よほどの動機ないし事情がなければならないことはもちろんのこと、さらに後に工作が発覚しないように綿密な打合せなしには不可能である。アリバイ工作をしてアリバイを立証するための証拠を作り出し、これを信用してもらうなどということは、それほど簡単なことでも易しいことでもない。その上、自己のアリバイ工作加担が明らかになれば、これが証拠隠滅にかかわる罪として立件されるか否かはともかく、社会的には殺人の共犯の如くに苛烈な非難を浴びることは明らかである。本件証拠にかんがみ、まずB谷についていえば、当時指導員として職務を行っていた者であり、E田も真面目な人柄で、職員の人望もあり、熱心に園児の養育、育成に携わってきた者である(この点についての反証は存しない。)。前記のような心情、危険性にもかかわらず、あえて被告人のアリバイ工作に加担するに見合う深い利害関係や動機が考え難いのである。ただ、無理に「アリバイ工作」への加担の動機を考えようとすれば、B谷及びE田において、被告人が犯人でないことを知り、あるいは犯人ではないと信じていたことから、無実であるにもかかわらず逮捕された被告人への同情等で、記憶にないことをある旨述べたり、事実を一部異なって供述することがあり得ないことではないかもしれない。しかし、検察官の主張によるB谷らの「アリバイ工作」は、犯行直後からなされているというのであり、事件の全体像も被告人に嫌疑がかけられているかどうかもわからないうちに「アリバイ工作」に加担することは、そのような無罪を信じているが故に事実を曲げるというのとは全く異なる。

一方、検察官は、B山について、被告人の逮捕後、自己の出発時刻や電話の順序が、被告人のアリバイについて重要な意味を持つことを認識し、かつ、園長としての立場から、B谷の主張どおり被告人のアリバイが立証され、捜査官が被告人に対し嫌疑を持たなくなることを強く望み、被告人のアリバイの有無について確信がないまま、B谷に追従した言動をとっていたが、意図的に速めて運転した走行実験の結果がB谷の主張の裏付けに利用できることがわかり、B谷の主張に合わせて被告人のアリバイを主張しようと決意するに至ったとする。しかし、B山は、当時A山学園の園長として、今回の園児死亡事件現場の最高責任者として職務を行っていた者であり、少なくとも周囲の者からみて特段問題とされるようなことは全く見当たらない。確かに、B山は、当時、園の関係者が犯人であって欲しくないとの気持ちを有していたことは認められるが、それだけの理由で真実を誤らせることになってしまうおそれのあるアリバイ工作に加担し、全く記憶にないことを証言しようと決意するであろうか。アリバイ工作など簡単にできるものでないこと、そして工作に加担したことが明らかになれば社会的には殺人の共犯の如くに苛烈な非難を浴び、その社会的地位を失うであろうことB山についても全く同様といえる。

さらに、原判決が、アリバイ工作をするのであればB木や電話の相手方などにも働きかけなければその効果が期待できない旨判示するのに対して、検察官は、アリバイ工作などというものは、相手方との特別な関係がない限り、相手方が易々と応じるものではなく、誰彼なくむやみに虚偽の供述をしてほしい旨依頼すれば、アリバイ工作をしていることが露見する危険性が高く、おいそれとできるものではないことは常識である旨反論している。アリバイ工作がそれほど危険で慎重さが要求される事柄であることを指摘する限りにおいて、検察官の反論は正当と評価できるが、それは、B谷らがE田に対して「実は被告人がXを殺害した可能性がある(またはX殺害の疑いがかけられそうである。)が、そのアリバイのために協力してほしい。」と働きかけることについてもほぼ同様のことがいえるのではなかろうか。検察官の主張には矛盾があり、その不合理は、検察官が主張する「E田が反権力的である。」とか、「E田がB谷と親しい間柄である。」というようなことで解消できるものではない。

アリバイ工作論についてこのような疑問があるからといって、意図的な虚偽供述の可能性が全く否定されているとまではいえないかもしれないが、この疑問が他の客観的事実や証拠を総合してアリバイに関する真実が何かを検討する場面での重要な考慮要素であることは当然である。

(四) まとめ

以上によれば、検察官の主張する「アリバイ工作」は、ほぼ本件では存在しないといってよいと考えるが、なお、他の間接事実や証拠との関係もあるので、ここでは一応「アリバイ工作」の存在には根本的に疑問があることを指摘するに止める。

なお、アリバイ工作と並ぶ罪証隠滅工作の一つである「口止め工作」も、それが一定の行為として認定された場合には、行為者が犯人であるか、犯人と何らかの関係を有することを推認するための間接事実となる場合があり得ると考えられるが、後に述べるように、検察官は口止め工作を主として園児供述信用性判断の事情として主張しており、情況証拠として主張するものか否か明確でなく、そもそも、その具体的な口止め行為については主張立証がないともいえるのであって、情況証拠として考慮する必要はないと考える。

3  被告人の行動について

(一) 被告人の行動総論

本件において、被告人が、事件当日の夕方、B谷とともに外からA山学園に戻って、迎えに出たB木とともにB山のいた管理棟事務室に入り、その後、B山が神戸新聞会館前にY子の写真を持って行くためにA山学園を出たときまで、同室内から外に出ていないことは、関係証拠によりおおかた動かし難い事実と認められる。しかし、B山が管理棟事務室を出た後については、被告人も同室を出て行き、B川からXの不明を知らされるまでにある程度の時間があったのか、それとも同室内にとどまっており、外に出ようとした際にちょうどB川からXの行方不明を知らされたのかという基本的な点を含めて関係者の供述に多くの食い違いがあり、被告人が管理棟事務室を出た(出ようとした)時刻、その際の行動など多くの点が問題となる。

そもそも、前記のとおり、Xは午後七時三〇分ころにもデイルームにいた可能性がある程度高いといえる上、午後八時二、三分には青葉寮にいなかったことが確認されているのであるから、Xが青葉寮からいなくなった時刻、すなわち犯行のためにXが連れ出されたと考えられる時刻が含まれるこの時間帯に被告人が管理棟事務室内にいたことが明らかになれば、ほぼアリバイが成立するといい得る。逆に、この時間帯、特に犯行時刻と考えられるころの被告人の行動が不明であれば、被告人に犯行の可能性があることとなり、さらに、犯行可能な者が限定され、他の者にアリバイが認められるような状況が存在すれば、被告人が犯人である可能性を高める間接事実となり得るし、また、犯行時刻と考えられる時刻の直後に検察官主張のように被告人がA山学園グランドに出ていたことが認められれば、その位置・行動によっては犯行直後の状況を窺わせる間接事実ともなり得る。したがって、ここで重要なのは、被告人がX不明を知らされる前にその行動に不明な時間帯があるか否かであり、さらに、グランド上のどこで、どのような状況で目撃されたかである。

(二) 前提にできる出来事

原判決が第十二の三2(一)(2)(1280頁)にも掲げるように、被告人とB谷及びE田が管理棟事務室に入った以降の出来事に関して、以下の事実、すなわち、

① B谷、被告人、E田の三人が同室に入って間もなく、被告人が夜食用のパンなどを、B山がおはぎをそれぞれ出し、皆でこれらを食べたりお茶を飲んだりしたこと

② B電話があり、同室で電話をとったB谷が内線で青葉寮保母室に転送しようとしたが誰も出なかったため、B谷が直接青葉寮に連絡に行き、B野に取り次いだこと

③ ②との前後関係はともかく、大阪放送(ラジオ大阪)にY子の捜索を依頼するために管理棟事務室からいくつかの電話をかけたが、その順序は、C谷電話、D沢電話、D岡電話の順序であること

④ C林電話があり、その電話によりB山がC林と午後八時四五分に神戸新聞会館前でY子の写真の受渡しをする旨の約束がなされたこと

⑤ ④の電話から間もなくB山が出発したこと

⑥ 右の各事実との前後関係はともかく、午後八時ころに若葉寮にE川電話があり、B木が話をしているときE田が傍らにいたこと

⑦ その後、B川と被告人が言葉を交わし、B川が被告人にXの行方不明を伝えたこと

は証拠上これらを前提にすることができると考えてよい。

(三) 検討の順序

前記のとおり、B山が出発するまで被告人が管理棟事務室に一緒にいたことに疑いの余地はないから、右の各事実のうち、最も重要な意味を持つのは⑤のB山出発時刻である。しかし、この時刻を直接証明しようとする供述の信用性が争われている以上、その信用性の判断の前提として、それまでの関係者の行動の経過を検討する必要がある。

そして、その後に具体的事実の検討に入るが、前提となる間接事実をできるだけ確定しようとするならば、利害関係の少ない第三者の供述等の関係証拠も存在する各電話の時刻・順序から検討を始めるのが相当である。その際、管理棟事務室内の関係者については、右のとおり検察官が意図的な虚偽供述の可能性を主張しているところであるから、立場上第三者といえる電話の相手方の供述を中心にそれ自体で各電話の時刻を検討し、その後、管理棟事務室内の関係者の供述も含めてその順序を検討することとする。ただし、C林電話については、右各電話のうちの最後であり、その直後にB山が出発したことはほぼ間違いないので、②B電話及び③のD岡電話までの一連の大阪放送関係電話とは別個に検討する。

また、これら電話の時刻・順序とともに、E田の行動も大きな論点である。すなわち、E田は、午後七時三〇分ころに被告人及びB谷と管理棟事務室に入っており、捜査段階から公判に至るまで、同室内での関係者の行動について種々の供述をしているが、検察官は、E田が午後七時五〇分ころからXの行方不明が知らされるまで管理棟事務室ではなく若葉寮職員室にいて、問題の午後八時前後には管理棟事務室にはいなかったと主張しているのであって、それが事実とすれば、同人は被告人らの行動のうちの重要な部分について供述する立場にないことになるからである。

以下、電話の時刻・順序とE田の行動を検討した後にその他の考慮要素を加えてB山出発時刻、さらには被告人の行動を検討する。

(四) 電話の時刻について

(1) B電話

B電話については、D原太郎証言並びにC岡九男証言及び同人の昭和五二年五月二日付検察官調書により、この電話の時刻が午後七時四〇分ころであり、通話に要した時間は五、六分前後であった可能性が高いと認めることができる。

(2) C谷電話

C谷電話については、電話の相手方であるC谷が、平成六年の差戻後一審公判廷において電話をかけた時刻についてほとんど記憶にない旨証言しているところ、同人は、いわゆる第一次捜査時の昭和四九年八月二九日付検察官調書で、この時刻が午後七時五〇分ころから午後八時までの間である旨供述し、それがいわゆる第二次捜査時の昭和五二年二月九日付警察官調書において午後七時四〇分ころか七時三〇分台であると早くなり、さらに同年四月二七日付及び同年一一月一一日付の各検察官調書では、午後七時三〇分から午後七時五〇分ないし午後八時前ころとまでしか特定できない旨変遷している。

検討するに、右供述変遷の理由が必ずしも合理的で説得力があるとはいえないこと、昭和五二年二月九日付警察官調書における記載が、C谷本人の意思というよりも、警察官の示唆によって供述変更したことを窺わせるものであること、記録上の当初の供述である昭和四九年四月二一日付警察官調書(刑訴法三二八条書面)では午後八時ころと記載されているところ、これが作成された当時の捜査状況から考えると、C谷電話の時刻が午後八時近くであるというC谷の供述が捜査官の意向に反するものであり、C谷に記憶がないにもかかわらず捜査官が誘導するなどして供述をとる内容ではないと考えられることからすると、当初から記憶がなかったかのような変遷後の供述は採用できず、変遷前の供述である昭和四九年八月二九日付検察官調書の記載がC谷におけるC谷電話の時刻に関するより記憶に近い供述と考えるのが相当である。そして、もともと、かかってきた電話の時刻という一般的には記憶に残りにくい事実について約五か月後になされた供述であること、供述内容自体がある程度の推測をも交えたものであること、捜査官の影響を受けた可能性があるとしても最終的には記憶が明確でないとの供述に至ったことからすると、昭和四九年八月二九日付検察官調書の記載内容も、これを確実なものと考えることは危険ではあるが、その供述内容の具体性からみてもある程度の信用性が認められるのであり、どちらかといえばC谷電話は午後八時近い時刻になされた可能性が高いと考えるべきである。

(3) D沢電語

D沢電話については、電話の相手方であるD沢六江及びD沢七男が、いずれも平成六年の差戻後一審公判廷において証言しているが、時刻についてはほとんど特定できない。そして、D沢六江は、第一次捜査時の昭和四九年六月一七日付検察官調書において、この時刻が午後八時ころから午後八時一〇分ないし一五分までの間である旨供述していたのが、第二次捜査時の昭和五二年二月六日付警察官調書において、「記憶がないが、むしろ午後七時半過ぎころではないか。」旨早い時刻を供述するようになり、さらに同年四月の警察官及び検察官調書(各二通)において、この供述変更の理由を説明した上、「午後七時半から午後八時半ころまでの間で特定はできないが、むしろ七時半過ぎである可能性の方が強い。」旨供述している。また、D沢七男は、第二次捜査時の昭和五二年一月一一日付警察官調書において、「以前の八時過ぎの記憶との供述は誤りかもしれず、七時半から八時半までの間としかいえない。」旨供述し、同年五月及び一一月の警察官(各一通)及び検察官(二通)調書においても時刻が不確かなことの説明をするなどして特定できないとの供述を維持している。

検討するに、D沢六江は供述変更の理由を一応説明してはいるものの、問題のD沢電話の時刻を早めたのは取調べに当たった捜査官の強い示唆が窺われる昭和五二年二月六日付警察官調書であって、右変更理由はその後の供述調書で説明されていること、その説明内容自体も微妙に変化し、真にその理由で供述を変更したと考えるには不自然なものであること、さらに、自らの記憶がなく、D沢六江の記憶がないことに沿うD沢七男証言ないし供述も、同人の第一次捜査時における供述と矛盾していることからすると、C谷電話におけるC谷証言ないし供述と同様、当初から記憶がなかったかのような変遷後のD沢六江及びD沢七男各供述は採用できず、記録上の当初の供述である昭和四九年六月一七日付検察官調書の記載がD沢六江におけるD沢電話の時刻に関するより記憶に近い供述と考えるのが相当である。そして、例えば通話料が夜間割引になる時刻等電話の時刻特定について根拠を示すなど、その供述内容の具体性からみてやはりある程度の信用性が認められるのであり、D沢電話は午後八時ころから午後八時一〇分ないし一五分ころまでの間になされた可能性が高いと考えるべきである。

(4) D岡電話

D岡電話については、電話の相手方であるD岡十郎が平成六年の差戻後一審公判廷において証言しているが、時刻については全く記憶がない。そして、同人は、第一次捜査時の昭和四九年六月二〇日付検察官調書において、明確な記憶がないとしながら推論も加えて午後八時半から九時ころまでの間になるとし、D沢が午後八時一五分ころというならばそれが正しいかもしれないと述べているのであるが、これはその内容からも時刻特定が極めてあいまいなことが明らかであり、D岡電話の時刻特定の証拠としてはほとんど意味がない。(もっとも、刑訴法三二八条書面として提出された同人の昭和四九年四月二一日付警察官調書には、「(電話の時刻について)別にメモ等もしていないので確実な時間は申せませんけれど、後で話します点からして絶体午後八時以前ではなく、私の記憶ではどちらかというと、午後九時に近いころであったように思います。」との記載がある。)

ところで、D岡が、D岡電話の数分後に西宮署へ電話をかけ、園児が行方不明になったとの届出があるか否かを確認したことが認められることから、西宮署への電話の時刻が判明すれば、これからD岡電話の時刻も特定できるといえるので、検察官はこの点からの立証を試みている。しかしながら、このD岡から西宮署への電話については、客観的な記録等による時刻特定の証拠は存在せず、電話を受けた警察官らが平成六年にした差戻後一審公判廷における証言による立証である。そして、右警察官らは、記録に残っている検房終了の時刻、あるいは当日なされたレクリエーション旅行に関する話合いの状況と関連させて、D岡からの電話が午後七時五〇分過ぎとなる趣旨の証言をしているものの、その証言内容は約二〇年前の出来事に関することにしては余りにも詳細かつ具体的に過ぎ、電話時刻の特定に関する他の証人らがほとんど記憶を失っていることと対比して不自然である。事件後の事情聴取の過程で記憶が明確に固定されたと説明しようとしても、他の電話の相手方も事情聴取は受けているのであるし、事情聴取自体が事件から早くて約一年後、多くの者は事件後約三年を経過してなされているのであって、そもそも特異なA山事件当日の出来事とはいえ、その事件が現実化する前にかかってきた電話の状況という一般的に記憶に残りにくいと考えられる事実に関する供述であることに徴すれば、不自然さを払拭するだけの理由とはなり得ない。その上、昭和四九年四月二〇日付捜査復命書によれば、電話を受けた警察官池上岩夫が、事件からそれほど日時が経過していない当時において、この電話の時刻につき「午後九時ころにA山学園に向けて出発した時刻より相当前だから午後八時ころではなかったかと思う。」というようにあいまいな根拠による供述しかしていなかったことが認められるのであり、これらの点に照らせば前記警察官らの証言をそのまま採用することはできない。

したがって、D岡電話については、ここまで検討した証拠による限り、時刻特定についての心証を全く形成することができないといわざるを得ない。

(5) 時刻特定の検討

以上によれば、B電話が午後七時四〇分ころであろうとはいえるものの、その他の電話については、各電話個別の証拠からその時刻を特定することはできず、ただ、C谷電話及びD沢電話については、これらの電話が午後八時前後である可能性の方が高いという証拠状況であるといえる。

(五) 電話の順序について

次に、管理棟事務室内の関係者の供述等も加えて、電話の順序を中心に検討することとする。

ここでは、B電話の後に大阪放送関係電話がなされたのか、それともB電話は一連の大阪放送関係電話の途中でなされたものであるのかという争点がある。すなわち、右に述べたとおり、B電話は午後七時四〇分ころにあったと考えられるから、その後に大阪放送関係電話があったとすると、各個別の電話に必要と考えられる最低限の時間及びD沢電話からD岡電話まで五分待ったとされる時間からみても、その後のC林電話の時刻が午後八時を過ぎ、被告人にアリバイが成立する可能性が極めて高くなるからである。

(1) 管理棟事務室内の関係者の供述変遷について

国賠訴訟以来、B谷及びB山は、「午後七時四五分のB電話が最初であり、その後C谷電話、D沢電話、D岡電話があった。」旨供述し、E田及び被告人は「電話の順序についてはあいまいな記憶しかない。」旨供述している。これらの供述のうち、少なくともB谷及びB山の供述は弁護人主張の電話順序に沿うものであるが、検察官は、右各供述は信用できず、むしろ右四名の供述の変遷状況等をみれば、これらがB谷に同調して虚偽を述べたものであることが明らかであるとし、これらが虚偽であること自体から、又は、右の者らの当初の供述内容から、検察官主張事実が真実であることの裏付けとなり得るかのような主張をしている。以下においては、右検察官の主張を検討する。

(ア) B谷の供述

電話の順序に関するB谷の供述は、当初からB電話が最初であり、その後大阪放送関係電話があった旨の内容であり、それ自体に特に不自然なところはない。

これに対し、検察官は、B谷の供述が記載されている昭和四九年三月二八日付捜査復命書によれば、B谷は当時「D沢電話、C林電話、J電話があり、次いで午後八時前にB電話があった。」旨、右と矛盾した供述をしていると主張する。しかし、右捜査復命書の記載をみると、午後七時半ころからB山らとお茶を飲みながらY子の捜索記録作成の話をして、さらにサンドイッチやおはぎを食べたこと、D沢電話の後にC林電話があったこと、C林電話のころにJ電話があったと被告人が述べたこと(必ずしも検察官主張のようにJ電話があったことが記載されているとは読めない。)、午後八時前にB電話があり青葉寮に伝えたこと、その後午後八時一五分にB山が出発したことが順次記載されているだけであり、検察官のいうようにJ電話の話に「次いで」B電話があったと記載されているわけではない。各出来事が実際に存在した順序どおりに記載されているものと理解すれば検察官の主張は成り立つけれども、D沢電話とC林電話との間には「その後」の語が、C林電話とJ電話の話との間には「その頃」の語が、B電話と園長出発との間にも「その後」の語があるのに対し、B電話の前にはそれ以前の記載事項との時間的関係を示す語彙がないことや、そもそもこれが捜査復命書であることを併せ考えると、D沢電話、C林電話及びJ電話の話の説明をしたところで、「そういえば午後八時前にB電話があった。」ということを他の電話との関係を意識せずに述べただけであり、その述べた順序で記載されているとも考えられるのである。そして、事実が記載のとおりの順序であるとすると、午後八時前にあったとされるB電話が終わって、次の記載事項である午後八時一五分のB山出発時刻まで一〇分以上の時間が生じるのに、この間の出来事について特に何も記載されていないこと、少なくとも現実にC林電話はB電話より後であり、この点についてB谷に記憶違いが生じる可能性は低いと認められることも、B電話が他の電話等との順序を意識して述べられて記載されたものではないことを窺わせる事情といい得るのである。右捜査復命書の記載を断定的に解釈した検察官の主張は採用できない。

(イ) B山の供述

B山は、国賠訴訟及び本件公判廷においては、B谷と同様、B電話が最初で、その後大阪放送関係電話があった旨供述しているが、第一次捜査時から一貫しているわけではない。そして、B山は、この変遷を記憶喚起によるものであるとし、記憶喚起の過程を、本件公判廷において「昭和四九年五月五日に退職して仕事を離れた後に、一生懸命事件を振り返ってみて、だんだん電話の順序を思い出した。」旨説明している。この電話の順序についてB山がする記憶喚起過程の説明は、それが真実であるか否かにわかに判断することはできないが、一応の説明をなし得ているということができる。

これに対し、検察官は、まず、B山が、「B谷の説明は自分の記憶と必ずしも合っていなかったので、捜査官には自分の記憶で供述した。」旨供述をしている点をとらえて、これは、B山の「電話についてあいまいな記憶しかなかった。」旨の供述が真実ではなく、むしろ、B谷の説明とは反対の「放送依頼の電話の後にB電話があった。」との記憶があったことを意味するものであるとし、そのことは、その順序で電話があったとのB山の供述記載がある昭和四九年三月二八日付捜査復命書によっても裏付けられる旨主張する。しかし、前者についていえば、「必ずしも」という言葉自体がその結論のあいまいさを示している上、「記憶と合っていない。」とは、まさにその記憶があるわけではないということしか意味しないのであって、検察官の主張するようにB谷の説明に反する記憶がある場合を含むことはもちろんであるが、B山の説明するようにどちらの記憶も明確でない場合(全くの白紙というよりも、何らかの記憶があることは意識できるが、どちらの記憶であるか十分に想起できないような状況というべきであろう。)もこれに含まれ得るのであって、そのような言葉の一端をとらえて、当時のB山の記憶状況を推認することはできない。むしろ、根拠となる可能性があるのは、そのときの思考過程まで具体的に記載され、実体験であるかのようにみえる昭和四九年三月二八日付捜査復命書の記載であるが、これについては、同復命書に記載されている「大阪放送からの返事」というのが、D沢電話の後ということかD岡電話の後ということかはっきりせず、前者であれば「B谷が電話を待っていた。」ことが客観的事実に反しており、後者であれば、同月二六日付捜査復命書で「大阪放送へ電話をして了解を取る。」と供述したことと矛盾した理解困難なものであって、一見すると実体験のように見える記載も、単なる思いつきによって述べた推理がたまたま捜査復命書に記載されたと考える方が自然なものである。

次に、検察官は、①「B山は、『退職後に一生懸命事件を振り返ってみて、だんだん思い出した。特にきっかけはなく、すっと思い出した。』旨供述するが、それまでも電話の順序についての情報を得ながら記憶喚起をなし得ず、退職後に、何の新たな情報もきっかけもなく思い出すのは不自然である。」とした上、②「B山が、国賠訴訟において、『電話の順序については昭和四九年四月二三日付司法警察員面前調書作成の際の事情聴取時にも国賠証言どおりの記憶を喚起していた。』旨の証言をし、本件公判廷において、『国賠証言のときは電話順序について右事情聴取時にも思い出していたと記憶していたが、逮捕されて検察官から取り調べられる中で当初からの記憶と思っていたことが違っていたことがわかった。』旨の供述をしているが、これは、矛盾しており、国賠証言の虚偽性を示すものである。」と主張する。すなわち、B山の公判供述による記憶喚起過程である、「昭和四九年当時、電話順序が被告人のアリバイ立証上重要な意味を持つことを認識し、その記憶喚起に努めたのであり、しかもB谷から説明を再三聞いたものの自己の記憶と合致せず、記憶を喚起できなかったが、退職後にようやく記憶喚起できた。」ことが真実であれば、国賠証言時にこれを忘れて「当初から記憶していた。」と記憶違いするはずはなく、仮に、そのように記憶違いしていたならば、国賠証言時には、警察官調書の記載内容と国賠証言の内容とは同一であるとの認識を有していたはずであるから、国賠証言における供述内容と調書記載内容の食い違いを指摘されてもその理由を記憶に基づいて説明できるはずがないのに、B山は、警察の事情聴取に対し国賠証言どおりの電話の順序を供述したにもかかわらず、これが調書に記載されなかったことを前提に、その理由を、単なる推測としてではなく、当時の記憶として説明して証言しているのであって、これは、当初から記憶していたかのように意図的に虚偽を述べたものであることを物語るというのである。

しかし、①についてみると、人の記憶喚起過程は単純なものではなく、あるきっかけがあれば必ず一定の記憶が喚起されるという関係にはない。特に、B山の場合は、事件直後はXとY子が殺害されたという極めて重大な事件による精神的衝撃の影響があること、捜査段階当初においては園長という責任のある立場で多忙であったと認められること、退職後はその環境が大きく変わったことからすれば、B山の説明がそれ自体不自然であるとはいい難い。また、②についてみると、「記憶違いするはずない。」との点については、人の記憶喚起過程が単純にこうあるべきだなどといえないことは①と同様である上、検察官は「記憶喚起に努めた。」という意識的な事実があれば忘れ難いはずだとの点を指摘するものと考えられるところ、警察官からの事情聴取時にも記憶喚起に努めたとはいえ、それは園長として多忙な中で、管理棟事務室での出来事全体に関する事実についてのものであり、必ずしもその中の一事項に過ぎない電話の順序の点に関することが印象に残るとはいい切れない。一方、退職後に喚起した記憶については、国賠訴訟の準備の中などで繰り返し想起し、また、電話の順序が特に重要な問題であると意識するうちに強固な記憶となったと考えられるから、後に喚起した記憶が当初からの記憶であるように思い込むことも十分あり得るのであって、これに、国賠証言が、そのような記憶喚起の時点から二年近くの日時が経過してなされていることをも考え併せると、記憶喚起過程を記憶違いするはずないなどということはできない。また、国賠証言での自己の警察官調書の記載内容と右取調べ当時供述したことと関係の説明については、B山の本件公判廷における供述を前提にすれば、確かに経験しているはずのないことの説明がなされているといわざるを得ないものではあるが、これは、「(警察官にも国賠証言と同じ順番の話を)多分したと思うんですけれどもね。」という証言からも理解できるように、自分としては当時も国賠証言のときと同じ記憶があったと思っていたために、そのような供述をしたはずだと推測して述べ、続けて、調書の記載がそれと違っている理由を聞かれたため、当時の取調べ状況に照らして考えられる理由を推測して説明していることが窺われるのであって、これが、意図的にこの点につき虚偽を述べたものと判断する根拠とはならない。なお、右説明の中で、推測ではなく記憶であるかのような表現部分が存在するが、これは、自己が警察官に対しても国賠証言と同じ供述をしたはずだとの自己の推測を正当化するために、推測した理由を自己の記憶喚起ともみられるような表現にしてしまったものと考えられ、厳密には相当な表現ではないかもしれないが、尋問の流れのある証言では一般にもしばしばみられることであって、全体として虚偽供述を意図していたものと推認する根拠にはできない。

(ウ) E田の供述

E田は、国賠訴訟及び本件公判廷において、電話の順序についてはC林電話が最後であることははっきりしているが、その他の電話の順序はあいまいであると供述しているところ、これも、第一次捜査時から一貫しているわけではない。そして、E田は、この変遷について、電話の順序については極めてあいまいな記憶しかなかったにもかかわらず、警察官から無理に順番を付けさせられたため変遷した旨供述している。このE田の供述も、これが真実であるか否かをにわかに判断することはできないものの、そもそもこれらの電話が長くとも数十分内にかかってきた電話であること、同人が自ら各電話をかけたり受けたりしたものではないこと、その後に園児が死体で発見されるという衝撃的な事件が発生していることなどからすれば、電話の順序のような事柄について記憶が明確でなかったことは十分考えられる上、警察官による取調べ状況に関する部分も、その内容に特に不自然な部分はなく、これに反する警察官証言と対比しても単純に排斥し難いものであって、全体としてその供述するところが事実である可能性は否定できない。

これに対し、検察官は、E田が、昭和四九年四月二日には「被告人が大阪放送の知人に電話をし、途中でB谷と替わり、しばらくして再びB谷が大阪放送に電話した。その後(大阪放送との話が終わったころ)、父兄から電話ありB谷が場を離れ、二、三分後に戻る。お茶を飲みながらボランティアに電話。間もなく父兄から電話があった。」旨(取調官の求めにより同日作成したE田自身のメモ記載にもよる。)供述し、その後、同月二〇日、二一日及び二六日と、最後の電話が誰からかわからないとするなど多少の内容の違いはあるものの、基本的には同様の順序を供述していたが、同年六月二四日以降は、捜査に非協力的な態度をとり、電話の順序についてもあいまいな記憶しかなく、これまでの供述は取調官から他の供述者の供述をもとにいわば押し付けられたものである旨供述するようになったとの供述経過をとらえ、これをみれば、E田が、B電話の時期について、それが最初の電話ではなく、D岡電話のころであったとの認識を有していたことは明らかであり、その後「電話順序は覚えていない。」旨の供述に変えたのは、被告人のアリバイ主張にとって障害となるからと考えたことによるものと推認し得る旨主張する。

しかし、前記のとおり、E田が国賠訴訟及び本件公判廷においてする供述変遷の説明はそれ自体一応の合理性を有しているのである。E田が捜査段階当初において、B電話が最初ではない旨供述していたとはいえ、もともと昭和四九年三月二〇日付及び同月二四日付各捜査復命書にはC林電話やそれに関連する事実だけがごく簡単に触れられているだけで、同月二五日付及び同月二七日付各捜査復命書にもB電話についての供述はないこと、同月二九日付捜査復命書にはB電話が大阪放送関係電話より後にあったとして記載されているが、これはC林電話よりも後だったとも記載されており、同年四月二日にC林電話より前だったと変更されていること(これも、B電話がD岡電話よりも後となる点において現段階で検察官が真実であると主張している順番とは異なるものである。)、直接電話の順番に関するものではないが、被告人がサンドイッチを、B山がおはぎをそれぞれ出して、皆でこれらを食べたりお茶を飲んだのがいつかという点も一定せず、右各電話の前になったり後になったりしていることからすると、E田の供述経過からみて管理棟事務室内での出来事の順番が一貫していたとは到底いえない。この捜査段階当初の供述の不安定さに照らせば、E田自身が述べる、「昭和四九年四月二日の取調べの際に記憶があいまいなままであることを許されず、無理に順番を付けることを求められた。」旨の弁解はむしろ事実に合致するとの推測が働くのである。検察官がいうように、E田が捜査段階当初においてB電話がD岡電話のころであったとの認識を有していたと考えることはできない。

(エ) 被告人の供述

被告人は、国賠訴訟及び本件公判廷において、電話の順序については大阪放送関係電話の中の順序は記憶しているものの、B電話やC林電話との関係は覚えていないと供述しているが、これも、第一次捜査時には一部異なる供述をしている。この供述変遷につき、被告人は、基本的に、C谷電話とD沢電話とD岡電話の三つがその順序であることは覚えていたが、他の電話の順序は記憶がなかったために生じたものである旨説明しているところ、少なくとも、当時の供述内容をみても電話の順序が一定していないことは、右説明に沿うものであり、この説明を明確に否定することはできないと考えられる。

これに対し、検察官は、被告人が、逮捕勾留後で自白前の昭和四九年四月一一日に「C谷電話、D沢電話、C林電話、J電話、D岡電話、B電話の順に電話があった。」旨供述し、いったん自白したものの完全否認に戻った同月二六日及び二七日にも「C谷電話、B電話、D沢電話、J電話、D岡電話、C林電話の順に電話があった。」旨供述している点をとらえ、当時の「最初の電話はB電話ではなくC谷電話である。」旨の被告人を供述は同人の記憶に基づく真実の供述であって、これが釈放後の同年六月二七日には「B電話、J電話、C谷電話、D沢電話、D岡電話、C林電話の順であった。」旨B谷供述に沿うように明確に供述し、その後電話の順序は覚えていないとの供述に変わっていることは不自然であり、明らかに虚偽である旨主張する。

しかし、被告人の逮捕勾留中の供述は、被告人の弁解によれば、取調官からB電話が最後の電話であるとの誤った情報を教示されたことによるというのであるところ、被告人の、例えば「午後七時半から七時四〇分のたった一〇分位の間に大阪放送関係の電話ができるかどうか疑問を感じて尋ねたところ、取調官から一蹴された。」との供述と、取調官の供述とを対比して検討しても、右被告人弁解が虚偽であるとの判断はできないし、昭和四九年四月二六日、二七日の供述調書における電話の順序に関する記載は被告人自身が述べたものであるとしてその記憶を云々しようとしても、その供述内容は直前の調書における順序とJ電話、D岡電話及びC林電話とB電話との関係で大きく異なっているだけでなく、検察官が真実であると主張する順序とも異なっているのであって、そのうちのC谷電話が最初であったという部分だけを取り上げて、これが真実に合致する記憶であると評価することは不当である。また、同年六月二七日の供述については、被告人は、国賠訴訟の準備等で確認された事実を述べたのだと思う旨説明しているところ、確かに、右六月二七日の供述は、被告人が電話の順序を当時そのとおり記憶していた旨述べているとは必ずしも解することができないのであって、検察官の主張は前提を欠くものといわざるを得ない。

結局、被告人の覚えていないとの供述が虚偽であることが明らかであるとする検察官の主張は採用できない。

(2) D岡電話とB電話の重複についての検討

電話の順序に関しては、差戻前一審以来取り上げられていたD岡電話とB電話との重なりの問題がある。すなわち、検察官の主張によると、D岡電話の際にA山学園の回線が使用中であったことと、当時B電話の他にA山学園の回線を使用する電話でD岡電話と重なる可能性のある電話が存在しないことの二つの事実から、D岡電話とB電話が重なり合っていたことが明らかであり、これにより右各電話がほぼ同じ時刻であったことが証明されているというのである。

そもそもA山学園の電話はいわゆる押しボタン式電話システムが採用されており、設置されている各電話機は、同学園の電話番号の一回線だけでなく、関連施設である北山学園の電話番号の一回線及びA寿園の電話番号の二回線もボタン操作により使い分けることができるようになっていたが、B谷の昭和四九年七月二日付検察官調書には、「D岡電話の際にはA山学園の電話回線が使用中であったため北山学園の電話回線を用いて北山学園の番号を伝えた。」と受け取れる供述記載があるところ、被告人も同年六月二八日の取調べの際にこれに沿う供述をしており、また、B谷の手帳のうち、弁護団会議が開かれた昭和四九年五月三〇日の部分には、「詰まっていたから北山のTelでした だから ラジオ大阪に北山のTelをおしえた」と記載されている。これらを素直にみれば、D岡電話の際にA山学園の回線が使用中であったと考えられ易く、そうだとすれば、それはB電話以外には考えられないとする検察官の主張に結び付くことになる。

そこで検討するに、D岡電話とB電話の重なりを考察する際に見落としてはならない事実がある。それは、B電話については、B谷がこれをわざわざ青葉寮まで出向いてB野に取り次いでいるのであるから、B谷自身がD岡電話のとき点灯していた外線ランプがB電話であるかあるいはB電話でないか最もよく知り得る立場にあるということである。したがって、B谷がD岡電話をしていたときに重なっていた電話について、B谷自身はそれをB電話であると知っていたか又はB電話でないと知っていたかのいずれかであると考えてよい。検察官は、この前者であることを前提に、B谷は、B電話によるA山学園の外線ランプの点灯が、午後八時ころと判明しているE川電話であるかのように事実をすり替え、これを被告人のアリバイの裏付けに利用しようと考えたものと推認し、被告人もそのB谷のアリバイ工作に合わせるべく、B谷の供述を裏付ける内容の供述したと認められると主張する。

しかし、D岡電話と他の電話との重なりなどは、B谷とそばにいた被告人ら以外誰も知り得べきことではないから、B谷か被告人が言い出さなければ外部にわかるはずのない事柄である、検察官の想定している状況を前提にすると、B谷にとっては、D岡電話が当時A山回線の電話と重なっていたことを捜査官側に知られれば、それがB電話に結びつけられ、D岡電話が午後八時ころであったとの自分のそれまでのアリバイ工作が無に帰す可能性が高まるのであるから、基本的にはこの電話の重なり合いを表に出すことは危険と考えられるのであって、できる限りこれを隠そうとするのが自然であろう。仮に、弁護団会議等でE川電話が午後八時ころであるとの情報を得て、これがA山回線を使用していたと軽信し、これとD岡電話が重なっていたことにすればD岡電話が午後八時ころであったことの裏付けにできるというようなことを思いついたとしても、現実にB電話と重なっていることを知っているB谷が、前記のような甚だしい危険をも顧みずB電話とE川電話をすり替えるという新たなアリバイ工作に及ぶ可能性は低いと考えられるし、そのようなアリバイ工作に及ぶならば、検察官も主張するように、もしE川電話が北山回線を使用してなされていたとしたら、工作はたちどころに崩れてしまうのであるから、十分な時間と余裕があったと思われるB谷において(弁護団会議は昭和四九年五月三〇日で、B谷の検察官調書は同年七月二日付である。)、E川なりB木に、E川電話がどの回線でなされたのか一言確認するくらいの注意は払うのではなかろうか。検察官は、B谷がB電話とE川電話のすり替えを行ったとしながら、E川電話がA山回線を使用したものではなかった場合に自らの工作が破綻を来すことを考え、A山回線を使用していたと明確に供述することを避け、推測であるかのように供述したものと考えられるとさえ主張しているが、そこまで深慮遠謀をめぐらすならば、E川なりB木に対して確認をする方が余程容易で確実である。B谷の右検察官調書の内容自体、そのような深慮遠謀に基づくものとは到底思われない。検察官の主張は、右のようにB谷は十分考えをめぐらせた上ですり替えを企てたというが、前記のように危険極まりない電話の重なり自体を表に出したり、B木かE川に使用回線を確認していない軽率さが併存してしまうことになる不合理を説明できない。

以上のように、B谷がD岡電話のとき重なっていた電話がB電話であることを知っていて、これをE川電話にすり替えようとしたが、たまたま予期に反してE川電話に北山回線が使用されていたため、その工作が失敗に終わった旨の検察官の主張には疑問が存在する。そこで、B谷の右検察官調書や手帳の記載が検察官が主張するようにしかみることができないものかどうかについて、もう一度見直す必要がある。

まず、A山回線が使用中であったとの点について、弁護人は、B谷の右検察官調書等が「D岡電話の際に外線のランプがついていたこと」と「D岡に北山の電話番号を答えたこと」のみが事実についての記憶としての記載であり、その他はB谷の推理推測を含む形で記載されているとして、「証拠上認められる同人の当時におけるこれらの時刻に関する認識状況からすると、事実としての記憶から誤った推論をした可能性があること、すなわち、B谷がD岡電話をかけた際には、A山回線以外の回線が使用中であったのに、B谷において、後にE川電話が同じ時刻ころに存在したことを知ったため、使用中であった電話がE川電話であると推理し、E川電話がA山回線を用いたものであるとの誤った認識から、A山回線が使用中であったとの結論に至った可能性があることなどを考慮すれば、A山学園の電話回線が使用中であったと認定することはできない。」旨、さらに、「当時、A山学園の電話回線が外部からつながりにくいおそれがあったから、B谷がA山学園の電話回線を使用しながら、あえて北山学園の電話回線を教えた可能性もある。」旨の主張もする。

確かに、弁護人の主張によれば、B谷は午後七時四〇分か四五分ころB電話を青葉寮のB野に取り次ぎ、そして、午後八時ころD岡電話をかけたというのであり、そうだとすれば、B谷にとってD岡電話の時点ではB電話などは自分が一五分か二〇分前ころに済ませた過去の出来事になっていて、既に念頭になくなっていた可能性が強いといえるし、B谷もその旨本件の公判廷で証言している。そのようなときに電話の時刻特定が問題とされ、その一つの判断要素として、E川電話が午後八時にかけられたとの情報を得て、時間帯からいってこれがD岡電話と重なっている可能性があるとすると、できればD岡電話が午後八時ころであることの裏付けになればとの願望を持ったとしても何ら不思議ではない。B谷においては、D岡電話の時刻を証明して念願である被告人のアリバイ証明に役立てたいと考え、あれこれと想像や推測をたくましくして供述することは十分考えられるが、それは検察官のいう電話のすり替え工作とは全く異質のものである。検察官は、この点につき、B谷が本件公判廷で、同人が検察官に供述した内容を覚えていないとか、D岡電話はA山学園回線を使用し、電話の相手方にもA山学園回線の電話番号を教えた旨証言しているのは、前記B谷の検察官調害や手帳の記載に照らし、明らかに虚偽である旨主張するが、右のように、B谷が、D岡電話とE川電話との重なりが立証できたらこれまで主張していたD岡電話の時刻が裏付けられるとの自らの願望のもとに想像や推測をまじえてつい述べたところが、その後逆に検察官側からの攻撃材料にされてしまい、しかるにこれに対して有効・適切な反論ができなかったため、そんなはずはないのにとの困惑からそのように証言してしまったと考えれば、理解できないほどの弁解ではなく、虚偽を述べたとまではいえない。前記B谷の検察官調書と手帳の記載そのものの見方としては、検察官の主張の方が一見素直な見方であることは否定できないが、それが決定的なものであるとまではいうことはできず、他の証拠をも総合して考えれば、「D岡電話の際にA山回線が使用中であった。」との供述内容が事実ではないと考えることも可能というべきである。

次に、検察官がもう一つの根拠とする、「D岡電話がなされた当時、B電話の他にA山回線を使用してD岡電話と重なる可能性のある電話が存在しない。」という事実が認められるか否かをみてみる。この点については、検察官が、A山学園、北山学園、A寿園及びA山ハウス等の各施設に当時勤務していた者の供述によりこれが立証できる旨主張しているので、各供述を検討すると、青葉寮男子保母室及び若葉寮職員室の電話機については、D岡電話があったと考えられる時間帯において青葉寮男子保母室でのB電話以外に使用されていなかったと認めることが可能であるが、他の電話機については、関係者が初めて供述を求められたのが事件から約三年後であること、電話をかけたか否かという事実自体がそれほど記憶に残るような特異な事実ではないことなどからして、これが存在しなかったといい切れるものではない。たまたまD岡電話と重なるような時刻の電話が、それもA山回線を利用してなされた可能性はそれほど高くないとはいい得るものの、明確に否定できない以上、他の電話の有無は不明といわざるを得ない。

以上によれば、B谷の検察官調書における供述及び手帳の記載が検察官主張のような状況でなされたと考えることには疑問があり、同供述及び記載のなされた経過が必ずしも明らかではないものの、これをもってD岡電話の際にA山学園の回線が使用中であったとまで断定することはできず、また、A山学園の回線を使用した電話がどの程度あったかも不明であり、したがって、B電話がD岡電話と重なっていた可能性についても一概にいえず、検察官主張のように決定的なものとは到底いえない。

(3) B一回目電話

また、検察官は、D原太郎がB電話の前の午後七時三〇分ころにもA山学園へ電話をかけた際にこれが通話中であったと証言していることから、その通話中の電話がC谷電話ないしD沢電話であったと推認されるとして、B電話の前に大阪放送関係電話がなされたことの根拠としようとしている。この点、右の午後七時三〇分という時刻が正確ではなく、B山が副園長B海と話した電話である可能性があるとの弁護人の主張は、証拠上十分な説得力を有するものではないが、前記のとおり、A山学園関係施設からもA山学園の電話番号の回線で電話をかけられるところ、このような電話がなかったとは断定できないこと、かけ間違いや電話機の誤作動により通話中でないのに通話中の信号音がなった可能性も皆無とはいえないことからすると、このD原太郎の証言も、電話の順序について決定的な証拠とみることはできない。

(六) E田の行動についてⅠ(E田は終始管理棟事務室にいたのか)

(1) はじめに

前記のとおり、検察官は、E田は午後七時五〇分ころからXの行方不明を知らされるまでは若葉寮に行っていた旨主張しているが、その直接的な最重要証拠はB木証言である。そして、若葉寮にXの行方不明を知らされるまでE田が同所にいたという点ではB川証言もその証拠となり、このB川が若葉寮に知らせに来たことは他の若葉寮職員の供述でも裏付けられるとする。

(2) B木の証言

B木は、確かに検察官主張のように、自己が午後七時五〇分ころに若葉寮職員室に行ったときE田が在室しており、そこへB川がXの行方不明を知らせに来るまでの間E田はずっと同室にいた旨の証言をしている。しかしながら、B木証言は、原判決が第十二の三2(二)(3)イ(1364頁)において、午後八時二〇分ころにE田及びB谷が若葉寮職員室にいたかどうかの問題を検討する際に指摘しているように、昭和四九年四月当時の供述内容を変遷させて証言したものであるから、B木が立場として第三者的であるというだけで変遷後の供述である証言が信用できることにはならない。そしてB木証言を検討すると、その変遷理由の合理性の面からも、変遷後の供述である証言内容の面からも、その信用性が高いとはいい難い。

すなわち、供述変遷の面でみると、例えばB木が若葉寮職員室に入った際のことについての、同人の昭和四九年四月当時の警察官及び検察官調書の各記載は、これらを素直に読めば、「自分が職員室に入ったときにE田は職員室にいなかったと記憶しており、その旨警察官にも述べたが、その記憶は明確なものではなかったため、検察官から確認されると、もしかすればいたのかもしれないとして述べた。」というように理解するのが相当というべく、B木が証言するような、「自分自身はE田がいたとの記憶があり、警察官にもその旨述べたが、警察官からE田はいなかったのではないかと言われたために供述をぼかした。」記載とは考え難い。仮にB木証言のような状況ならば、調書の記載方法が逆になるはずであり、当時の捜査状況から考えても、B木においてE田が若葉寮にずっといた記憶がある旨述べているものを、E田本人のこれに反する供述があるからといって捜査官の側でわざわざ右調書のような記載にすることは考え難い。また、Xの行方不明を知らされた状況に関する供述変遷が、「供述をぼかした。」ということで説明できないことは、原判決が詳細に述べているとおりである。そして、このような供述変遷理由の説明が、昭和五三年当時の検察官調書において、「警察官の話に幻惑された、警察官に合わせた。」という形で始まっており、昭和五二年当時の供述変遷の際には述べられていないことも、当該調書において事件当日のE田の在室に関する記憶が明確に記載されていることとの対比で不自然さを免れない。

また、供述内容の面でみると、右に述べたように、B木は若葉寮職員室にE田が終始いた明確な記載があると証言するのであるが、終始いたはずのE田の行動については極めてあいまいであり、昭和五二年、五三年の供述調書と対比しても多くの点でその内容が変遷している。昭和五二年以降の供述に具体性がなく、証言時にもあいまいなのは、時間の経過からやむを得ないという面もあるが、現実になされた証言内容は、時間の経過により記憶が薄れたというようなものではなく、多くの事実関係、特に昭和四九年当時の取調べ状況についてはほとんど記憶がないとしながら、E田の行動中、特定部分の細かな具体的事実については証言し、これについて断定的に述べたかと思うと推測によるかのように証言したり、事実関係自体を変化させたりしているのである。事実に関して記憶があるとしていったん断定的に述べた部分においても変遷しているのであって、一体どの証言が推測であり、どの証言が本当に記憶のある部分であるのかが判然としない。E田がいたという記憶が本当に残っているのであれば、その根拠となる何らかの基本的な場面が記憶にあってしかるべきであるのに、午後八時ころのE川電話の際のやりとりと、「何か手伝いましょうか。」というやりとり以外は、具体的場面で記憶が残っていると評価できるようなものはない。例えば、原判決も指摘するとおり、B木は、E田の行動につき、B木の隣に座って行動記録をつけていたと思うと証言しているが、B木もカルテ(行動記録)の整理をしていたというのである。そうだとすれば、その作業のために必要とされる業務日誌のやりとりなどについて記憶があるはずであるのに、これについて全く供述がないなど、裏付けを欠いた不自然な証言に終っている。

ところで、E田も、二人の間で前記二つのやりとりがあったことを認めており、「何か手伝いましょうか。」と言われたのは糊を取りに若葉寮職員室へ行った二回目のときのことであり、それ以外に記憶に残るような会話を交わしていない旨供述する。検察官は、両名はそれほど親しい間柄でもなく、B木は退職間際で忙しかったから、E田が若葉寮職員室にずっといたにもかかわらず会話が少なかったとしても不自然ではないというが、もし午後七時五〇分ころから午後八時二〇分ころまで終始同じ部屋にいたのであれば、やはり二人の関心の的であるY子捜索のことなどについてもっと会話があってしかるべきと思われる。B木とE田の両方にとってはっきりしているのが右二つのやりとりだけという事実は、はからずも、E田は終始若葉寮職員室にいたのではなく用事で二回だけ同室を訪れ、E田が供述するように、それぞれその際前記のような会話を交わした事実を裏付けるものとみることもできる。

さらに、証人尋問調書を読むと、B木証言が質問に対する応答の仕方などそれ自体において真摯さに欠けると思われる部分があり、供述経過に照らしても、質問者に対して迎合し易いことなど全体としての供述態度に問題があることは、原判決が述べるところに同感できるのであり、B木が、証言すべき結論、すなわちE田が終始在室していたという具体的事実による裏付けを欠いた結論に固執して証言しており、真に記憶に基づいて証言してはいないのではないかという疑問は、これを否定することができない。

右に述べたような理由から、B木証言に関しては、その証言自体、かなり信用性が低いものといわなければならない。

(3) B川の証言

次に、B川証言をみると、同人は、この点について「若葉寮に行ってXの所在を尋ねた際、職員室にB木のほかB谷及びE田がいた。」旨証言している。この点の信用性は、Xの行方不明を誰が若葉寮へ知らせたかということとも密接に関連するが、原判決が第十二の三2(二)(3)ウ(1390頁)において述べるように、B川の証言は、その供述の変遷の面からも、供述の内容の面からも信用性はやはり低い。何より、B川は、青葉寮の当直者であったため、事件直後から幾度も自己の行動について取調べを受け、午後八時過ぎにXの行方不明を知ってから午後八時三五分ころに副園長B海へ電話をかけるまでの間の出来事について、順序、経過時間をも検討しつつ詳細に説明していたことが窺われるのであるから、単なる一瞬の出来事や知覚ならばたまたま思い出せないことがあるとしても、自己が若葉寮にXの行方不明を伝えに行ったというような行動について、事件直後からの継続的な取調べにおいて思い出せなかったということは考えにくい。このB川が若葉寮へXの行方不明を知らせに行った旨の同人の供述が初めて現れるのは事件から約三年も経過した昭和五二年の供述調書であって、昭和五〇年五月の再現実験の際に思い出したという弁解は、その実験の約二か月後である同年七月一八日付警察官調書(二通)及び同月一九日付検察官調書において、この点につき触れられていないことからも信用し難い。事の推移という観点からみても、B川は、被告人から青葉寮にとどまっているように言われ、事件の状況が不明であるその時点において園児の安全確保のために施錠の確認をしたのであり、電話でも連絡できるのに不用意に青葉寮を離れるのは不自然であることも指摘されよう。

さらに、原判決が第十二の三2(二)(3)ウ(カ)(1407頁)で指摘するように、B川が、X行方不明当時の青葉寮宿直者であり、自分が犯人として疑われることを懸念していたこと、被告人とB谷の両名を犯人であると疑い、両名に強い反感を持っていたことなどの当時の心情や、客観的な事実に反すると思われることでも、それを真実と思い込みやすく、いったん思い込むと容易に疑問を抱かず、断定的に供述する傾向があることが窺われる点なども、その供述の信用性の判断に当たっては念頭に置く必要がある。

なお、B川が若葉寮にXの行方不明を知らせに来たことは、若葉寮職員の供述によっても裏付けられているかのようにみえるが、Xの行方不明を誰から聞いたかについての各供述の経過をみると、C内は、当初「被告人と思ったがB木かもしれない。」(昭和四九年四月二四日付検察官調書)、「被告人らしい女性が私に向かって『X君がこちらに来ていませんか』と言った。私はその声を聞いて相手の女性がその声の特徴からかねて聞き覚えのある被告人であることが、はっきり分かった。以前検察官に違う趣旨を述べたのは間違いだった。」(昭和五〇年八月七日付検察官調書)旨供述していたのが、「被告人かB川であった。」に変わり、さらに、声の特徴から識別したとしていたのに、「制服から考えるとB川である。」と変化し、D谷は、もともと「よくわからない。」(昭和四九年四月二三日付検察官調書)としていたのが「B川と直感した。」に変わったものであって、いずれも事件に近いころには知らせに来たのがB川であるとは供述していなかったどころか、中には被告人であることがはっきりわかったとさえ供述していたことがあったにもかかわらず、なぜかB川の供述と同様に昭和五二年以降に修正されているのであって、これを素直に記憶喚起によるものとは考えにくい。

また、B木は当初からB川と述べ、後にはその顔までも見たと証言しているが、当初は声で判断したもので明確ではなかったとしているのであって、B川であるとの判断が必ずしも確実ではない。逆に、当初の供述中の、「声でB川と思ったが、B川に聞くと来ていないと言っていた。」(昭和四九年四月一五日付検察官調書)という事実関係は、B木の判断違いであったとすれば単純に納得できる話であるが、事実B川が若葉寮に知らせに来ていたのであれば、B木から来たのではないかと確認されながら、なおもB川がその記憶を喚起できなかったということになるのであり、むしろ知らせに来たのが被告人であることに整合するものである。

(4) E田の供述

これに対し、そのころ基本的には管理棟事務室におり、その間、用事で若葉寮職員室へ行ったことはあるが、Xの行方不明は管理棟事務室で聞いたとするE田の供述は、同人に対する捜査復命書が存在する本件事件の翌日である昭和四九年三月二〇日の時点から一貫しており、特に、Y子捜索のための捜索表を作ろうとして紙を糊で貼っている際にXの行方不明を聞いたとの点は具体的であって、その供述中にはE田が若葉寮職員室にずっといたことを窺わせるものは存在しない。確かに、管理棟職員室内での出来事の順序及び時刻並びに若葉寮職員室に行った回数が一回か二回か及び時刻等において種々の変遷がみられるのは事実であり、これらの変遷が実際は体験していない事実を供述しているために生じているとの見方もあり得ないではないであろう。しかしながら、実際に管理棟事務室にいなかったのに、これをいたように供述しようとする理由として検察官が主張するのは「アリバイ工作」である。「アリバイ工作」には、前記のとおり根本的な疑問があるが、特にここで問題にしているE田が管理棟事務室にいたか否かの点で考えると、犯行の全体像も判明しておらず、被告人に嫌疑がかけられているかどうかもわからない事件当日から翌日にかけて、B谷が、若葉寮にE田と一緒にいたB木の存在をあえて無視してE田にのみアリバイ工作を依頼し、E田も、B木が真実を知っていることを十分承知しながらB谷の依頼に応じたという現実離れした想定が必要となる点で大きな問題がある。そして、事件直後のE田の供述には、被告人にとっては逆に極めて不利になりかねないような「B山が出発した後に被告人が管理棟事務室を出て行った。」旨の内容があることも、被告人を庇うための「アリバイ工作」であるとの想定からはかけ離れたものといわなければならない。さらに、右アリバイに直結するE田の供述部分が内容的にも明確とはいえず、B谷の供述と食い違っているなど、打合せをしたとは考えにくいことも、「アリバイ工作」の存在に対する疑問となり得る。他方、E田の供述の不明確部分や変遷は園児二人の死体発見による精神的衝撃による記憶の混乱でも説明が可能であり、E田供述が一貫して前提としている管理棟事務室にいたこと自体を特に疑う事情はないというべきである。

(5) B山、B谷の供述

また、B山は、自分が管理棟事務室から出るまでE田が基本的には同室にいた旨一貫して述べており、B谷も、管理棟事務室にXの行方不明が知らされるまでE田が基本的には同室にいた旨一貫して述べている。この両名の供述については、他の個別の点の信用性判断は後に改めて触れるとして、特にこの点に関する供述内容で不自然な点は存在しない。

(6) まとめ

右にみたとおり、E田が、午後七時五〇分ころ以降は若葉寮に行っており管理棟事務室にはいなかったとする点に沿うB木証言及びB川証言は、いずれもそれ自体信用性が低いといわざるを得ず、これに対し、基本的には管理棟事務室にいたというE田自身の供述は事件直後から最後まで一貫しているといえるのであり、その間に若葉寮に行ったのが一回か二回かについては変遷があるものの、B木証言やB川証言と比べれば変遷した根拠にもそれなりの理由があり、事の推移からいっても自己の行動の説明に無理がなく、信用性が認められる。これに、そもそも、E田が管理棟事務室に入ったのは、B谷及び被告人からY子捜索のための捜索表を作ることへの協力を求められたためであると認められ、そのE田が一人で若葉寮職員室へ戻り、それもB木証言の述べるように園児の行動記録をつけるというのはその時点での作業や行動の流れとして必然性に乏しいことも考慮すれば、これまで述べた以外の争点に関する証拠関係を検討するまでもなく、この点に関してはE田が基本的には管理棟事務室におり、Xの行方不明も同室内で聞いたと認定することが可能である。

(七) E田の行動についてⅡ(E田が若葉寮に行ったのは一回か二回か)

(1) はじめに

前記(六)項で述べたとおり、E田は、午後七時三〇分ころからXの行方不明を知らされるまで基本的には管理棟事務室にいたと考えるのが相当であるとしても、同人は途中若葉寮職員室へ行ったことがあるので、それが一回か二回かを次に検討する必要がある。すなわち、E田が、午後八時ころに若葉寮職員室におり、ちうどその際にE川電話があったことは間違いなく、そしてまた、E田がB山の神戸新聞会館への出発後に捜索表を作成するための糊を取りに行ったことは、E田自身の供述が一貫しているだけでなく、B谷もこれに沿う供述をしているのであって、その具体性からも、そもそもE田が捜索表作成を手伝うために管理棟事務室にいたという流れからも、事実であると考えられるため、E田が若葉寮職員室に一回しか行っていないとすると、E田がB山出発後に同室へ行き、そのときが午後八時ころであったことになり、結局、午後八時以前にB山が出発したことになるからである。逆に、これが二回であって、一回目がE川電話のころで、二回目がB山出発直後であるとすると、一回目から二回目の間の時間はともかく、B山出発時刻が少なくとも午後八時は過ぎていたことになるので、E田が若葉寮職員室に行ったのが一回か二回かは重要な意味を持っている。

(2) E田の供述

この点に関するE田の供述をみると、同人の供述には変遷がみられる。すなわち、昭和四九年三月二五日付捜査復命書において、若葉寮職員室に二回行った趣旨の記載があるが、その後同年六月二〇日までに作成された捜査復命書並びに警察官及び検察官調書には、これが一回である趣旨の記載がなされ、その後、捜査に非協力的な態度をとるようになった同年七月二日には、再び若葉寮職員室に二回行ったかもしれない旨の供述をし、昭和五一年の国賠訴訟の証言に至って、「何時ころかは覚えていないが、いなり寿司とバナナを取りに若葉寮職員室に行った。職員室にはB木がいて、電話をかけていたと思う。B木から意見を聞かれて答えた覚えがある。B山が出て行った後に、もう一度若葉寮職員室に糊を取りに行ったことを覚えている。職員室にはB木がいて、何か手伝いましょうかと言われたが、結構ですよというようなことを言った覚えがある。」旨の証言をし、差戻前一審公判廷においても基本的には国賠訴訟における証言内容を維持している。したがって、まず、この供述の変遷をどのように考えるべきかを検討する必要がある。

E田は、右の供述変遷の理由を、おおむね、「昭和四九年三月二五日の時点では、若葉寮に二回行ったことは覚えていたが、糊を取りに行った用事だけしか覚えておらず、紙袋を取りに行った用事は思い出せなかったため、警察官の事情聴取の際に、警察官からいろいろ言われ、『若葉寮に行ったのは糊を取りに行った一回だけでこのときB木が電話をしていたのだ。』と強く言われると抵抗できず、一回しか行っていないという調書のような記載になったが、被告人の逮捕後、最後の検察官の取調べのころまでには、管理棟事務室の人だかりの中で恥ずかしい思いをして机の下から紙袋を取ったことの印象から、若葉寮へ紙袋を取りに行った際にE川電話があったことも思い出した。」旨供述している。この説明は、その内容自体供述の変遷経過を一応合理的に説明し得ているだけでなく、二回行ったことを思い出した理由も具体的であり、紙袋に入れていたいなり寿司等を出しそびれた状況、後にこれをD塚事務員の机の下から取り出したことなど、特に不自然なところはない。とりわけ、一番最初のころの事情聴取の結果と考えられる昭和四九年三月二五日付捜査復命書に二回と記載されていながら、その後の調書等では一回になり、再び二回に戻ったという特徴的な経過について、警察官の証言を考慮しても、E田の述べるような経過が十分あり得ることとして考えられる点は軽視できない。

これに対し、検察官は、真実はE田が若葉寮にいたにもかかわらずアリバイ工作のために管理棟事務室にいたことにしようとしてこのような供述変遷が生じたと主張する。しかし、若葉寮にいたという前提が採用し難いことは前記のとおりである上、アリバイ工作のための供述という観点でみると、真実は若葉寮へ行ったのが一回であるのに、二回と供述したというが、二回行ったことが、既に、昭和四九年三月二五日付の警察官作成の捜査復命書に記載されているのである。この捜査復命書の内容は決して通り一遍のものでなく、E田の同月一九日の行動を順を追って詳しく記述している。すなわち、「事務室でお茶を飲んだ後で若葉寮の保母室へ行ったところB木が一人いた。そのときの用事は思い出せないがすぐ事務所に引き返した。」旨記載された後に、園長が出た後で糊を取りに若葉寮に行ったとなっており、右の前記捜査復命書が作成された時期がかなり早いことやその内容も相当に具体的であること、その後取調べ警察官に追及されて間もなく一回と供述が変わったこと、また、何より肝心の被告人の行動について若葉寮から管理棟事務室に帰って来たとき被告人はいなかったと供述している点等からみて、それがアリバイ工作のための供述であるとすると、説明が困難であるといわざるを得ない。このように、昭和四九年三月二五日の時点でかなり明確に二回行った事実を供述していることを、アリバイ工作とみることができないとすれば、未だ犯行時刻やE川電話の時刻もはっきりしておらず、E田においても取調べ警察官においても若葉寮に何回行ったかが被告人のアリバイに関係することなど念頭になかったと思われるときに、E田は自らの記憶に残っている事実を素直に述べたものとみるべきであろう。犯罪捜査への影響を意識しないでなされた供述は、供述証拠であっても証拠価値は高い。この点は、同じ供述の変遷といっても前記B川の場合の変遷との大きな相違というべきである。

(3) その他の考慮要素

次に、他の管理棟事務室内関係者の供述をみると、被告人は、E田が糊を取りに出たことは当初から供述しているものの、B山出発前に出たことは記憶がないとし、B山は、事件直後の供述調書等でこの点について触れたものはなく、国賠証言において自分がまだ管理棟事務室にいるうちにE田が一回管理棟事務室から出た旨、E田が二回若葉寮に行ったことに沿う証言をし、B谷は、当初はB山出発後に糊を取りに行ったことのみ供述し、昭和四九年六月二四日付検察官調書において、B山出発前にE田が一度若葉寮に行った旨を述べたが、その時期については、B電話の後であったというだけで、いつごろのことか特定できず、用事も不明である。このように、関係者の供述があいまいであることは、E田自身の二回若葉寮に行ったという供述の明確な裏付けがないことを意味するが、E田の用事が食べ物を取りに行くということで、部屋にいた者に断って行ったわけではなく、取ってきた食べ物も結局皆の前には出さなかったことからすると、これは周りの者の印象に残るようなことではないから、被告人、B山及びB谷の記憶があいまいなのも不自然ではなく、逆に検察官の主張する「アリバイ工作」を窺わせるものではないのであるから、これらのあいまいさによって、E田が若葉寮に二回行ったことへの疑いが生じるとまではいい難い。むしろ、少なくともB谷とB山の供述は、あいまいな箇所が多いながらもB山が出発する前にE田が管理棟事務室を出たことを供述する限りにおいて、E田が二回若葉寮に行ったことを示唆する点があると評価できる。

(4) まとめ

右のとおり、この点に関するE田の供述変遷は、それ自体が変遷後の供述の信用性を失わせるとはいえず、むしろ、その変遷経過の説明に合理性があり、変更後の供述に沿うB谷及びB山の供述も存在することからすると、右供述の変遷は、真の記憶の喚起によるのではなかろうかと思われる。

以上、(六)、(七)で認定したE田の行動に関しては、原判決もほぼ同様に述べているところ、所論は種々の観点からそれが不当な認定である所以を主張しているが、これらの点を十分考慮してみても、結論は左右されない。

(八) B山出発後の行動について

(1) 管理棟事務室内において

B山が出発した後に管理棟事務室に残ったのは、被告人、B谷及びE田である。B谷は、三人で捜索表作りをし、自分が管理棟事務室のトイレに行ったときに被告人が管理棟裏出口付近で誰かに声をかけている様子を聞いた旨ほぼ一貫して述べているのであるが、E田は、B谷と捜索表作りに取り掛かり、自分が若葉寮へ糊かセロテープを取りに行って戻ったことはほぼ一貫しているものの、被告人がいたのかいなかったのか、いついないのに気付いたのかについてあいまいな供述をし、しかも変遷している。被告人自身は、身柄拘束中の一時期青葉寮ないしサービス棟のトイレに行った等の供述をしたことがあるものの、逮捕前はもちろん、逮捕後も最終的には、捜索表作成に取り掛かって間もなく、B野やB川におやつがいるかどうかを尋ねるために青葉寮に行こうとし、管理棟事務室を出たところでB川に会った旨供述している。

これらの供述の中では、B谷の供述が一貫しており、E田及び被告人も捜索表の作成という点では一致している。そもそもB谷と被告人が捜索表を作ろうとしてE田を誘ったことからすると、B山がA山学園を出発した後に残った者で捜索表作りに着手したという経過は自然な流れであって、事実であろうと推認できる。しかし、それから何分位経過した後にXの行方不明が知らされたのか、被告人がずっと管理棟事務室内にいたのかについては供述があいまいであったり食い違ったりしており、供述の対比のみで心証をとることはできない。

(2) グランド上での出来事

B川が、グランドにおいて、被告人から「どうしたの。」と尋ねられてXの行方不明を伝えたことは、両者の供述が一貫して一致しており、間違いのない事実と認められる。問題は、その時刻、場所等であり、時刻については、午後八時二〇分ころと考えられるが、より詳細な具体的時刻は認定困難といわざるを得ない。

検察官は、B川及びB野証言を主要な証拠としてこの時刻を午後八時七分ころと主張しているが、右各証言の信用性については原判決が第十二の三2(二)(2)(1343頁)で検討しているとおり、特に、B川が、時刻の点において、当初の午後八時二〇分ころとの供述を午後八時七分ころと変えたことが、にわかに納得し難い。すなわち、原判決も指摘するとおり、思い出したきっかけとする再現実験は、事件から約一年後に、例えば各園児の部屋に布団が敷かれておらず、押入にも布団がなく、肝心の園児も在室しないなど事件当時の現場とは種々異なる点のある状況のものであって、その実験が当時の状況で行われたとしたら果たして時間的に同一の結果になったか疑問がある上、この供述はB川が若葉寮に連絡に行ったと述べていることと密接に関連しているところ、前記のとおり、若葉寮に連絡に行ったとの供述は極めて信用性が低いのであって、B川が、事件直後からの事情聴取において午後八時二〇分ころと述べていたことからすれば、むしろ、これが事実であろうと考えられる。

また、被告人がB川に声をかけたときの場所や二人の向きについては、B川の供述自体に原判決の指摘するような変遷があり、被告人の供述とも一致しない点もあるため、細かな認定は困難である。したがって、そのような場所や、その際の被告人の態度から何らかの推認をしようとすることは妥当ではないと考える。

次に、検察官が主張する「被告人がB川に声をかける前にグランド上でB野からXの行方不明を知らされた。」という点であるが、これは、右事実があったとするB野の供述とこれを否定する被告人の供述が対立している。検察官は、B野供述が信用できる旨主張するところ、確かにB野供述のうち被告人と会ったこと自体について信用できないような積極的徴憑はなく、あえて虚偽の供述をしているとも考え難い。しかし、B野が、事件直後においては自己に嫌疑がかけられることを恐れ、B谷や被告人が自分を犯人に仕立て上げようとしていると想像し、同人らに対する強い敵意と警戒心を抱き、さらには一時はB谷に殺されるのではないかと真剣に悩むなどの一種異常な精神状態にあったことが窺われること、被告人の行動についてあいまいだったり変遷している部分もあり、記憶が明確なものではなかったと考えられることからすると、B野が後の園全体での捜索時に被告人を見た場面と混同した可能性を否定することはできない。そして、被告人がB野にもB川にも会ったとすると、被告人はB野に声をかけられた後、B川と会うまでどこで何をしていたのか、また、B野からXの行方不明を知らされながら、B川に対して「どうしたの。」と尋ねることは検察官のいう「B川に犯人でないことを装おうとして、B野と会ったことに気が回らず、とっさに発言したもの。」で説明できるのかなどの疑問があること、また、被告人の弁解としても、これが事実であるとするならば、B野により明らかに指摘されるであろう会ったこと自体を否定し続けるより、むしろ、会ったことは事実として認めた上で交わした言葉が違うとか、B野の言葉がよく理解できなかったとか、その他何らかの説明を加える方が弁解として容易であることも併せて考察すると、被告人が一貫してB野と会ったことを否定している一対一の対立した証拠状況において、B野の供述のみに信用性があり、被告人の供述に信用性がないと判断することはできないといわなければならない。

なお付言するに、検察官は、被告人がB川と出会ったときの状況について、「スリッパを履いて管理棟の裏から外に出た。」旨供述する点を、青葉寮で被告人が土足だったのを見とがめた旨のB川証言と対比し矛盾すると主張しているが、被告人もX行方不明をB谷やE田に知らせてから靴に履き替えて玄関から出て青葉寮に行ったと供述しており、一方B川証言も被告人が裏口からスリッパ履きのままB川の後について青葉寮に来たとまで明言しているわけではないから、この点被告人の供述とB川証言が矛盾しているとまではいえないとみるべきであり、検察官の右所論は前提事実を取り違えているように思われる。

(3) C谷謝礼電話

(ア) 問題点

C谷謝礼電話については、原判決が第十二の三2(一)(3)(1285頁)で説明しているところであり、それがあったこと自体は間違いないと認められるものの、これがなされた状況等については明確でなく、電話の持つ意味について争われている。すなわち、右電話が大阪放送でY子捜索の放送をしてもらえることになったお礼であることからすると、他の大阪放送関係電話より後になされたことは明らかであり、また、電話の相手方であるC谷の昭和四九年八月二九日付検察官調書によれば、その時刻が午後八時二〇分から二五分までとされているところ、この時刻の根拠はかなり具体的である上、同年四月二一日付警察官調書(刑訴法三二八条書面)においても午後八時一五分から二〇分とされていることからして、少なくとも午後八時二〇分「ころ」であったという限度ではほぼ間違いないと考えてよい。さらに、A山学園の電話設置状況その他からして、被告人がこの電話を管理棟事務室からかけたこともまた間違いないと考えられるのであるが、どのような段階で、誰がいるところでかけたのか明確でない。検察官の主張によれば、右時刻は被告人による本件犯行の直後であって、被告人は一人で管理棟事務室からかけたことになり、弁護人の主張によれば、B山がA山学園を出発して管理棟事務室からいなくなった後のXの行方不明が知らされる前であって、少なくともB谷はおり、E田は若葉寮へ糊を取りに行ったかどうかの時期になされたことになる。

(イ) 検察官の主張

この検察官の主張については、被告人がX殺害という重大犯罪を犯した直後に、謝礼電話というそれまでの経緯と事態の流れからみても極めて自然に思われる行為を行うことの唐突さに対して原判決が提起する疑問は拭い難いものがある。検察官は、原判決で取り上げられた「精神的に混乱した異常な心理状態のためである。」という反論に、「自分の精神的混乱や動揺をまず鎮めなければとの考えから、あるいは、何もせずに管理棟事務室にただ在室している不安に耐えられなくなり、その解消を第三者と電話で話をする方法に求め、冷静を装ってC谷に電話をするということは必ずしも不自然な行為ではない。」旨の主張を付け加え、さらに、これとは別に、「(被告人が、)第三者であるC谷に謝礼の電話をすることにより、その時刻ころまで自分は終始管理棟事務室内に在室していたとのアリバイ作りを行おうとした可能性がある。」旨主張する。しかしながら、前者は、いかに説明しようとしても、原判決が指摘するように、「殺人」と「謝礼電話」が異質なものであること、「精神的混乱」と「C谷の供述中に被告人の混乱状態を窺わせるものがないこと」が相容れない状況であることは否定できないのであって、検察官の想定するような事態も、せいぜい全くあり得ないことではないといい得るに過ぎないものである。また、後者は、被告人が、事件直後の事情聴取ないし逮捕後の取調べの際に、この謝礼電話を捜査官に告げなかったことと矛盾する。検察官は、この矛盾に対して、被告人が、①「この謝礼電話をアリバイとして主張するためには、B野及びB川との出会いの事実を否定しなければならなくなるので、B野及びB川との食い違いが激しくかえって疑われる。」と考え、②「C谷において管理棟事務室にいた偽装アリバイを主張してくれることが判明したため、あえて謝礼電話の事実を捜査官に供述する必要がない。」と判断したからであるとして説明しようとする。①については、確かに午後八時七分ころB川と出会い、Xの行方不明を知らされたことを前提にすれば、それよりかなり時間が経った午後八時二〇分ころわざわざC谷謝礼電話をするというのは誰が考えても奇妙な行動であり、検察官が主張するようにかえって疑われることになろう。しかし、そもそも、被告人が真実Xを殺害し、途中たまたまB川に目撃されたというのであれば、その後しばらくした午後八時二〇分ころになってから誰が考えてもおかしいと疑われるような謝礼電話をあえてするであろうか。それが奇妙な行動でかつ疑惑を招くくらいのことはよほど精神が混乱状態にない限り電話をする前に当然気付くと思われるところ、現に謝礼電話をしているのであるから、それはむしろB川と会う前に電話しているとみるのが無理のない見方というべきである。そして、このことに加え、被告人(検察官主張のアリバイ工作加担者を含む。)は、現在でも被告人がB川とグランドで会ったのは午後八時二〇分ころと主張しているのであり(B野と会ったことは被告人は否定。)、その立場からは、C谷謝礼電話の直後に外に出てB川に会った旨供述すれば検察官主張のような問題は生じないのであって、「出会いの事実を否定しなければならなくなる。」という論理は妥当しない。また、②については、逮捕・勾留までされた被疑者が、自己に有利なアリバイに関連した事実の主張ができるときに、他人が別のアリバイ主張をしてくれているから自らの主張は必要でないと考え、これを述べないなどということは通常考えられず、いずれも右矛盾を解消する説明になっていない。

(ウ) 弁護人の主張

これに対し、弁護人の主張する事実関係であるとすれば、事実の流れとしては何の問題もなく、ごく自然なものであるが、この事実の存在に関する関係者の供述に若干の問題はある。すなわち、被告人を含む関係者が、事件直後の段階でこのC谷謝礼電話について供述をしておらず、また、このC谷謝礼電話の際に管理棟事務室にはいなかったはずのB山が、第二次捜査段階の検察官調書において、この電話の記憶があると述べていることなどが、後に関係者による口裏合わせがなされたことを窺わせるものではないかと疑われるからである。

しかし、E田については、B山出発後に若葉寮に行っており、その際の電話であったとすればその記憶がないのは当然であるし、被告人及びB谷については、C谷謝礼電話の直後にXの行方不明が知らされ、その後の混乱のために一時的に記憶から欠落したことも、謝礼電話という内容が儀礼的なものであることから考えてそれほど不自然とまではいえない。B山の供述については、「お礼の電話をしておったという記憶があるのです。」と、記憶があいまいであるかのような記載もあるものの、「相手がお花の先生(C谷)か大阪放送の偉い人(D沢)の家のどちらかであったことは覚えている。」とか、「私の記憶では、B谷君が澤崎さんに『お礼の電話をしといたら。』という意味のことを言って、それで澤崎さんが電話をしたと思うのです。」など具体的な記載もあり、弁護人が理屈をつけようとする「他から聞いたことを自分の記憶と混同したもの。」で説明できるのか疑問がないではないが、その供述があるからといってこのC谷謝礼電話について弁護人が主張する事実関係が否定される、という関係にはならない。

(4) A山学園全体における捜索

B山出発時刻を特定するために被告人の行動を検討する際、A山学園の各職員にXの行方不明が知らされ捜索が開始された時刻も、一つの考慮要素である。すなわち、B野及びB川がグランドに出て以降、園内の職員に次々とXの行方不明が知されており、その時刻を基準に関係者の行動を考えることも可能だからである。この点で証拠上問題となるのは、被告人又はB川が若葉寮にXの行方不明を知らせた時刻の根拠となるE田の供述及びB野がグランドに出た時刻を推認する根拠となる用務員B辺の供述である。

まず、E谷は、差戻後一審における証言時においてこそほとんど記憶をなくしているものの、捜査段階においては、昭和四九年四月二四日以来、若葉寮にXの行方不明が知らされてE谷のもとにB木が連絡に来たのは午後八時二〇分ころである旨一貫して供述しており、その時刻確認状況も、洗体室でXの行方不明を知らされ、外していた腕時計をはめたときに時刻を見たという具体的なものである。この供述は、他にこれを裏付ける証拠がない点で間違いないものと即断することはできないが、それ自体かなり信用性の高いものと考えざるを得ないであろう。

また、B辺は、昭和五二年四月二五日付検察官調書において、B野がXを捜している声を聞いたのは午後八時からのテレビ番組を見ている途中であり、その時刻は警察から同じ番組をビデオテープを再生して見せて貰った結果によると、午後八時一九分三〇秒であった旨述べている。テレビ番組を基準にしているものであり、放送された時刻自体の正確性に疑問を挟む余地はないが、ビデオテープの再生を見たのが事件から約一年後であることからすると、B辺がどこまで見たかという場面の記憶については必ずしも正確であるとはいい難く、見ていない場面を見たということはないとしても、その後見た場面を忘れてしまうことはあり得るから、右の午後八時一九分三〇秒という正確な時刻を間違いないものと断定しかねるものが残り、早くともその時刻であって、そこからそれほど遅れていないという限度で考えるのが相当である。

なお、検察官は、C谷謝礼電話の時刻に関連させ、右電話が午後八時二〇分ころだとすれば、同時刻ころ若葉寮にX行方不明を知らせに来たのは被告人ではあり得ず、必然的にB川が知らせたことになる旨主張する。しかし、C谷謝礼電話の時刻にしても、午後八時二〇分ころというのであって、分秒きざみの正確なものではなく、E谷やB辺の供述する時刻にしても、余りにもこれを厳格に考えてしまうのは事実認定においてかえって危険な面がある。通常、時間の観念として午後八時二〇分ころという場合に前後五分程度の幅を持たせて考えてもそれほど間違いとはいえず、かえって決定的な誤りを防ぐ意味から安全なことがあるのであって、所論のように時刻を分きざみに厳格に前提にするのは相当でない。五分の幅があるとすれば、被告人が謝礼電話後にXの行方不明を聞き、青葉寮内を見た後若葉寮に知らせたという推移が所論のようにあり得ないこととはいえない。

その他の証拠は、特に正確な時刻を示すものは存在しないが、全体として午後八時二〇分ころに各職員にXの行方不明が知らされたとみることのできるものが多い。

(九) C林電話について

前記(三)の検討の順序でも述べたように、C林電話は管理棟事務室内でなされた前記(二)の各電話のうちの最後のものであり、その直後にB山が出発したことはほぼ間違いないので、この時刻はB山の出発時刻の特定に極めて重要な意味を持っている。これについては原判決が第十二の三2(二)(1)アからウ(1290頁)において詳細に検討しているところであり、結論としてC林証言の信用性に疑問がある旨判断しているのに対し、検察官は、C林証言が信用できる旨反論している。

当裁判所は、このC林証言の電話の時刻に関する部分については、ある程度信用性は高いものの、それはあくまでも供述証拠であって、特に客観的証拠による裏付けがあるわけではなく、しかも電話の時刻という通常記憶に残りにくい事項についての証言であることに徴すると、これが事実に間違いないという程の確実性を持つとはいえず、他の証拠と総合的に判断せざるを得ないものと考える。以下理由を説明する。

まず、原判決も認めるとおり、C林は、立場として第三者であり、被告人にことさら不利益な事実を供述するような事情はない上、その証言内容は、具体的根拠を示してのものであるから、C林証言は証言として比較的その信用性を評価できる条件を備えていると考えてよい。問題は、原判決の指摘する点であるが、例えば原判決が第十二の三2(二)(1)ウ(ア)(1295頁)で指摘する感覚の不正確さについては、C林が電話を待って時間を気にしていたという点は事実であって、E野から勧められたとしても、それ自体が時間感覚を不正確にするものではなく、また、他の作業をしていたからといって時間感覚が狂うとは限らないのであるから、そもそもこれが過去の記憶に基づく供述であり、それも感覚によるものであるという限界はあるものの、原判決の指摘するような事情が、特にその記憶に対し積極的に疑問を挟む理由にはなるほどのものとはいい難い。また、原判決が第十二の三2(二)(1)ウ(イ)(1298頁)で指摘する国際会館のシャッターが閉まる時刻ないし保安係員が巡回する時刻等との関係で考えると、確かに供述の変遷ではあるが、この内容は類似しているとも考えられるのであり、保安係員がシャッターを閉めにくるからというC林の説明を、保安の仕組みをよく知らない警察官が調書に記載する際に正確性を欠く表現になった可能性も十分あり得ることである。さらに、「誤った前提による誤った記憶」という指摘については、自分に記憶のないことにつき誤った前提を与えられれば誤った記憶がもたらされることがあるといえるが、この場合、保安係員によるシャッターの閉鎖というのはC林にとって十分承知の事実のはずであり、これについて誤った前提で記憶がゆがめられることは考えにくい。さらに、保安係員に対する気遣いの点では、証拠に照らせば、保安係員がありがとう運動事務所の前のシャッターを午後八時に閉めることを日課とし、保安係員が右シャッターを閉める場合はありがとう運動事務所に人が残っていないかを確認し、人が残っている場合には声をかけていたことが認められ、ありがとう運動会員も午後八時を越えて仕事をすることも多かったにせよ、午後八時までに帰るのが原則と考えていたとみることは、それほど不自然ではない。そして、このような他人に対する気遣いは、個人の人柄にもかかわることであり、責任者であるE野がそのような気遣いをしていなかったのに、単なるボランティアの一員であったC林がE野以上に保安係員のことを気にかけていたというのはいささか過剰な気遣いとはいえるが、必ずしも不自然とまではいえない。

このようにみてみると、検察官が、「原判決は、電話時刻の推定理由に関するC林証言中の格別不自然ともいえないような些細な点をとらえ、ことさら過大に矛盾、変遷があるなどしてその信用性を排斥しているのであるが、その証拠評価の姿勢は、本件において結論として無罪判決を書くための支障となるべき証拠は理屈をこじ付けてもその信用性を攻撃し、何とかその結論を合理化しようと腐心しているものであって、根本的に誤っている。」と決めつけているのは、疑問点は疑問点としてとらえる姿勢に欠け、問題であるが、原判決がC林証言への疑問として指摘する点のうちの一部は、これを強調することが相当でないといい得るものが含まれている面があり、後記走行実験の結果はともかく、これを除くその他の点を考慮しても、C林証言がそれ自体において信用性に疑いがあるとまではいい難い。しかし、原判決が第十二の三2(二)(1)ウ(ウ)(1321頁)において指摘する点、特に、C林証言によれば、電話をした時刻と待ち合わせをした時刻との間には一時間ほどの間隔があることになるが、そうだとすれば、「早く来るんだなという感じ」とか、「ずいぶん早く来るんやなと思った」との感覚と整合しない点は確かに無視できるものではなく、その他原判決が同(エ)(1330頁)で指摘する昭和四九年当時に供述しなかったことをその後詳細に供述するようになり、それが証言では記憶がなくなっているという経過も、説明が不可能ではないものの不自然であることは否定できず、もともと過去の事実に関する証言であるという限界も考慮すれば、冒頭に示したとおりの程度の信用性と判断するのが相当である。

(一〇) 走行実験について

走行実験については、原判決がC林証言の信用性判断の要素として第十二の三2(二)(1)エ(1333頁)において判断を示している。しかしながら、この走行実験は、供述の信用性判断が中心となる他の事項と異なり、客観的な証拠としての側面の強い事実であり、その価値は大きいと考えられるので、独立して検討すべきである。

まず、第一に、この走行実験の結果から、B山がA山学園を出発してから神戸の新聞会館に着くまでに要した時間を推認することが相当か否かである。原判決は、一回目の走行実験は、正確性に問題があるものの、二、三回目の走行実験については、検察官が所要時間を測定する目的で行ったものであり、その時間帯も事件当夜と同じころ(ただし、事件が火曜日なのに対し、実験は火曜日と金曜日に実施。)であって、二日とも同じ所要時間であったことからその信用性は高い旨判断しているところ、この判断は支持できるものと考える。

これに対する検察官の反論の一つは、「走行実験の結果をもって事件当夜の走行時間とほとんど変わらないものと認定するためには、B山において事件当夜の走行速度、運転方法等を記憶し、かつこれを正確に再現したことが明らかとならなければならないのに、走行実験が行われたのは事件から三か月後であって、道路及びその交通状況が事件当夜と同一であったか否かは全く明らかではなく、B山自身も事件当夜の道路及び走行の状況を正確に記憶していたか極めて疑わしい。」という点である。しかし、まず、走行した道路が事件の日と同一であったことに疑いを挟む事情は見当たらず、交通状況については、確かに事件当夜と同じであることの確認はできないものの、平日の同じ時間帯であれば特段のことがない限り通常それほどの違いはないと考えられる上、B山自身が事件当夜と交通状況が異なる旨述べなかったのはもちろん、走行実験に立ち会った捜査官も、特に実験に差し支えがあるような状況を感じなかったからこそ実験を実施して証拠化しているのであるから、この走行実験がもともと所要時間を計測してみようとの捜査官の考えの下に行われたという経緯にも徴すると、交通状況が大きく異なる可能性は低いと考えてよい。この点、B山は、自己の偽証被告事件の被告人質問において、「検察官の二回目の走行実験の後に、立ち会った刑事部長の検察官が『園長、あなたが言っている時間に学園を出ていますね。』と発言した。」旨述べているが、このような趣旨の発言をしたことについて検察官の側から特段の反証もなく、この事実は、当時の検察官が、走行実験の結果が判断資料として相当なものであると考えていたことを示す発言として無視できない。また、検察官は、B山自身が当夜の走行状況を正確に記憶していたか否かを問題にするが、人の運転の習性は、特に意識しない限りおおむね一定しているといえるのであって、走行する道路が同じで交通状況も同じであれば、ほぼ同様の走行状況になると考えて差し支えないというべく、走行状況の記憶を問題にする余地は少ない。

検察官の反論のもう一つは、「B山が被告人のアリバイ証明のため、意図的に速度を速めて走行しようとした疑いが極めて強い。」というのである。しかしながら、走行実験は、捜査官が同乗して行われているのであり、B山が不自然に速く走行すれば当然その点を指摘されるはずであり、そのような指摘がなかったのであるから、通常考えられる走行だったと推認すべきである。問題は、B山の事件当日の運転が逆に遅かった場合であるが、事件当日は、B山はC林との待ち合わせ時刻に間に合うのか心配して急いでいたのであるから、その可能性もほとんど考えられないといってよい。

してみると、検察官の反論は理由のある批判とはいい難く、約一九キロメートルの距離を同じ時間帯に二度走行していずれも出発から到着まで三三分であったという走行実験の結果は重く、検察官が先に主張するような一般論をもってこれを軽視することは到底許されない。この結果が前記C林証言の中の、「早く来るんやなと思った」とのC林の感覚に沿うことも偶然の一致とはいえない符合である。なお、警察官による一回目の走行実験の結果が二回目、三回目の実験結果よりも遅い四〇分であったことは、右実験が午前中に交通ストライキが行われた日の昼間に実施されたことからすると合理的に説明できるのであり、それでも七分しか遅くなっていないということも考慮要素の一つとなる。

なお、B山の新聞会館到着時刻については、原判決が第十二の三2(二)(1)エ(イ)(1338頁)においてB山の供述による午後八時五〇分とC林の証言による午後八時四三ないし四四分とを比較検討し、どちらとも特定できない旨の結論を示しているところ、確かに断定することは危険であるとしても、待ち合わせ時刻に間に合うかどうか気にしていたはずのB山が、事件からわずか三日後の昭和四九年三月二二日には(午後八時四七分ないし四八分の可能性もあるものの)午後八時五〇分という時刻を警察官に供述し(同年六月一七日付捜査復命書)、その後同年三月二六日付捜査復命書、同年四月二三日付警察官調書、同月二八日付検察官調書において一貫して午後八時五〇分と供述しているところからすれば、このB山供述はかなり信憑性が高いと認めてよく、B山到着時刻は午後八時五〇分ころの可能性が高いとみるべきである。

(一一) 出発時刻ないしC林電話時刻に関する関係者供述について

B谷は、捜査段階から「C林電話の際、B山の腕時計で午後八時一五分であることを確認した。その後すぐB山は出発した。」旨供述し、B山及びE田も、国賠訴訟及び本件公判廷において、同旨の供述をしている。これらの供述も、検察官主張事実に反するものであって、それ自体が検察官主張を裏付けるものになり得ないことは一見して明らかであるが、検察官は、電話の順序に関する供述と同様、右各供述の変遷状況等が不自然であって、これらがB谷に同調して虚偽を述べたものであることが明らかであるとし、むしろ、これらが虚偽であること自体から、又は、右の者らの当初の供述内容から、検察官主張事実が真実であることの裏付けとなり得るかのような主張をしている。以下においては、右検察官の主張を検討する。

(1) B谷の供述

B谷は、昭和四九年四月一日付警察官調書以降、「C林電話で待ち合わせ時刻を決める際に午後八時一五分であることを確認し、その後B山がすぐ出発した。」旨の供述で一貫しているのであるが、同年三月二三日付捜査復命書には、B谷の供述として「午後八時ころC林電話があり、午後八時一五分ころB山が出発した。」旨、同月二八日付捜査復命書に同じく「C林電話のころに被告人がJ電話の話をした。午後八時前にB電話があった。B山は午後八時一五分ころ出発した。」旨各記載がある。

検察官は、これら捜査復命書の記載を取り上げ、「B谷は、事件直後には、B山出発時刻がC林電話とは時間的に接着したものではない趣旨で、根拠のないままに午後八時一五分と供述していたのであり、これが後の供述のように変化したのは、B山の出発時刻を午後八時一五分とまず設定し、その根拠としてC林電話を午後八時一五分と変えたためと認められる。」旨主張する。しかしながら、B谷がアリバイを主張するためにB山出発時刻に根拠を与えて時間を設定するのであれば、管理棟事務室内の関係者で出発時に時刻を確認したことのみを事実として作出すれば足りるのであり、相手方のあるC林電話の時刻を無理に変えようとすることはかえって危険である上、その設定する時刻も午後八時一五分でなく午後八時一〇分でも五分でもよく、その方が検察官が主張するところのC林電話終了の時刻午後七時五〇分に近いため怪しまれないで済むのではないかとの弁護人の指摘はもっともな面がある。さらに、検察官の指摘する右の昭和四九年三月二三日付及び二八日付各捜査復命書の記載は、この時刻の点が多くの事項の中の一部であって、当時それほど重要なこととは意識されていなかったと考えられること、捜査復命書の記載であって本人の確認がなされていないこと、同月二三日付捜査復命書は、箇条書の極めて簡単な記載で、時刻もいずれも「ころ」という大雑把なものであり(この前後の時刻は一五分単位でしか記載されておらず、B山出発後に捜索表作成にとりかかったのも八時一五分ころと記載されている。)、その記載をもって検察官の主張のように理解するのは強引に過ぎるといわなければならないこと、同月二八日付捜査復命書については、電話の順序の項でも述べたように、検察官の「C林電話がB山出発の相当時間前であった。」との理解自体が必然的なものではないことからすると、右二通の捜査復命書の記載をもって当時のB谷の供述ないしその元にある認識を推測することは相当でなく、検察官の主張は採用できない。むしろ、B山出発時刻自体でみれば、当初から午後八時一五分ころと述べていたのであるから、一貫していると評価すべきであろう。

また、検察官は、C林と時刻を約束したときの状況に関する供述について、B山の供述とも対比しながら不自然であると主張するところ、確かに、両者の供述に必ずしも一致しない部分があり、また、新聞会館まで四、五〇分かかると思っていたB山と、もっと早く行けると考えていたB谷の間でそのことに関するやりとりがあってもよさそうに思われるなど、若干気になる点がないとはいえないものの、その後の園児らの死体発見による精神的衝撃から生じた記憶の混乱もあり得るし、B谷が時刻を決めてしまった後で、B山が果たして間に合うか心配したものの、一度決めた時間を変更するよりも急いで出発し少しでも早く着いた方がよいと考えた旨のB山の供述するところもあながちあり得ないことではなく、全体として虚偽であることが明らかというほどの不自然さはない。

(2) B山の供述

B山は、事件直後には、記憶があいまいであるとしながらも午後八時過ぎに出発したとの供述をしており、これが、昭和五〇年一二月の国賠証言以来、昭和四九年六月の走行実験等によりC林電話の際に午後八時一五分を確認し、その直後に出発したことを思い出したと変遷している。そして、B山は、記憶喚起の過程を、国賠訴訟及び本件公判廷において、「当初から、午後八時一五分という時刻の記憶はあり、六月の検察官との走行実験によりC林との待ち合わせ時刻を決めたのが午後八時一五分であったことを鮮明に思い出した。」旨説明しているが、このB山の供述について、検察官はいくつかの点を指摘する。

(ア) 一つは、B山が、通勤その他の経験により、A山学園から神戸新聞会館まで四、五〇分かかると考えていたことである。

これも二つの面があり、一つの面は、供述変遷後の内容であり、B山が、C林との約束の際に午後八時一五分であることを時計で確認しながら自分の感覚では間に合わない午後八時四五分の約束をするであろうかという疑問である。この点、弁護人はB谷が一方的に決めたからであると説明しているが、そうであったとすれば電話終了後にこれを変更するか否か、実際の所要時間がどれ位かなどについてB谷との間でやりとりがなされていて印象に残るのではないかとの疑問があり、事件直後から落ち合う約束の時刻は明確でありながら、約束した時刻や出発の時刻があいまいだったこと、記憶を喚起した後でも所要時間に関するB谷とのやりとりをめぐる供述がないことなど、若干気になる点がないとはいえない。ただ、B山が約束に間に合うか心配しながら時計を気にして急いだことは事件直後から一貫して供述しており、この点は右説明に合致した行動であるといえる上(検察官主張のような午後八時前の出発では、急ぐ必然性はない。)、直後に発生した事件の衝撃によって出発の際のやりとりなど細かい点について記憶があいまいになったという見方もできないわけではない。また、B谷が時刻を決めてしまった後で、B山が果たして間に合うか心配したものの、一度決めた時間を変更するよりも急いで出発し少しでも早く着いた方がよいと考えた旨のB山の供述するところもあながちあり得ないことではない。さらに、確かにB山は時間に厳格な方であったとの証拠はあるが、B山が述べるように新聞会館到着時刻が午後八時五〇分であるとすれば、既に約束の時間より五分遅れているのに、C林に対してこの遅れをことさら謝ったというような証拠も見当たらない。このように、ある程度の時間を見込んだ待ち合わせの場合には、もちろん相手方が誰であるかにもよろうが、五分ないし一〇分程度の遅れは全くの想定外のことであるとは限らないのではなかろうか。

もう一つの面は、第一次捜査段階におけるB山の所要時間に関する感覚のことであって、B山が事件当日に実際にA山学園から新聞会館まで時間を気にしながら三十数分で走行したならば、従前は四、五〇分かかるという感覚を持っていたとしても、実際の体験により修正されたはずであるのに、事件直後の捜査段階では、やはり四、五〇分かかるとの感覚を持って捜査官に対応していたことが窺われるのであり、この点が不自然だという点である。ただ、これも不自然といえばいえなくもないが、通常、待ち合わせの場合には、行くまでに何分かかったかというよりも、約束の時間に間に合ったかどうか、何分遅れたかということが関心の的のはずであり、それが大して遅れもせずに着くことができたというのであるから、所要時間については従前の経験による感覚だけが依然として残っていたとしても不思議はないという弁護人の反論も、不合理とまではいえないのであって、このような自然、不自然が決定的なものとみることはできない。

(イ) 第二に、これも自然、不自然といった程度のことではあるが、B山の供述変遷の合理性の問題をいう。B山は、午後八時一五分という時刻について、当初、時計を見たことは覚えているがどこで見たかははっきりしないとしていたのが、最終的にはC林電話の約束のときに見たと変遷している。このように、当初記憶が明確でなかったが後に記憶を喚起したということ自体は特に不自然とはいえない。しかし、その時計を見た場面は、前者が「香雪記念病院前」、「はっきりしないが学園を出発した途中」、「A山学園事務室か車に乗り込んだときか香雪記念病院前か、国道に出たときかわからないが事務室で見たように思う。」とあるように、いずれも神戸に向けて自分一人で出発した後の確認状況であるのに対し、後者が、B谷も含めた約束の際の確認状況であり、確認場面がいわば質的に異なるとも受け取られることからすると、後者があいまいな前者の記憶を取り戻した結果であるとする点に若干の疑問がないではない。

しかし、午後八時四五分の待ち合わせ時刻を決めている以上、そのとき何時であるか時計を見て確認していることは間違いないことと推認されるし、時計を持っていたのがB山だけであったというのであるから、B山が時計を見ているであろうとも推認してよい。したがって、右のような若干の疑問は疑問として存するけれども、むしろ、本件ではどこかで時計を確認したという供述が極めて早い段階でB山の口から述べられていることの持つ意味の方が、右の疑問に比べはるかに大きいことに注目すべきであろう。

(3) E田の供述

E田は、事件直後には、ほとんど時刻に関する供述をしておらず、その他の部分に関する供述も併せてみると、時刻の記憶が極めてあいまいであったことが窺われる。これが、昭和五一年一〇月の国賠証言以来、C林電話時にB山の時計をのぞき込んで午後八時一五分を確認し、その後B山が出発したと供述するに至っている。E田の供述も、事件直後から一貫していない点で、それ自体信用性が高いとはいい難いのであるが、その変化は特に矛盾しているというほどのものではなく、当初記憶があいまいであったものを思い出したとして説明する内容が合理的か否かという判断が信用性判断の中心になる。これについて検察官及び弁護人が合理、不合理ということで種々応酬しているのであるが、必ずしもどちらと評価し難いものである。ただ、検察官が、E田の供述中、C林電話をB谷の方からかけたという事実に反すると判断される供述を取り上げ、これがB谷の供述と一致しているからアリバイ工作によると主張している点については、どちらからかけたあるいはかかった電話であるかなどは必ずしも記憶に残るべき事項とも考えられず、そのような一点の一致をもってアリバイ工作が推認できるという主張は到底採用できない。

(4) 被告人の供述

被告人の供述全般については、自白の項において検討するが、このB山出発時刻の点に関しては、昭和四九年三月二四日付捜査復命書においてB山の出発時刻を午後八時ころと供述し、逮捕勾留中の同年四月一一日に午後八時前ころと供述したことがあるものの、その後はほとんど記憶がないとの供述であり、これらの供述をどのように評価すべきかの判断は難しい。検察官は、被告人が当初、この時刻を午後八時ころと供述したこと及び逮捕勾留中に午後八時前ころと供述したことをとらえて、それ以降のほとんど記憶がないとの供述はB谷の主張に反しないように撤回したものと主張するが、前者は、捜査復命書の記載によるものであって、根拠も何も示しておらず、もともと記憶がはっきりしなかったのを、他の事実を供述する流れの中で感覚的に時刻を特定しただけのものとも理解できるのであって、記憶があいまいという後の供述と矛盾するものとはいえず、後者は、後に述べるように、身柄拘束中の取調べの前提として与えられた情報に問題があるのであって、これを真の被告人の記憶と考えることは相当でない。このような供述を後に撤回したことは不自然とはいえず、これをB谷のアリバイ工作への同調の徴憑などとみることは結論の先取りというほかない評価である。

(一二) 被告人の行動についてのまとめ

以上、被告人の行動に関する間接事実を中心にみてきたが、もちろん右以外にも関係する多くの事実があり、それらについてのそれぞれの証拠が存在する。しかし、原判決における検討をも含めてみれば、おおむね右に挙げたところが検察官と弁護人との間の重要な争点であり、これについての当裁判所の判断をある程度示すことができたものと考える。問題はこれらの総合評価であり、被告人に行動不明の時間帯が存在するのか、それともアリバイが存在するのか、これらが認定できないとしても、どちらであった可能性が高いと考えるかである。

当裁判所は、結論として、この段階では、被告人にアリバイがあるとまでの認定はできないものの、検察官が主張するような被告人における午後八時前後の行動不明の時間帯が存在する可能性はかなり低いものと判断する。すなわち、検察官は、午後八時前にB山がA山学園を出発し、その後に被告人とB谷のみが管理棟事務室に残ったという状況を主張の基本としているところ、B山の午後八時前出発の事実を立証するための最も直接的で重視されている証拠はC林証言であり、それ自体ある程度の信用性は認められ、その他にも、B山が午後八時前にA山学園を出発したことを窺わせる証拠も存在するが、一方で、証言事項が電話の時刻という通常人の記憶に残りにくい事柄であること、通話記録等客観的証拠による裏付けがない供述証拠であること、証言内容にも看過できない問題点があること等の限界があるのに加え、それほど大きくは動かし難いと考えられるB山の神戸新聞会館到着時刻と走行実験の結果は、B山が午後八時前に出発したことに大きな疑問を生じさせるものである。そして、管理棟事務室内での出来事を全体としてみると、検察官が前提としている二つの事実、すなわち、E田が午後七時五〇分ころからは若葉寮におり管理棟事務室にはいなかったこと及び被告人が午後八時六分ないし九分ころにグランドにいたことは、むしろ真実ではない蓋然性が高いと認められる。そして、C林電話に至るまでに管理棟事務室内でなされた電話の順序・時刻は確定し難いものではあるが、これらに関する第三者の供述のうち、特にX死亡事件当日により近い第一次捜査段階でなされた供述は、C林電話が検察官主張のような午後七時五〇分ころになされたことを裏付けるものではなく、むしろ午後八時を過ぎてなされたものであることを示唆するものが多い。この事実も加えて、B山、E田及びB谷の供述を総合検討すると、弁護人が主張するようにB山が「午後八時一五分」を管理棟事務室内で確認して出発した可能性が高いとまではいい難いものの、「少なくともB山が午後八時を過ぎて」出発した可能性が高いと判断できる。

4  他の職員の行動(アリバイ)について

(一) はじめに

検察官は、本件審理当初から、被告人以外の職員の行動内容について言及し、控訴趣意書及び同補充書においてもこれを重要な間接事実として主張している。この主張の持つ意味は、原判決も第十二の三3(1414頁)において説示しているように、被告人のアリバイが不明である場合に、他の者のアリバイによって被告人と犯行の結び付きを立証するものと考えられるのであるが、そのためには、①犯行可能な者が特定され、②被告人以外の犯行可能な者について犯行時刻の行動が明らかであることが必要であるから、本件に即して考えると、X死亡が自らの事故によるものではなく何らかの犯罪によるものであることは事実として前提にしてよいが、①犯行がA山学園内部の、それも検察官の指摘する一三人の職員のうちの誰かによる犯行であると断定できるか否か、②そのうち被告人以外の職員について、Xが行方不明になったと考えられる時間帯における行動が明らかになっているか否かがそれぞれ明確にされねばならない。そして、この①②のいずれもが証拠上ほぼ確実にいえる場合はもちろん、そうでなくとも、例えば①が明らかになった上で、②について明らかとまではいえないものの被告人以外の者が犯行に関与している可能性が低いことが認められれば、他の証拠関係と相まって被告人の犯人性立証に際して考慮できる間接事実となり得るのであり、その観点からみて、右①②を検討する意味がある。

(二) A山学園内部の職員による犯行であるか

まず、外部から侵入した者による犯行の可能性であるが、これは、A山学園の位置及び構造並びに事件直後の検証の結果と、本件のX殺害の事件以前にY子も同じ浄化槽で死亡したことにも徴すれば、その可能性を全く排除できるとまではいえないとしても、ほぼ考えられないとみてよいであろう。問題は、A山学園内部の者による犯行であるとした場合、園児を排除した上、検察官が指摘するように学園職員(実習性を含む。)に限定することが可能かどうかである。検察官は、本件犯行の時刻及び現場の状況並びにXの性格等を根拠に、犯行が園児である可能性を排除しているので、以下検討する。

検察官は、まず、園児がマスターキーを持っていないから、宿直員であるB川及びB野に発見されずにXを連れ出すことは事実上不可能であると主張する。しかし、青葉寮には、施錠されている非常口以外にも、デイルーム及び各居室から外へ通じるガラス戸が設けられているのであって、Xを連れ出した場所が特定されていない状況において検察官のようにいうのは誤りといわざるを得ない。検察官は、次に、園児が嫌がるXを寮外に連れ出して本件犯行に及ぶことは知的能力や体力的に不可能であり、動機の面からも考えられないと主張する。しかし、そもそも、Xが夜間の暗がりを怖がる性格であったこと及び青葉寮においてG子以外に特になついている園児はなかったことのみを根拠に、園児がXを連れ出そうとすれば嫌がって抵抗するであろうと推測する前提には、普段生活をともにしている園児が連れ出そうとするときにXが必ず嫌がって抵抗するとは限らないのではとの疑問があり、仮にXが渋々であってもついて来さえすれば、浄化槽マンホールの蓋(重さ約一七キログラム)を開ける程度の体力のある園児はいるのであるから、体力の点が園児すべてを除外する理由にはならない。そして、知的能力の点は、重度の精神的遅滞は別として、本件はこれを問題にしなければならないような犯罪ではなく、動機の点でも、普段生活をともにしている園児の間で、職員等には明らかにならない種々の人間関係が当然あり得るのであって、現段階で動機が明らかになっていないことが動機の不存在を意味するものではない。検察官は、さらに、Xの胃内にみかん片が存在したことも園児が関与していないことの根拠とするが、そもそもXがみかん片をどのような形で摂取したのか全く明らかでない上、後述のとおり、園児がみかんを入手し得ないという点も立証されているとはいい難いのであって、これも園児の犯行の可能性を排斥する根拠とはならない。してみると、検察官主張のような点のみで園児による犯行の可能性を一切否定することはできない上、そもそも、園児による犯行の可能性を全くといってよいほど考慮していない捜査に基づく本件証拠関係においては、その可能性の高い低いについてこれ以上掘り下げて検討することもまた不可能であるといわざるを得ない。そして、本件では、犯行時間帯が必ずしも明確でないこと既に述べたとおりであり、時間によっては玄関から気付かれないように出入りすることも不可能とまで断定できない。

(三) 被告人以外のA山学園職員の行動について

右にみたとおり、犯行の可能性がある者として、A山学園園児を排除できない以上、職員についてのみ犯行時刻と考えられる時間帯の行動を検討しても被告人が犯人であることに結び付くものではないが、検察官の主張について一応検討する。なお、前記のとおり、Xが行方不明になった時刻については、午後七時半以降八時過ぎまでの可能性が高いとはいえるが、午後七時以降も全く除外されているわけではないから、この時間帯も視野に入れる必要はあろう。

検察官が指摘する職員は一三人であり、列挙すれば、青葉寮の宿直員であったB川及びB野、若葉寮の宿直ないし遅出の勤務職員であったC内、E谷、D谷及びE森(実習生)、管理棟事務室にいた被告人、B谷、B山及びE田、用務員のB辺及びC辺並びにB木である。検察官は、先に被告人の行動を検討する際に触れた管理棟事務室にいた四人を除く九人について、その行動が明らかであって犯人であり得ないことが合理的に推認できると主張している。

まず、B川及びB野については、この二人が青葉寮宿直員として勤務していたという状況を前提にして、それぞれが自己の行動として供述するところを検討すると、その供述内容に一部変遷はあるものの、青葉寮園児の世話をする中でXの行方不明に気付き、その後捜索に取り掛かったという基本的状況の説明にさほど不自然な点はなく、その間、幾度かはお互いの姿を見かけている部分での供述が一致し、さらにB山及びB谷などとの接触の場面についても同人らの供述と符合しているのであって、この二人が犯人である可能性は低いといえるであろう。しかし、彼らは犯行現場のごく近くにいたのであり、常時誰かが監視していたというわけではない以上、完全なアリバイがあるというものではなく、わずかな間隙に犯行を犯すことがないと断定はできない。

次に、若葉寮勤務職員の四人であるが、この者らも若葉寮勤務職員として勤務していたという状況を前提として検討すると、それぞれが自己の行動として供述するところに不自然な点はなく、特に午後七時から七時半ころ(E谷は午後七時二〇分ころ)までは一緒に若葉寮のデイルームにいたのであって明確なアリバイがあり、その後は重度障害の園児の就寝介助を分担して行う中で、相互に接触している場面も確認されているのであるから、XとY子が青葉寮園児であることも考え併せれば、この四人の中の誰かが犯人である可能性はほとんどないといい得るであろう。

それでは、用務員の二人についてはどうであろうか。この二人はいずれも青葉寮の北東にある宿舎に一人で生活していた者であり、B辺は「午後六時三〇分過ぎからテレビでニュースを見るうちにうたたねをし、気が付いたら伝七捕物帖の場面であって、少し見るうちにB野がXを呼ぶ声が聞こえた。」旨、C辺は「午後七時からテレビを見たが、B辺からXがいなくなったと連絡を受けた。」旨それぞれの自己の行動を供述するのであるが、これらは、本人の供述以外裏付けとなるものはない。その供述によれば、捜査官からビデオを見せられて確認したりしているようであるが、これはXの行方不明をいつ知ったかという観点での確認であることが窺われ、それ以前の本人達の行動を確認するためのものではない。特に、B辺はうたたねをしていたというのであるから、テレビの内容の記憶により本人の供述の確認をとることは不可能であり、C辺についてはそのような手段が考えられないことではないが、何ら証拠化されていないのであって、現在では全く判断できず、アリバイというような意味では行動が明らかとはいい難い。

最後にB木であるが、同人は、夕方から自分の寮室でラジオを聞くうちに眠ってしまい、午後七時五〇分ころに眼を覚ましてE川電話を待つために若葉寮職員室に行った旨自己の行動の説明をするところ、午後八時ころのE川電話の際に同室にいたことと、Xの行方不明が若葉寮に知らされたときにも同室にいたこと以外はやはり裏付けられていない。その供述内容のうち、自己の行動部分につき特段の不自然な点がないことはそのとおりであるが、そのことのみで同人の供述がすべて真実であるとはいえないのであり、これもアリバイという意味では行動が明らかとはいい難い。

このようにみてみると、結局、検察官の主張は、右の者らには本人の供述するところに目立って不自然な点はないというだけに過ぎず、さらに、青葉寮宿直員及び若葉寮の勤務職員に関しては犯行の可能性が低いであろうという推測が働くにしても、これらは単に感覚的なものであり、捜査段階の当初における判断のために用いるにはそれなりに意味のある事情であろうが、最終的に、犯行が可能な者のアリバイから被告人の犯人性を推認しようとするには極めて杜撰でほとんど無意味といわざるを得ないほどのものである。検察官は、行動状況すべてを裏付ける客観的証拠がないことを認めながら、不自然な点がないことをもって各自の供述が事実であると推認するのであるが、仮に犯人が虚偽のアリバイを供述する場合にも、一見して不自然な供述などするはずがないのであり、特に一人で行動していたという供述については、他に突き合わせるべき証拠がほとんどないのであるから、不審を抱かせる証拠がないからといってその供述が事実であるといえないことは明らかである。

ところで、仮に職員に限定した場合に、A山学園内にいた職員が、検察官の指摘する一三人に特定できるのかどうか、例えばB木が寝ていた学習棟二階の寮にほかに誰もいなかったなどの点は証拠上明確でないが、右に述べたところからすると、あえて検討する必要はない。

5  まとめ

これまでみてきたことからいえることは、検察官の主張にもかかわらず、アリバイの観点から被告人が犯人であることを推認させるような情況証拠は存在しないということができる。すなわち、犯行可能な人物のうち被告人のみが行動不明であるとの主張は、被告人が犯行時刻前に管理棟事務室から外に出たことが立証されていないだけでなく、むしろその前後には同室内にいた可能性が高いと認められる証拠状況であり、他の犯行可能な人物の絞り込みについても捜査官による推測の域を出ないものである。

四  その他の情況証拠たる間接事実について

1  繊維の相互付着について

(一) 繊維の相互付着の持つ意味

繊維の相互付着の問題は、これまでに述べた間接事実に比して一般的には客観性の強いと思われる事実である点で、場合によっては重要な価値を持ち得ると考えられるものである。そこで、本件においては、この繊維相互付着がどのような意味を持っているのかをまず検討する。

検察官の主張は、事件当時に被告人が着用していたダッフルコート(以下、事件当時着用していたことを単に「被告人のダッフルコート」のように示す。)の構成繊維とXのセーター及びズボンの付着繊維との同一性並びにXのセーターの構成繊維と被告人のダッフルコートの付着繊維との同一性についてなされた鑑定の結果が、鑑定試料の一部において「非常に酷似する」ないし「類似する」というものであることと、被告人の右着衣とXの右各着衣が本件事件以前において直接接触した機会はまずないことからすると、被告人のダッフルコートとXのセーター及びズボンとが本件事件当夜の犯行の機会に直接接触したものであることを強く推認させ、これは、被告人の自白の信用性を裏付けるとともに、被告人の犯人性を強く推認させるというのである。

検察官の右の主張をみると、「繊維の同一性」と「相互付着の機会」の二点が問題とされているのであるが、前者の「繊維の同一性」の関係では、「同一性」の意味を明確にしておく必要がある。すなわち、繊維の切断面から判断するなどの方法により相手方着衣から分離した繊維そのものという意味での完全な同一性が立証できるのであれば、まさに同一か否かの問題であるが、本件ではそのような意味での同一性の判断はもちろんなされていない。本件において考えなければならないのは、他の者の着衣との区別のための「同一性」であって、どの程度の確かさで相手方着衣の固有の繊維といえるかが問題となるのである。したがって、ここで「同一性」を考えるには、幅を持った同一性判断であることを前提として、その分類方法の厳密さによって他の種類の繊維がどの程度排除されるか、そして、排除されない同一種類の繊維が残ったしてこれらが他にもどの程度存在するかという思考が必要となる。

(二) 相互付着繊維の同一性について

(1) 浦畑の昭和四九年七月三日付及び同年一一月二八日付各報告書における鑑定について

浦畑俊博は、染色・測色の専門家であるが、繊維の種類・色・太さによる識別について学識・経験を有するものではないこと、そして、本件における鑑定の際は、試料が少なくこれを破壊することもできなかったために色素の化学的分析は行うことができず、測色の観点で、分光光度計を使った解析を行っただけであることは原判決が第十二の一4(二)(1237頁)に説示するとおりである。本件鑑定が前述のとおり「同一性の程度」の問題である以上、このような分光光度計による解析のみであっても、相手方着衣の繊維である可能性が高いといえる程度に他の繊維との区別が可能であれば、その鑑定は意味を持つといえる。しかしながら、浦畑鑑定の各報告書及び浦畑証言を検討すると、本件各浦畑鑑定の鑑定主文の「非常に酷似する」「類似する」との言葉が、被告人の犯人性を推認するための情況証拠として何らかの意味を持つ程度に同一性の程度が高いことを示すと解釈することは困難である。以下説明する。

まず、指摘すべき点は、この分光光度計を用いた解析による繊維の識別の前提であるところの、繊維の色がどのように区別されるのかという基本的事実関係の立証が不十分であることである。浦畑鑑定では、繊維が「類似」するとか「酷似」するとの表現をしているが、それは分光曲線の結果が似ているとか似ていないとかしか答えておらず、分光曲線の結果が「類似」とか「酷似」することと繊維の同一性の判断とがどのような関係にあるのか必ずしも明確にされていない。そして、さらに重要なのは、分光曲線は色物体の基礎資料、記録であるが、それ以上のものでもそれ以下のものでもなく、測色学はこの分光曲線によって示された数値、データをCIE表示法等によって定められた計算式によって一定の数値を算出し、この数値によって科学的に色を表現し、比較対照する学問であり、色としての客観的な表示方法としては分光曲線の形状のみでは不十分であるとの弁護人の指摘であり、この事実を浦畑自身否定していないどころか、浦畑証言をみるとこれを肯定していると認められることである。そうだとすれば、本件において、所論のように分光曲線の比較だけで付着繊維が「類似」するとか「酷似」すると判断するのは、色の同一性判断の基準としては、いまだ基礎資料の一つに過ぎない分光曲線の結果のみによって、通常いわれている客観的な色自体の識別に置き換えてしまうことになる。

なお、分光曲線自体の読み方についても付言するに、本件においては分光曲線の極大値の山や谷の現れ方によって色の種類を分析しているところ、分光光度計は、機械の種類にもよるものの、物理的測定値としては波長〇・一~〇・二ナノメートルの差があれば色を区別することができると認められるが、この差は同じ衣類の繊維であっても例えば染めむらや褪色によって生じ得る幅であると考えられるから、そのような微少な差によって色が異なるといってもそれほど意味がない。繊維の色による区別という場合、染料自体の色による区別、染料が同じでも染め方(濃度等)によって生じる区別、さらには使用状況に応じた変色による区別等があり得ると考えられるところ、どの要素での区別であっても、ある特定の種類の繊維が示す分光曲線には幅があるはずであるから、この幅を問題にしなければならない。つまり、その分光曲線がどの程度の幅の中に入るものを同一の種類の色の繊維と考えるかを明らかにし、次に、その幅の中に異なる種類の繊維の分光曲線が入る可能性を明らかにすること、すなわち、区別しようとする種類の色のもつ分光曲線の固有性を明らかにすることにより、同一繊維である可能性が高いか低いかの判断が可能になるのである。例えば、染色一般が極めて微妙なもので、ある染料による一回の染色が示す分光曲線の幅が、他の染色の機会には生じないというのであれば、その幅に含まれる分光曲線を示す繊維は同一機会において染色されたといい得るのであって、その機会に染色された繊維が用いられた衣類がどの位存在するのかだけを考えれば済むであろう。しかし、そこまでの特定性がないというのであれば、ある種類の繊維の分光曲線が示す幅を想定したとき、その幅でどの程度固有性を区別できるのか、具体的にはどのような種類の染料でどのような濃度で染色した場合にそのような分光曲線が生じるのか、また、結果的にそのような分光曲線が生じる可能性が他にどのくらいあるのかを考慮しなくては、可能性の議論としての判断はできない。ところが、浦畑は、鑑定書はもちろん、証言においても、例えば青色の染料がどの位あり、その種類によってどのように分光曲線に違いがあるのかを説明しておらず、むしろ弁護人の反対尋問に対して青色の異種染料で分光曲線の極大値の山や谷がほぼ同じものが存在することさえ認めている。そうすると、分光曲線が色によって繊維の種類を識別するための手段となり得ること自体は否定できないとしても、肉眼による識別以上にどの程度の役割を果たすのかの前提が明らかでないといわざるを得ない。

右に関連することではあるが、さらに問題とすべきは、浦畑の述べる「酷似」「類似」概念のあいまいさである。浦畑は、証言において、弁護人からの追及に対し、「酷似すると言ったのは山が非常に近いところにあるものを一応酷似と表現し、山の部分が平らになっていたりして正確にこの位置が読みとり難く多少のずれのあるものを類似と表現した。」と答えたのみで、「非常に近い」ということの基準についても、「多少のずれ」がどのような意味を持っているかについても説明していない。この基準が明らかになっていなければ、「酷似」「類似」であることから何がどの程度推認できるのか不明であって、これを情況証拠として用いることはできない。

その上、原判決も指摘するように、浦畑は、「分光曲線が交差していれば解析からいうと全く違う。」とか「可視領域で分光曲線が交差すれば色相が違う。」という趣旨の証言するのに、一方でその交差している曲線を類似と評価しているのであって、その判断は到底納得できないものである。

なお、検察官は、分光曲線の交差が、問題とする構成繊維と付着繊維との間ではなく、構成繊維相互間でのものであるから問題がない旨主張しているが、浦畑の右証言を前提にするならば、このような分光曲線が交差する繊維を相互に「類似」と評価するということ自体がおかしいことになるはずであり、結局、浦畑証言では何をもって類似、非類似とするのかが不明確であることを意味するといわざるを得ない。さらに、検察官は、総合判断であるから明確な基準が設定できないこともやむを得ないと主張するが、明確な基準でなくとも、その判断過程が合理的であると認められることは必要であり、浦畑証言では、素人的な山と谷の近さ以外の点を越えて、何のためにどのような要素を検討して判断したのか不明であるといわざるを得ず、専門家の判断としてどれほどの重みがあるか疑問とせざるを得ない。

(2) 脇本鑑定について

脇本繁は、大阪市立工業研究所に所属し、繊維の識別に関する専門家とされる者であって、本件においては、光学顕微鏡による検鏡により、被告人の着衣の付着繊維とXの着衣の構成繊維片とが「とくに類似している。」との鑑定結果を出している。このような形態観察による同一性判断も、前記の色による同一性判断の場合と同様に他との区別の問題であり、ある特定の品種の繊維が一定の形態を示し、それが他の品種の繊維の示す形態と異なるのであれば、これによる判断が可能である。その場合も、特定の品種の有する形態のばらつきの幅を考慮する必要があり、これにより種類の区別をした後、当該品種の市場占有率等を考慮して同一性の持つ価値を検討することになるであろう。しかしながら、脇本鑑定の鑑定書及び脇本証言を検討すると、同人の鑑定結果は、右のように他の種類の繊維との区別を問題にした場合に「類似」との表現でどの程度他の種類の繊維を排除できているのかがあいまいな点をさておき、原判決が第十二の一5(二)(1244頁)において説示するとおり、「とくに類似している。」という結論的判断自体に疑問があり、やはり、被告人の犯人性を推認するための情況証拠としての意味を持つ程度に同一性の程度が高いことを示すものと理解することは困難である。すなわち、類似性判断の根拠について鑑定書で掲げる理由と証言で述べる理由が異なる点は、これが鑑定書に記載している事項の意味を詳細に説明したものであったり、必ずしも重要でなかったためにあえて記載しなかった点を付け加えたりしたものというのであればそれほど問題にする必要はないのであるが、同人の証言は、鑑定書において根拠とした要素を弁護人から非難されこれを維持することができなくなると他の要素を持ち出し、また、その要素の問題点を指摘されると他の要素を持ち出すという形で変遷しているのであり、しかも、その個別の要素がどのようにして区別の基準となるのかについては答えていなかったり、これまでの研究発表と矛盾し、あるいはそれ自体不合理とも思える答えをしたりしている。そして、脇本証言全体から指摘できる傾向は、同人が、多量の標本試料がある場合の総体としての種別鑑別に使用できる要素と、本件のような数本というごく少数の繊維片の鑑別に使用できる要素の区別をせずに繊維鑑別の要素を掲げ、しかも、本件鑑定において実際に考慮したのかどうかもあいまいなまま、弁護人からの追及にその場しのぎの証言をしているとみざるを得ない点である。検察官は、ここでも「専門家の総合評価」であるから信用すべきであると主張するのであるが、多くの判断要素がある場合の結論自体はまさに総合評価であり、特に形態による判断を言葉で説明することは困難であるとしても、主としてどのような判断要素があるのか、その要素のいかなる点で判断するのかといった方法論については当然説明が可能なはずであり、その基本的説明自体があいまい・不合理な鑑定は科学的鑑定としての価値が低いといわざるを得ない。

(三) 補足

そうだとすると、弁護人がそもそも鑑定の対象とされた試料にこれを採取する方法と保管の仕方に問題があったとして種々主張する点について判断を加えるまでもなく、付着繊維の同一性に関する本件鑑定自体が情況証拠として用いることのできるような証明力を備えていないということになる。

ただ、付言すると、原判決も指摘するように、本件において検察官の主張するような犯行態様でXを連れ出し、浄化槽に投げ込んだというのであれば、Xの着衣、ことにセーターの前面に被告人の着衣の構成繊維が、また、被告人の着衣の前面にXの着衣の構成繊維が相当量付着するのではないかと思われるのに、本件ではわずかな付着繊維についてしか鑑定されていない。本件において、付着繊維を採取したビニオテープには構成繊維以外の多くの繊維が付着しているのであるから、比較対照してみるに値する繊維が、浦畑の一回目の鑑定によれば二本と二本というのは、いかにも少ないのではとの疑念が残る(被告人のダッフルコートが例えばブラシをかけられたとの証拠もない。)。青色系統と黒色系統の衣類は、時節柄最もありふれた着衣といえる。普段着ているセーター、ズボン、コート等に黒や青の繊維が多くの付着繊維に混じって付着していたとしても何ら異にするに足りない。

検察官は、本件採取にかかる繊維がそれぞれ被害者、被告人の各着衣の繊維に「類似」又は「酷似」していることを前提に、本件犯行時以外に相互付着が考えられないことを強調し、とりわけ空中を繊維が浮遊して付着することが非現実的であることを強調するが、「類似」する、「酷似」するとの前提がとり得ないこと既に述べたとおりである上、仮にこれが認められるとして考察を進めてみても、確かに検察官が主張するように、空中浮遊による間接接触は現実的ではないであろうが、XはA山学園の青葉寮で起居する者であり、被告人は青葉寮でXを含めた園児を相手に仕事をしている保母である。園児相互の直接接触、それを介しての被告人の着衣への付着、その着衣から本件ダッフルコートへの付着、その他弁護人が指摘する浄化槽内での付着等々必ずしも非現実的であるとはいえない相互付着の原因が考えられるのではなかろうか。

(四) まとめ

以上のとおり、繊維鑑定は、客観的証拠として大きな価値を持ち得る可能性はあったものと考えられるが、本件における証拠は、「酷似する」「類似する」との言葉が用いられているものの、繊維の同一性を識別するための客観的な実体を有する内容のものと認定することができず、それ以上これがどの程度の推定力を有するのかを云々することができない。したがって、検察官の主張する繊維付着の事実が間接事実として意味があるとまでいえない。

2  Xの胃内のみかん片について

(一) 検察官の主張について

Xの胃内のみかん片に関する検察官の主張は、基本的には原判決第十二の二1(1258頁)に記載されたとおりであるが、当審において、さらにその証拠価値が高いことを強調しているので、このみかん片に関する主張の持つ意味を検討する。

検察官の主張の骨子は、①浄化槽内で発見されたXの胃内に、消化された夕食に混じってほとんど未消化のみかん片が存在したこと、②青葉寮園児は独自にみかんを入手し得る立場になく、青葉寮宿直員であるB野及びB川もXにみかんを与えたことはないこと、③Xは元々みかんを好まない児童であったことからすれば、Xの胃内のみかん片は、Xの死亡と密接に関連している可能性が非常に高いとし、さらに、被告人が当日みかんを購入して管理棟事務室内に持ち込んでいることから、これがXの胃内のみかん片と明らかに異なる場合は別として、被告人が犯人であることを強く推認させる情況証拠となる、というものである。

しかしながら、みかん片とX死亡との関連を考えるに、①に関しては、そのみかん片摂取時期が「死亡前一時間以内」とする溝井鑑定の解釈について争いがあるが、これが仮に検察官主張のとおり死亡直前を含むとしても、その摂取時期がX死亡の直前に限定されるものではなく、死亡前一時間のうちのどの時点なのか不明なものである。当日の夕食終了からXが死亡したと考えられる時刻までのうちの一時間内に限定されることにより、相対的には死亡時刻に近接するといえるにしても、犯行に要する時間は数分と考えられるから、Xが事件と関係なくみかんを摂取し、その後事件が発生することも時間的には十分可能であり、この時間の点だけから死亡との関連を推認することは不可能である。それどころか、溝井鑑定における「死亡前一時間以内」という表現は、文理解釈としてはともかく、通常の感覚からいえば「死亡直前」とは異なるように思われる。死亡直前に食したみかんはほとんど消化されていないであろうし、死亡数十分前に食したそれは何らかの消化の痕がみられるのではなかろうか。このように考えると溝井鑑定文言からは、検察官の主張する犯行時間帯にはみかんを摂取していない可能性が強いとみるのが相当である。

また、検察官は、②のように青葉寮園児は自らみかんを入手することができない旨主張する。確かに、青葉寮園児が食事の際に残ったみかん等を自己の居室に持ち帰ることは認められておらず、また、父母等からの差入れも青葉寮園児に直接ではなく職員に渡すようになっていたなど、きまりの上では青葉寮園児が自由にみかんを所持していつでも食べられるようになっていなかったことは検察官主張のとおりである。しかしながら、弁護人も指摘するように、きまりがそうであったからといって、実際にも園児が自らみかんを入手できなかったか否かは別の問題であり、指導員B島五男の証言及びD原の児童記録によれば、それほど頻繁ではないにしても、青葉寮園児が食事やおやつの際の残り物を食堂から持ち出したり、保母室に保管してあるみかんを園児が勝手に持ち出したりしたことが認められ、本件の場合においてもその可能性は否定できない。当日、A山学園に給食用のみかんが存在したことは明らかであり(園児の分でみると、青葉寮では昼食に出されたが、若葉寮では夕食後に配られた。職員は別に食べている。)、青葉寮保母室にみかんがあったか否かは全く不明であるから、Xの胃内のみかん片がこれらのみかんのものである可能性は低いではあろうが否定されていない。

なお、後記のとおり、Xの胃内のミカン片はLサイズであった可能性が高く、一方、A山学園の給食用のみかんはMサイズであったと認められるが、Mサイズのみかんの中に大きな房のものが入っていることが全くないとはいえず、また、Xの胃内のみかん片がMサイズのものである可能性も否定できていないのであるから、可能性を多少低めるとしても、Xの胃内のみかん片が給食用みかんのものでないと断定できるものではない。また、③のXがさしてみかんを好まないということも、証拠上その程度は不明であって、自ら持ち出す可能性を低めるものではあっても、これがあり得ないと判断する根拠にはならず、まして、他の園児から勧められた場合にも食べないなどとはいえない。

そして、Xが園児以外の者からみかんを摂取した可能性も考えねばならない。検察官はこの点についてはB川及びB野が与えていないというほか、特に触れていない。右両名が与えていないということも、通常の活動の中で与えていないという本人達の供述のみによる主張である。本件でみかんを情況証拠として用いるためには、Xの胃内のみかん片が被告人の与えたものである可能性が高いこと、すなわち、他の者が与えたものである可能性が低いことが立証されなければならない。ところが、みかんは、当時の季節としては珍しくないから、被告人以外の職員がこれを所持し、Xに与えた可能性は十分あるとしかいえない。もちろん、前述のA山学園給食用のみかん以外、証拠上具体的にみかんの存在が現れているわけではない。しかし、これはみかんについて特に捜査された結果ではなく、証拠上現れていないことをもって、他の職員がみかんを所持していなかったことを意味すると考えることはできない。例えば、青葉寮保母室、若葉寮職員室、用務員宿舎及びB木の寮室等にみかんはあったか否か不明であり、これを誰か職員が持ち出してXに与えた可能性を否定する証拠は何もないといってよい。

(二) みかんの大きさの持つ意味について

検察官は、Xの胃内のみかん片は被告人が与えた可能性が高いと主張し、右みかん片から推定したみかんのサイズと被告人の持ち込んだみかんのサイズをその根拠のひとつとしているので、この点について検討する。

まず、被告人の供述及び被告人がみかんを購入した販売店の店員の供述等を総合すれば、確定はできないものの、被告人が購入したみかんはLないしLLサイズのものとして詰められていた可能性が高いと考えるのが相当である。

また、Xが食べたみかんのサイズについては、柑橘類研究の専門家であった田中長三郎の鑑定書並びに和歌山県果樹園芸試験場に勤務する小沢良和の鑑定書及び証言が存在し、これらによれば、Xが摂取したみかんはLサイズであった可能性が高いということができる。ただし、原判決が第十二の二3(三)(1269頁)に記載するとおり、Xの胃内の少数のみかんの房からもともとのみかんのサイズを推定する方法に問題がないではなく、鑑定のもとになった房自体の保存方法等から大きさが変化している可能性も否定できないことからすると、MサイズであるよりはLサイズの可能性が高いという程度のものであり、Mサイズである可能性を否定できるようなものではない。

ところで、これらのサイズの点からどのような判断が可能かといえば、もちろん、被告人が所持していたみかんをXに与えたと考えても矛盾しないことは確かであるが、それだけでは情況証拠としての意味ないし関連性を持たせることはできない。ここでの問題は、サイズの点からXの胃内のみかん片が被告人の所持していたみかんのものであった可能性が高められるか否かである。仮に、Xの胃内にあった食物片が珍しい食べ物であり、その食べ物を被告人が所持していたとすれば、Xが被告人の所持していた食べ物を摂取した可能性が高いと推測することができるが、それも、被告人以外から当該食べ物を与えられる可能性が低いこととの相関関係で判断されるものである。本件では、前記のように時節柄みかんは一般的な果物であり、その中のLサイズもこれまた普通に販売されていたものであって、被告人の所持していたみかんがLサイズであり、かつ、Xの摂取したみかんもLサイズであった可能性が高いといっても、そのことだけからこれらの同一性が高まると考えることはできない。本件におけるみかんの同一性は他からの摂取の可能性との関係で判断することが必要であり、みかんのサイズも、他からの摂取の可能性を限定することができる場合に初めて意味があるものというべきであり、(一)で述べたような種々の可能性が考慮できる以上、このサイズの点がそれほど大きな意味を持つとは考えられない。

(三) まとめ

右のとおり、Xの胃内のみかん片が殺害直前に与えられた可能性はむしろ低く、また、これが青葉寮園児を介して摂取された可能性も否定されておらず、他の職員が与えた可能性に至っては全く不明である。そのような状況において被告人がXの胃内のみかん片と矛盾しないみかんをA山学園に持ち込んだことが明らかであるとしても、そのことのみで被告人がXにみかんを与えた可能性が高いと推測することができないのは論をまたない。捜査段階の初期において、Xの胃内からみかん片が発見された場合、被告人が持ち込んだみかんと何か関連があるのではないかと推測すること自体は、捜査の端緒として非難すべきことではない。しかし、これを情況証拠として用いるためには、何らかの方法によりその関連性を立証しなければならないのであり、その立証がなされていないといわざるを得ない本件において、このみかん片は情況証拠としてそれほど意味があるとはいえない。そして、みかんに関してより重要なことは、被告人がどのようにしてみかんを持ち出し、いつ、何のために、どのような態様でXに与え、Xがこれをどのようにして摂取したかということであり、後に被告人の自白のところで触れるように、この点についての被告人の自白は誠に不十分かつ理解し難いものであって、到底被告人がXにみかんを与えたとの心証を抱くに至らないといわざるを得ない。

3  被告人の特異言動

(一) はじめに

ここで「被告人の特異言動」というのは、①Y子の死体が発見されたときの被告人の対応、②Y子の葬儀の際の被告人の様子、③被告人から事情聴取をした警察官に対する被告人の発言等であり、これらの事実が被告人が犯人であることを推認せしめる事実であるか否かが問題となる。検察官が、現在でもこれらを被告人の特異言動として情況証拠たる間接事実になり得ると考えているのか否か明確ではない面もあるが、少なくとも差戻前一審での論告の際には①②の事実を被告人の犯人性を推認せしめる事実として主張しており、③については捜査段階で警察が被告人の犯人性を推測する徴憑として考えていたものと窺われ、一見したところ誤解され易い言動ともいえるので、ここで触れておくこととする。

なお、検察官は、被告人が事件当夜にグランドでB野及びB川からXの行方不明を聞いたときの状況につき、B野と出会ってXの行方不明を知らされながら、その後B川に対し「どうしたの。」と自己がXの行方不明を知らないかのように装ったことが不自然である旨の主張もしているが、これは、前記のとおり、その前提事実が確定できないものである。

(二) ①Y子の死体が発見されたときの被告人の対応

この点について、検察官は、控訴趣意書において、被告人の人間性との表題のもとで、被告人の犯人としての心理の現れであると主張しているのであるが、差戻前一審論告等も併せてみると、事実として、「被告人が指導員D谷らとともにA山学園外でのXらの捜索から戻った際、他の職員から『Y子が見つかった。』と聞かされるや、その生死も確かめないままいきなり『Y子ちゃんが死んだ。』と大声を上げて極度の興奮状態に陥り、その後精神安定剤の注射によって寝かされるまでこれが治まらなかった。」とし、生死不明の状態だったにもかかわらずY子が死亡したと理解したこと、担当保母でもないのに異常に精神的に興奮したことから犯人性を推測しようとするものである。

しかしながら、前者についてみれば、確かにD谷自身は「Y子が見つかった。」とだけ聞いて、自らはY子が死んだか否かを職員に確認した旨証言しているのであるが、これは、そのときの客観的状況が、被告人にとってY子が死亡したことを推測できないものであったことまでも意味する証言ではない。当時は、Y子が死体で見つかって騒然としていたと考えられるのであり、実際はY子が死んだ旨の発言があったのにたまたまD谷が聞き落としたことも十分あり得るし、そうでなくとも、二日前から行方不明のY子が見つかったと言えば、その言葉の雰囲気、例えば言葉の調子、発言した者の表情等からだけで死体で見つかったと理解することも十分考えられる。被告人自身の供述は、Y子が死んだと聞いたか、Y子が見つかったことを聞いただけでY子が死んだと考えたのか明確でないが、混乱時の状況としてどちらであっても不自然ではなく、Y子の死の認識については特異とはいえない。そして、後者についてみれば、確かに職員の中で最も取り乱したのが被告人であり、他の保母や指導員らが心痛を押さえていたのに比べれば目立った反応であり、それゆえに他の保母らから「皆は我慢しているのに。」との非難も受けたようではあるが、Y子の行方不明が被告人の宿直中に発生していることから、その責任を強く感じたとしても当然であるし、感情が高ぶったときにどの程度その感情を押さえることができるかは、個人の性格や社会経験による面が大きいのであって、被告人の行動が犯行にかかわっていなければ考えられないというほど異常なものとはいえない。

(三) ②Y子の葬儀の際の被告人の様子

これについては、控訴趣意書には記載がなく、差戻前一審論告において、事実として、「XとY子の葬儀の際、Xの葬儀に列席するよう指示されたのにあえてY子の葬儀に出席し、納棺されていたY子の遺体に頬ずりをしようとして他の職員に制止された。」とし、宿直者であったというだけにしては余りにも感情移入が激しいと主張する。しかし、これも個人の受け止め方や感情抑制力の程度の問題に帰着するものというべきであって、異常と評価できるようなものではない。そもそも、被告人が、Y子の死には関与しているものの直接の殺害者ではなく、X殺害の犯人であるとする検察官の立場から、その異常性をどのように説明するのか理解できない。すなわち、自分が悲しんでいることを見せることで犯人性を薄めようという偽装工作であるならば、指示に反した目立つことをするのは逆効果であり、Xの葬儀に出席して悲しんでみせるのがより効果的であると誰でも考えつくことであり、犯人としての心の痛みからつい取り乱したというのならば、Xの葬儀ではなくY子の葬儀に出席する必然性はない。

(四) ③被告人から事情聴取をした警察官に対する被告人の発言等

これは、具体的には、昭和四九年三月二八日に警察官が被告人から事情聴取した際の被告人の対応であり、捜査復命書に「本職等が被告人に対し『警察は内部説に確信を持って捜査をしている』と言ってその動向を観察したところ、被告人は『警察は用務員を疑っているように思うが私は違うと思う。あの事件は大人ではないと思う。子供がやったと思う。』旨申立て、園児の犯行である旨強調した。事情聴取のあい間の雑談の際、被告人が本職等に対し『刑務所の食事はどんなんですか。懲役と禁錮はどう違うんですか。』などと聞き、これらのことに関心を示していた。」と記載されている事実関係である。

これについては、右に記載された事実が存在したとしても、被告人が犯人であることを何ら推認させるものでないことは明らかであり、この点につき被告人がなぜそのような発言をしたかについて弁明するところも首肯でき、検察官も特に主張していない。現場の警察官が経験による勘で怪しいと感じたとき、それに応じて捜査してみることは当然あり得るとしても、右に記載された事実がそのような端緒となるものであるとも考え難い。それにもかかわらず、わざわざ「警察は内部説に確信を持って捜査している。」と告げてその動向を観察し、これが「被告人の特異言動」として独立の捜査復命書とされていることは、警察官が、この捜査復命書の作成以前に被告人が犯人ではないかとの強い予断を持っていたため、被告人の右言動を特異言動と評価したのではないかと疑わしめるものというべきである。

(五) まとめ

以上のとおり、被告人の特異言動については、事件直後にはかなり重視されていたことが窺われるものの、その後の捜査においてどの程度の価値をもって考慮されていたのか明確でないところがある上、少なくとも、現時点において、被告人の犯人性を示す間接事実としての意味はほとんどないと考えられる。

4  小括

右に検討したとおり、客観的証拠であるかのようにみえる繊維片の相互付着は、類似した繊維の付着という点で、被告人と事件との結び付きを立証する可能性を有してはいたが、結局のところどれだけの推定力を認めてよいのか不明であり、Xの胃内のみかん片は、被告人と事件の結び付きを推認させるものではなく、いずれも情況証拠としての価値を持つと評価できない。そして、アリバイ関係の間接事実も含めて、その他検察官の主張をすべて考慮しても、情況証拠によっては、被告人が本件犯行を犯したと推認できないことはもちろん、その蓋然性が窺われるとまでもいうことはできない。

五  園児供述について

1  はじめに

事実誤認の判断の冒頭(第二の二2)で述べたように、被告人がXを「さくら」の部屋から連れ出したという事実は、被告人の犯行を推認せしめるという意味で極めて重要な間接事実であり、検察官は、この事実を青葉寮園児の供述により立証しようとしている。すなわち、原判決第五の一(54頁)に記載されているように、青葉寮園児であるB、A子、E子及びDは、被告人がXを連れ出す状況の一部をまさに目撃しており、この事実は、同人らの供述及びその裏付けとなるC供述により認定できるというのである。この意味で、園児供述の信用性判断は、本件において自白の信用性判断に比肩した重要性を持つと位置付けられるが、右園児らは精神遅滞児として施設で生活する児童であり、また、右園児らの多くは、事件から約三年を経過した第二次捜査段階に至って右事実の供述を始めていることから、その信用性判断には多くの問題点が存在し、特に慎重さが要求される。

原判決は、これらの問題点につき極めて詳細にその判断過程を示し、結果として右園児供述の信用性を排斥しているところ、この原判決の判断に対し、検察官は、原判決が精神遅滞児の特質や能力等について基本的な理解を誤ったためにその供述の信用性を不当に排斥した旨主張している。

当裁判所は、この園児供述の信用性判断部分においても、結論として原判決の判断に検察官の主張するような事実誤認はないと考えるが、検察官の所論にかんがみ、まず、各園児に共通する信用性判断の基本的な考え方を示し、また、検察官の主張する「口止め」論についても触れた後、各園児個別の供述の信用性について原判決を非難する検察官の所論のうち、主要なものに判断を示すこととする。

2  園児供述の信用性判断の方法について

(一) 供述の信用性判断一般

まず、各園児の供述の信用性を判断するについても、通常の場合における供述の信用性判断の場合と同じく、基本的にはその供述を分析する方法によらなければならないと考える。

一般に、人の過去に体験した事実に関する供述には、意識的なものにせよ無意識的なものにせよ種々の原因で誤りが生じる可能性があり、その結果、供述全体が事実と異なるものになったり、一部が事実と異なったりする。したがって、個々の事実に関する供述を分析することなく、供述者の能力及び性格などの特性並びに立場といった具体的供述を離れた人的要素のみによってその供述を全体として信用できるとか信用できないとか判断することはできず、具体的になされた供述を検討して初めてその信用性が判断できる。基本的には、個々の供述を検討し、述べられている内容自体が具体的で合理的なものであるか、他に存在する客観的証拠と整合するか否かといった供述内容の面と、その供述がどのような経過で現れたものであるのか、一貫しているのか変遷しているのかといった供述経過の面からこれを総合的に検討することになる。その際には、例えば、供述内容の一部が事実に反すると認められた場合にも、そのことによって直ちに供述の全部が信用できないと即断することはできず、その誤りの原因がどこにあるか、それは他の部分にも影響するような理由によるものであるかなどをさらに検討することが必要であるし、供述に変遷がある場合も、供述者が供述変更の理由を説明しているか否か、その理由が合理的か、本人が説明しない(できない)供述変更の理由が考えられるかなどを検討することが必要である。そして、先に述べた人的要素は、そのような供述を具体的に分析して検討する過程において、適用する経験則に修正を加えるものとして考慮されるべき要素となる。

本件においては、供述者が精神遅滞者であり年少者であるという通常と異なる二つの大きな人的要素が存在するが、供述能力が否定されるような場合を除き、その供述の信用性を判断するについては、右に述べた供述分析を中心とした方法と異なる方法によりその信用性を判断すべき理由はない。ただ、本件においては、検察官が精神遅滞児である園児の特性を強く主張しており、これは具体的な供述の信用性判断に影響する可能性があるので、まず、このような供述者の特性についての当裁判所の考えを述べる。

(二) 年少者の供述の特性について

本件では精神遅滞児の供述が問題となっているが、健常児であっても年少者の供述については従来からその供述の特性が問題とされてきている。一般には、信用性を低める特性として、被暗示性・被誘導性が強いこと、空想・作り話と現実を混同する傾向があり、想像的表象を知覚したもののごとく再現する場合があること、近親者などの大人の承認を求めて迎合し易いこと、時間や日にちの混同がみられることなどが指摘され、一方、信用性を高める特性として、直接記憶が優れていること、特に、異常体験を告白する場合には印象も強く、真実性も高いこと、社会的に意図的虚言の動機が少ないことなどが指摘されている。

もちろん、ある個人における供述の特性は千差万別であることはいうまでもないが、一般の年少者を総体としてみた場合に、右のような特性が認められることは、社会的にほぼ承認されていると考えられる。本件園児も、精神遅滞の「年少者」であることは間違いないのであるから、右の一般の年少者と同様に考えてよいのか、一般の年少者の特性は有しているけれどもそれに加えてさらに何らかの特性を持つのか、それとも一般年少者とは異なる特性を持つのかといった問題意識が必要となる。

(三) 精神遅滞の年少者の特性について

(1) 検察官の主張

検察官は、原審以来、精神遅滞児の能力等には特質がある旨主張している。精神遅滞者においては、何らかの原因で精神発達が抑制されたため、同じ生活年齢の健常者に比して知的能力の面で遅れがあることには異論がなく、問題とされているのは、知能テスト等で同じ精神年齢にあるとされた健常児と精神遅滞児の間で差があるか否かである。検察官の主張のうち、「現実の人間の行動は様々な要因の影響下にあり、単に知的能力の側面のみからとらえられるものではないのであって、当該人物の社会的経験度(社会性)、性格、人格などが一体となってその行動を基礎づけるのであり、人間の行動を考える場合、このような側面をも合わせて考慮する必要がある。精神遅滞児についても個人差があり、その能力を一義的に判定し得るものではないが、その人格的側面から見ると、精神遅滞とは単なる知能の発育上の病気ではなく、人格発達の遅滞、人格の偏りという側面をも合わせ持つ。」とする精神遅滞一般論は、「人格発達の遅滞、人格の偏り」という言葉によって具体的に何を意味しているのかが明確ではないものの、単なる知的能力だけでなく人格的にも異なる面があり得るという点では正当な指摘であると思われる。しかしながら、本件で求められるのは、供述の信用性判断であるから、より直接的に、認識、記憶、再生、表現という過程を経てなされる過去の事実に関する供述に、その異なる人格的なものがどのような特性として現れるのかを問題にすべきである。このような精神遅滞児の供述についての具体的特性の内容に則して検察官の主張をみると、先に述べた年少児の特性との関係が明らかにされておらず、健常な大人との対比での特性を指摘しているのか、健常な年少児の特性を前提としてさらに精神遅滞児の特性として指摘しているのかがあいまいであること、また、そもそもの特性の主張と、これを本件供述に当てはめた結果の主張が混然としていることから、その主張に理解し難い面もあるが、検察官自身が第一次控訴時における控訴趣意書も引用して主張しているのでこれも併せて読めば、精神遅滞児の一般的特性としてはおおむね次のような事項、すなわち、

(ア) 体験的な事実で印象的なものは強く記銘・保持されて、他人に伝える能力はあるが、体験してもいないことを覚えてこれを伝える能力はない

(イ) 論理的矛盾を含まず、また、深い見通しをもって虚偽の事実を構成する能力に欠けている(この中には虚構を作り出すことができないという意味と虚構を覚えることができないという意味の二つが含まれるが、後者は(ア)の記憶の場面として考慮すべき内容と考えられる)

(ウ) 尋問により供述を求める場合には、穏やかな雰囲気で細かいステップを踏んでゆっくり質問することが必要で、包括的・抽象的質問には答えられない

(エ) 行動の堅さ・固執性・一元性・環境の変化に対する適応能力のなさがあり、健常児と同じ反応をするとは限らない(だから供述内容としての不自然な行動は必ずしも信用性を害しない)

の各主張をしているものと理解することができる。

認識、記憶、再生及び表現の過程で考えれば、(ア)が記憶についての特性、(イ)・(ウ)が再生、表現についての特性の主張であり、(エ)が供述内容が合理的か否かを判断する際に用いる行動特性の主張と分類できると考えられる。以下、順次これに関する当裁判所の見解を示す。

(2) (ア)の「体験的な事実で印象的なものは強く記銘・保持されて、他人に伝える能力はあるが、体験してもいないことを覚えてこれを伝える能力はない」との主張について

この点に関しては、一般論として直接に右の趣旨を述べる鑑定ないし証言はなく、検察官の主張は、一谷鑑定及び証言並びに岡本の証言のうち、ピアジェの発達段階の理論における四歳から七歳の児童の思考段階である「直観期」の説明部分を根拠にするものである。そこで、右各証言等を検討すると、原判決が第六の三4(二)(2)イ(203頁)において指摘するように、一谷鑑定においてはピアジェの理論について多少誤解があるのではないかと思われる点もないではないが、同人の証言においては、その誤りを指摘する弁護人の質問に対して自己に誤解があった点はこれを修正した上である程度合理的な答えをしており、一谷の鑑定・証言の価値を全体として軽視することは相当でない。そして、一谷及び岡本の各証言を総合検討すれば、思考発達過程の「直観期」においては、頭の中での論理的思考(これは成長とともに具体的操作から形式的操作へと進むものである。)が不十分なため、目で見えるものにとらわれやすい、という意味では同じことを述べていると理解することができ、これは常識的にも容易に理解できる結論である。しかし、検察官は、これを、だから精神遅滞児は目で見たものは記憶できるが、それ以外は記憶が困難であるという論を展開している。これは、以下に説明するように、論理の飛躍があり表現としても相当性を欠くものといわざるを得ない。

まず、右「直観期の特性」は、思考の発達過程における理論であり、健常児、精神遅滞児を問わずみられるものであって、「精神遅滞」児の特性ではないという点は前提であるが、そこで指摘されている、「目で見えるものにとらわれる。」という特性は、思考の段階の議論であって、記憶の段階での議論ではない。一谷も、一般論として検察官主張のように「見たものは覚えることができるが、見ていないものは覚えることが困難である。」とは述べてはいないのである。この点、一谷は、鑑定書のうちのBに関する具体的鑑定部分ではあるが、知能発達段階の一般論として「イメージや知覚に強く支配されて行動すること、それによって状況や場面を理解すること、逆にいえば、場面や状況のイメージや知覚が固定しやすい段階にある。」と記載し、また、証言において「エピソード記憶は意味的記憶に比べて知能発達にかかわりあいなく保存され易い。」旨も述べているため、これが「現実に見たりして経験したことはよく覚えている。」という意味で検察官主張に近いものと解釈する余地がないではない。しかし、この点に関しては、一谷自身においてもこれらを健常児に比した精神遅滞児の特徴として述べている部分はないのであって、むしろ、岡本が、健常児、精神遅滞児を問わず「イメージできるものは記憶しやすく、イメージが困難な事実、すなわち抽象的事実や論理操作による推論によって構成する事実は記憶し難い。」という証言をしており、これは極めて常識的で容易に理解できる説明であるところ、一谷のエピソード記憶の話も、体験しているが故にイメージに残りやすいという意味ではこれと異なるものではないと理解できる。問題は、現実に見たこと体験したことだけがイメージでき、見たこと体験したことがないものはイメージできないといえるか否かであるが、イメージの容易さは、その事実が理解できるか否かにかなり影響されるものであるから、現実に経験したか否かだけで決まらず、同種の経験の有無や、他人の話、本又はテレビ等からの学習の有無などの自己の生活経験により理解が容易であるか否かにも関係し、その程度も種々の要素にかかわる連続的なものと考えられる。これは通常の大人であっても変わりはなく、「体験したことの方が体験していないことよりイメージとして残しやすい。」ことは当然であり、年少者の場合には、自己の生活経験が大人に比して少ないため、類似の経験を当てはめるにしても、論理的に思考するにしても、理解できる事象の範囲が狭くならざるを得ないから、体験した事実の方が記憶し易い場合が多くなるであろうが、これを、「見たものは覚えることができるが、見ていないものは覚えることが困難である。」というような次元の異なる極端な命題として理解することはできない。なお、健常児に比べて同じ精神年齢の精神遅滞児の方が施設における生活によって社会的経験が限定される部分もあるため、右のような特徴がより強く出るのではないかとも考えられるが、逆に生活年齢が長いことから経験豊富な面もあるから、これも、記憶の対象となる事象によってその影響を考慮すべき要素でしかない。

以上のとおり、この記憶の特性に関する主張は、精神遅滞児にとって記憶することが容易であるか困難であるかの一つの要素として体験したかしていないかが関係するという当然のことをいうものに過ぎないとすれば特に問題はないが、あたかも特殊な性質であるかのようにいうのであれば、その認識は正当でないというべきである。

(3) (イ)の「論理的矛盾を含まず、また、深い見通しをもって虚偽の事実を構成する能力に欠けている」との主張について

この点に関しては、武貞が証言において、知能程度が低いから、「作話」は困難であり場当たり的な嘘しかつけないというような説明をしているほかは、精神遅滞児の一般的特性として直接に述べている鑑定ないし証言はないが、武貞・吉田鑑定の結論部分及び武貞の証言において、Bの特性としてそのような判断が示されているものである。これらの鑑定及び証言は、以下のように理解すべきである。

まず、ここで取り上げられている特性は、自ら事実を作り出して述べる場合の特性であり、記憶(事実に合致する正しい記憶であるか誤った記憶であるかは別である)している事実を述べる場合には「事実を構成する」作業は生じないのであるから、意図的な虚言において問題となる点である。そして、右命題に関しては、そもそもいかなる事実をもって、「論理的矛盾を含まず、また、深い見通しをもって構成された事実」と考えるのかあいまいな点はさておき、一般論として、何らかの目的のために虚偽の話を作り出す場合、その目的のための見通しを持って、最初から最後まで話を作り、その筋道に論理的矛盾が含まれないようにすることは、大人にとっても容易なことではないのであって、知能程度の低い者にとってこれがより困難であることは当然である。それは知能程度との相関関係であると考えられ、精神遅滞児に限らず、年少者が嘘をつこうとする場合一般にいえることであろう。その意味で検察官主張の命題は誤りとはいえない。しかしながら、これは最初から最後まで自ら一方的に話を作るような場合にはそのまま妥当するが、相手方のある会話になれば、別の考慮が必要となることを忘れてはならない。すなわち、相手方との会話の中では、当然、「それからどうしたの。」という包括的な問いだけでなく、「誰かいたの。」「その人は何をしたの。」などの話を進めるための問い、あるいは、「歩いていたの、それとも、走っていたの。」などのヒントを与える問い、さらには、「走っていたのではないの。」などの誘導的な問いもなされ得るのであり、これらの問いに答えたりする会話のやりとりを通じてより話を拡げたり発展させることが可能になるからである。一谷も武貞も会話の相手方の聞き方で話が展開することを認めているのである。そして、そのような会話の中で出来上がった話に論理的矛盾が生じるかどうかは、話し手が矛盾のある話をしたときに聞き手である相手方がどう対応するか、すなわち、その矛盾を指摘して説明を求めるような方法で修正するのか、何もせずに放置するのかによるのであり、相手方の影響を無視できない。もちろん、知的能力・生活経験の多少に応じて、どのような聞き方でどこまで話を拡げることができるのかの程度の違いはあるだろうが、そのような会話による話の成立を無視して、年少者、精神遅滞児であるから、そもそも事実と異なる話をすることができないとか、これを作ろうとする場合には論理的矛盾が生じるとかいうことは相当でない。

(4) (ウ)の「尋問により供述を求める場合には、穏やかな雰囲気で細かいステップを踏んでゆっくり質問することが必要で、包括的・抽象的質問には答えられない」との主張について

この点に関しては、一谷が、「精神発達の程度によっては、記憶があっても言葉で表現できない場合があり、個々の子供について配慮すべきである。」として具体例を挙げながら証言するなどしているほか、園児の鑑定に携わった他の証人もこれと同趣旨の証言をするところである。

右証言等を検討すると、これも、精神遅滞児の特徴というより、健常児、精神遅滞児を含む知的発達レベルに応じた質問の仕方の問題であり、このこと自体何ら異を唱えるべきものではない。尋問により供述を求める場合、供述者に冷静な精神状態で答えさせるために穏やかな雰囲気で質問すべきこと、供述者の理解できるような質問をすべきことは供述者が誰であっても当然必要なことであり、特に対象者が年少者であったり、精神遅滞者であれば、一般の大人に対する以上に注意すべきであることも当然である。しかし、現在問題となっているのは、質問の結果得られた供述の信用性であり、この段階では、どのように質問すべきであったかは直接の問題ではなく、現実に得られた具体的供述内容を検討する中で、供述者がその答えをしたときにどのような精神状態であったのか、質問は理解できるようなものであったのかなどを、その供述者のレベルに応じて考慮し、その信用性を個別に判断すべきであるという意味しか持たないものである。検察官の主張は、この具体的適用に対する非難として、各園児供述の検討の中で考慮すれば足りる。

(5) (エ)の「行動の堅さ・固執性・一元性・環境の変化に対する適応能力のなさがあり、健常児と同じ反応をするとは限らない」との主張について

この点については、一谷も岡本も「同じ精神年齢でも遅滞児と健常児では生活年齢が異なり、環境も異なっているから、現れる行動、性格、表現に違いが出てくる。」旨証言しているところである。両名の証言を検討して、精神年齢の同じ健常児と比して精神遅滞児の行動に異なる特性があるかないかという抽象的問題を提起すると、これは違いがあるといわざるを得ないであろう。しかし、個々の環境による具体的な影響を捨象した精神遅滞児一般を想起した場合に、何がどのように違うのかについてみると、一谷証言によってはその違いの内容が明らかでなく、岡本証言によれば、精神遅滞児には「固さ」「固執性」があるということであり、その意味するところは、大人は「融通がつく」「要領がいい」ところがあるが、幼い子供はそのような意味での柔軟性はないという点を表現しているものと考えられる。そして、岡本証言によれば、この点で精神遅滞児に違いがあることは認めるものの、その違いは、健常児と質的に違うというものではなく、健常児でも幼いときには「固さ」が見られるが、発達するに従ってなくなってゆくのに対し、同じ精神年齢でも遅滞児は強く残るというように理解できる。右の「固さ」とは思考の多様性の欠如と解されるところ、精神遅滞児においては環境の変化が少ないために思考の多様性を身につけられないと理解することができる。

ところで、このような行動の特性があるとした場合、問題となるのは、供述の信用性を判断する上でこれをどのように考慮すべきかという点である。先に述べたような供述の信用性判断に関する当裁判所の立場からは、具体的な事実に関する供述分析の際に、その供述内容たる事実、特に園児の行動が合理的か否かを判断する要素として用いることになる。ここでの行動の特性は、健常児の行動と質的に異なるものではない上、そこに個性が影響する以上、一般論としては余り意味がないともいえるのではあるが、総体としての精神遅滞児の行動に一般的な特性があるともいい得るからには、個性としての特性が不明である場合、具体的な行動の解釈の場面において、一見不合理な行動がその一般的特性によって合理的に説明できるものか否かを考察すべきであろう。ただ、注意すべきは、ここで考慮すべき特性とは、存在が明らかであるか、少なくとも存在する可能性が合理的に説明できるような具体的な特性であることが必要であり、内容が全く不明であるが何らかの特性があるとして、その具体的内容を考慮することなく、一般には不合理な行動を特性があるから不合理ではないということは許されないということである。検察官の主張の中には、これに類する主張もないではなく、そのような主張は到底採用することができない。

(6) 一般的特性としてのまとめ

以上のとおりみてくると、検察官の主張する特性には、精神遅滞児を同じ精神年齢の健常児と比べたときの特性として、一般的に特別の考慮を必要とする特性とみるべきものはほとんど存在しない。供述の信用性判断においては、精神遅滞児、特に施設に収容されている園児が健常児と異なった生活環境に置かれていることは無視できないものの、基本的には、健常児と同様の判断基準に従い、個々の特性については個体差による違いとしての考慮で足りるというべきである。

3  口止め論について

(一) 「口止め」の意味

供述の信用性を判断する場合、供述内容に変遷があればその変遷の理由を具体的に検討することが必要であることはいうまでもないが、検察官は、園児の被告人目撃供述の多くが第二次捜査段階に至って初めて現れた共通の理由の一つとしてB谷による「口止め」の影響を指摘し、これが、園児が初期の段階で目撃供述を行うことの阻害要因になったと主張する。本件において、園児供述の信用性を判断するに当たり、「口止め論」をどのように考え、どのような事実が認定でき、どのような効果があったかということが特に重要であろうと思われるので、この「口止め」については各園児の個別の供述の信用性判断に入る前に全体としてみておくこととする。

(二) 口止め行為について

そこで、この段階で、各園児に共通する口止め行為としてどのような行為が認定できるかを検討するに、関係証拠の中には、R子の昭和四九年五月一八日付警察官調書に「一六日の朝早出のB谷先生に食堂で今度から警察の人に聞かれても何も言うたらあかんと言われました。」旨、E子の昭和五二年五月一日付警察官調書に「(具体的な名前は答えないが、先生から)Y子ちゃんやX君のこと今言ったらあかんと言われた。」旨、Dの昭和五三年三月一七日付検察官調書に「B谷先生から(被告人のことを)絶対に言うなよと言われていた。」旨の各記載があるほか、Bが「B谷からXがいなくなったことは警察にも父親にも言ってはいけないと言われた。」旨証言しているなど、青葉寮園児供述の中に、B谷あるいは特定しない先生から事件に関して話をしてはいけないと言われた旨の内容がみられる。原判決も第十二の三4(1422頁)の中で認定するとおり、B谷が、事件直後に、捜査のやり方に不満を持ったとして一部の職員らとともに捜査に非協力的な態度をとった事実が認められるのであり、そうすると、右の捜査への非協力の中で、園児に対しても、「捜査官に対し事件のことに関して話をしないように。」と言うことは十分考えられることである。また、そのような前提ではなくとも、一般的に、園児が事件に関して供述することによりその園児が事件に巻き込まれるとの心配、あるいは逆に、責任のない園児の発言により警察等の捜査官が混乱することがあってはいけないとの思い等から、職員において園児の発言を抑制しようとすることも考え得ることではある。これらを前提に、右各園児の供述も考慮すれば、B谷ないしその他の職員が園児に対し、事件に関して話をしてはいけない旨言った可能性はかなり高いものと認めるのが相当である。

右のような行為が、検察官が主張するような意味での「口止め行為」と表現できるものかどうかは問題である上、そこで認定できるのは抽象的な行為であって、具体的にどのような場所で、どういう機会に、どのような言い方でなされたのかを認定することはできないのであるが、このような行為であっても、園児に影響を与え得ることは否定できず、その存在は供述の検討の際に考慮すべきである。

さらに、右のような、一般的に話をしないようにというような行為ではなく、特定の人物に対し繰り返し働きかけたり、暴行・脅迫を手段とするような口止めがなされたとすれば、その影響力は格段に大きくなると考えられるのであるが、検察官は、そのような具体的な口止め行為の主張はしていない。本件証拠中にもそのような証拠は見当たらず、特に、園児らの重要な供述の多くが事件の約三年後に現れた本件において、「口止め」は捜査官にとっても重要な事実であり、当然細かく追及しているはずであるのにもかかわらず、先に摘示したほかに口止めの具体的内容が証拠上現れていないということを考慮すれば、むしろ、そのような個別的な口止めはなかったと考えるべきである。

(三) 園児と職員との関係について

検察官は、口止めの影響力が強いとの主張をするに際し、「特定の人物の具体的な口止め行為だけではなく、園児らの恐怖心や、職員である被告人の不利益になるようなことは言えないという意識なども併せてその要因として主張しているのである。」としている。これらは、個別の供述の信用性判断において検討すべき事柄であるが、そのうち、A山学園において職員と園児は対等ではなく支配・服従の関係であり、園児は職員に精神的に従属していたとし、B谷の言葉も、強い支配者の立場としての言葉である旨の主張については、便宜この段階で取り上げる。

確かに、職員と園児は、基本的に先生と生徒という関係である以上、両者は対等の立場ではなく、職員がふだんの生活の中で園児を教え躾けるという意味で職員が園児よりも強い力関係にあることは当然であり、関係証拠から窺われる学園の様子もその意味で十分理解することができる。このような状況のもとで、園児が先生の顔色を見て行動することもあり得ることではある。しかし、一般社会から疎遠な施設内で生活するA山学園園児において、通常の学校の生徒よりもその力関係が強く現れる場合があるとしても、これは程度問題であるとともに、各個人による差も大きいのであって、これが一律に支配・服従、精神的従属と表現されるような極端なものになることは、それ自体考え難く、関係証拠をみても、これを窺わせる証拠はない。

それどころか、年少の精神遅滞児と保母あるいは指導員の学園内での関係は、例えば排便排尿、就寝の世話など一般の生徒と先生の関係より一段とスキンシップの関係も深く、ある意味では園児が先生の立場の者に親しみを感じ、遠慮しない関係にあるのではないか、規律を厳しくするのみでは耐えられない面もあるのではないかということも容易に想定し得るところである。

(四) まとめ

以上のとおり、各園児に共通の問題について概観したが、この口止めの影響については、各園児個別に判断せざるを得ない問題である。

4  Bの供述

(一) はじめに

Bの供述は、昭和五五年二月から翌五六年一〇月にかけて差戻前一審で期日外に行われた証人尋問においてなされたものと、第二次捜査段階の検察官調書(昭和五二年五月から昭和五四年一二月にかけて作成された九通)におけるものが検察官請求の罪体についての証拠となっているが、同人は事件直後から捜査官による多数回の事情聴取を受けており、右の証拠以外にも弁護人の請求により多くの供述関係証拠が供述過程を立証趣旨として取り調べられている。それらの供述内容の概要は、例えば罪体に関する証拠となっているものについては原判決第六の一1(二)及び(三)(122頁、127頁)に、供述経過として取り調べられたもののうち事件直後の第一次捜査段階のものについては原判決第六の三5(二)(2)(218頁)に、同じく第二次捜査段階における当初のものについては原判決第六の三2(二)(187頁)にそれぞれ記載されたとおりであり、概括的な言い方をすれば、事件直後には事件当日の午後八時ころに被告人がXを連れ出した事実はなかった趣旨の供述をしていたのに対し、昭和五二年五月七日付警察官調書において初めて右連れ出しの事実があったと供述し、その後これを維持しているといえる(証人尋問では、反対尋問の際に主尋問とはかなり異なった、しかも趣旨不明の供述がみられるが、連れ出し事実があったという点はこれを撤回する趣旨ではなく、一応維持されているとみるのが相当である。)。

検察官は、右のような変遷のあるBの供述のうち、被告人によるX連れ出しの事実を目撃した旨の供述が信用できると主張するので、以下これについての検討過程を示すが、先に述べたように、供述の信用性を判断するためには供述内容と供述経過の両面からこれを検討しなければならず、また、その過程で供述者の人的な要素も考慮しなければならないのであるから、ここでは、まず、供述経過、供述内容の順に、具体的に検討した過程を示し、その後、所論が強調しているBの供述能力・特性について付言することとする。

(二) 基本的供述の変更について

(1) はじめに

供述経過の点からBの供述をみると、Bは、被告人によるX連れ出しという出来事について、事件直後の捜査段階ではこれがなかったとしていたのに対し、約三年後からの供述ではこれがあったとしている(検察官は、「事件直後の供述は被告人による連れ出し部分が脱落しているだけであって、『なかった』と供述しているわけではない。」との解釈をするが、前後の事実を詳しく供述しながらその間が脱落していることは、その間に大した出来事はなかったと供述していると理解するのが普通の考え方である。)。このように、ある出来事があったか否かの基本的部分に変更があれば、変更前後のいずれの供述を考えるにしても、特段の合理的な変遷理由がない限りその信用性にはマイナスに働く要因とみざるを得ない。しかし、現実に供述の変更がある以上、その変更理由を検討することが必要である。検察官は、Bにおける供述変更の理由は、被告人の連れ出しを目撃したことによる恐怖心並びにB谷ら及び父親D原太郎による口止めないし叱責が原因となっており、供述変更後になされた供述が真実である旨主張し、弁護人は、これが捜査官による意識的ないし無意識的な暗示・誘導によるものであって変更後になされた供述は信用できない旨主張している。そこで、右各主張についてそれぞれ検討を加える。

(2) 検察官主張の供述変更理由について

(ア) 恐怖心

この恐怖心について、Bは、「Xが連れて行かれるときのことを話したら自分も連れて行かれると思って怖かった。」旨証言しており、原判決も第六の三5(三)(229頁)において触れている。確かに、原判決が述べるようにBが検察官主張の態様によるX連れ出しを目撃したと仮定すれば、恐怖心から話ができないという事態はあり得ないことではないかもしれない。しかし、検察官や原判決がここでいう恐怖心の内容をどのように考えているのか必ずしも明確でない。検察官は、BもXと同じように連れて行かれて殺されてしまうとの恐怖心を想定しているかのようであるが、Bの供述するところを総合すれば、自分も同じように連れて行かれるのではないかと思い怖かった旨言っているものの、そのことからBが目撃直後にXが殺されると思ったとするのは余りにも飛躍し過ぎてとり得ないことは、例えばBの昭和五二年五月一〇日付警察官調書(一通目)に、目撃状況について今までなぜ黙っていたのかと質問されて、「B野先生に聞かれたときはX君は帰ってくると思っていたので知らんと嘘をつきました。X君がなくなってから澤崎先生が怖くて本当のことを言えませんでした。それからお父さんがいらんことを言うなよと言われていたので黙っていました。」とあり、証言中にもXは帰ってくると思っていた旨の証言部分があることからもいえる。したがって、外見上の態様としてBが目撃したと供述するとおりの事実があったとして、ただならぬ様子を見たBが一瞬恐怖心を持ったことはもちろんあり得るとしても、目撃事実をデイルームにいるB川や年長園児に一切話すことができないほどの恐怖心を持つとも考えにくい。確かに恐怖心を抱いたBがかかわり合いになることを恐れ、あるいは煩わしさから自分の方から話さないという事態も想定できるが、検察官の主張によればBはわざわざXを呼びに行ったというのであるから、そのXが被告人に外に連れて行かれたのであれば、後述のように行動的で多弁なBが自分の方からデイルームにいる者達に今目撃したことを話しかけることも容易に想像できるし、少なくともB野からXについて聞かれてもなお知らないと答えざるを得ないほどの恐怖心をそのときBが抱いたと考えるのは、やはり無理があるように思われる。要するに、Bが連れ出し事実を現実に目撃したと仮定しても、それによってBが他人に話せないほどの恐怖心を抱いたと考えるのはいささか性急に過ぎるのではないかとの疑問がある。

さらに、問題は、Bにおいて検察官が主張するような恐怖心を抱いていなかったのではないかと思われる状況が随所に認められることである。この点、検察官は、Bの担任保母であるE山の、「Bが事件後いったん自宅に帰った後に園に戻った際に怖がっている様子があった。」旨の証言や、父親D原太郎の、「事件後すぐにBを自宅に引きとり、後にA山学園に戻したが、それから車でA山学園に行ったきにBが車に乗り込んできて、A山学園にいるのが嫌だということで車から降りようとしないので、連れて帰った。」旨の証言によりBがおびえていたことは明らかである旨主張する。しかし、仮に、右各証言から、Bに怖がる様子があったと認められるにしても、学園内で園児が二人も死亡する事件が発生し、それも単なる事故ではないと考えられる以上、学園にいることを怖がるのは当たり前ともいえるのであって、被告人による連れ出しを目撃したことによる恐怖心に必ずしも結び付くものではない。むしろ、原判決が指摘する以下の事実、すなわち、①被告人の逮捕前後でBの態度等に変化がないこと、②Bが、被告人が釈放された日に、被告人に対し「Y子やXを殺しただろう。」との趣旨の発言をしたこと、③昭和四九年五月二四日にBが被告人と親しげな態度をとっていることは、Bが被告人に対して恐怖心を抱いていたこととは矛盾する事実といわざるを得ない。

検察官は、①につき、被告人の逮捕のみによってBが安心するとは言えない、②につき、側に信頼する担当保母がいて安心感があったことも一因となり得る、③につき、親しげな態度の根拠とする写真自体が国賠訴訟の資料とするため弁護団の特定の意図に基づいて撮影されたものである旨それぞれ主張して原判決の判断に反論する。しかし、「Bが、被告人の逮捕によっても影響を受けず、A山学園を離れた姫路の自宅において父親が側にいる状況で捜査官から知っていることを話してほしいと言われても自分が見たことを話せなかったほどの恐怖心を持っていた。」という検察官の主張を前提にすれば、そのような大きな恐怖心を抱いている者において、被告人に対して直接右②のような発言をし、あるいは③の親しげな態度をとっていることは不自然であり、この疑問は、所論のようなひとつひとつを取り上げればあり得ないとまではいえないというような個別の反論によって解消できるものではない。むしろ、Bにおいて、被告人に対する恐怖心などなく、単に被告人が逮捕されたという事実から被告人が犯人だと推測して右②のような発言をしたとみることなどで、Bの行動が容易に説明可能となるのである。

したがって、Bの供述する供述変更理由のうち、被告人に対する恐怖心については、これを裏付けるものはなく、むしろ、そうであるとすると不自然な点がみられると評価せざるを得ない。

(イ) B谷による口止め

このB谷からの口止めも、B自身が、「市電のところで遊んでいたら、B谷が来て『X君がいなくなったことは、お父さんや警察に言うたらあかん。』と言われた。」旨証言しているところである。

前記園児供述総論の口止め論の項で述べたとおり、B谷ないしその他の職員が、園児に対し、事件に関して話をしてはいけない旨言った可能性はかなり高いと認めるのが相当であるから、Bの述べるB谷の口止めによって話をしなかったという理由は、一応供述変更の理由として合理性を有するかのようである。しかし、Bのこの口止めに関する供述経過を検討すると、原判決も述べるとおり、この点に関するBの供述が事実であると考えることには供述内容自体に疑問を生じさせる要素が多々みられる。

まず、第一に、原判決が第六の三5(四)(2)ア(248頁)において説示するようにBの「市電のところでB谷から口止めされた。」との証言が、それ自体場当たり的であいまいであって、信用性が乏しい点である。これに対し、検察官は、①Bの口止めされた時期に関する答えについて、「口止めされた事実については記憶にあるものの、その時期についての記憶が明確でなく、弁護人の質問方法も不相当なものであった。」、②口止めの意味、内容に関する答えについて、「B谷の口止めの内容をBがどのように理解したのかという事項は極めて抽象的かつ概念的なものである。」、というそれぞれの理由で、あいまいさ、不自然さを説明しようとしている。しかし、①の時期について記憶があいまいであることはやむを得ないにしても、それならば記憶があいまいである旨を答えればよいのであり、仮に、Bの知的能力からそのような答えをすべきことに思い至らなかったとしても、結果としての答えは、記憶があいまいなために供述が揺れていると理解できるようなものになっているのが自然である。ところが、同人の答えは、原判決が指摘するとおり、明確な記憶があるかのような答えを場当たり的に変遷させているのであって、そのような答えからは、Bが必ずしも記憶にある事実を答えようとしていないのではないかとの疑いが生じる。そのような供述によっては、同人の述べる事実のうち、記憶にある事実とそうでない事実の判別が困難といわざるを得ない。また、②のB谷の口止めの内容をBがどのように理解したのかという事項は、Xについて一体何を喋ったらいけないのかという単純な事柄であり、もともとこれが理解できないならば口止めの効果がなく、口止めをすること自体が無意味であるから、何を喋ってはいけないと思ったのかという質問がBの能力を越えた抽象的な事項とはいえない。弁護人の具体的質問をみてもこれがBの理解が困難なものとは到底いえず、真にBがB谷の口止め行為によって何かを喋らなかったという記憶があるのであれば、Bの証言において別の答えがなされるはずであると感じられるものである。

第二に、原判決が第六の三5(四)(2)イ(251頁)で説示するように、捜査段階におけるこの点の供述の出方が不自然な点である。すなわち、Bは、昭和五二年五月から目撃供述を始めているのであるが、当初は、それまで話さなかった理由として、父親から言うなと言われていたことと被告人が怖かったという理由のみ掲げ、B谷については、暴行を受けたことがあって怖いとは述べられているものの同人からの口止めは述べていない。そして、昭和五四年一二月になって初めてB谷からの口止めが述べられているのである。この点につき、検察官は、BにとってB谷から暴行を受けたことが強烈な印象として残っていたために暴行のことが最初に述べられ、後に口止めが出てきても不自然ではないと反論する。しかし、捜査官が、初めてBの目撃供述がなされた際、同人がこれまで目撃事実を話さなかった理由を知ろうとして尋ねていたことは、調書上も父親の言葉や被告人への恐怖心で説明されていることから明らかであり、また、本件にB谷が何らかの関係を有していると想定してB谷のことを尋ねていたことも、それ自体が本件とのかかわりを持たないB谷の暴行の記載があることから明らかである。そうすると、そのような状況のもとで作成された供述調書にB谷による口止めについての記載がないということは、当時のBに、B谷による口止めのために供述しなかったという意識がなかったのではないかと考えるのが自然といわざるを得ないのであって、後になって初めて出てきたB谷の口止め供述の信用性に疑いが生じるのである。

第三に、原判決が第六の三5(四)(2)ウ(257頁)で説示するように、B証言によれば、B谷による口止めの時期が供述変更と客観的に結び付かない点である。すなわち、Bの証言によるB谷からの口止めの時期は、明確でない点はあるものの、一度自宅に帰り再びA山学園に戻ったころ以降と理解するのが自然であるところ(Bの昭和五三年三月一五日付検察官調書には、Bがジャングルジムの上から落とされたのは一度家に帰りまた学園に戻ってからのことである旨の記載がある点も参照。)、その口止め前の時期に当たるBの供述調書等に、被告人によるX連れ出しの事実が述べられていない。検察官は、Bが事件当初に目撃事実を供述しなかったのは強い恐怖心によるものとみられるから、この点も何ら不自然ではない旨主張するが、これは、B谷の口止めが供述変更の理由ではないとの主張になりかねないものであって、理解し難いものである。

第四に、これも原判決が第六の三5(二)(214頁)で説示するところであるが、Bの事件直後の供述の内容自体が、三月一七日のY子の行動を詳細に述べ、三月一九日のXの行動も被告人による連れ出し場面の直前まで述べるなど、口止めされた者の供述とは考え難い内容である点である。これに対し、検察官は、供述を妨げるのは被告人によるX連れ出し事実を供述することへの心理的負担であるから、他の場面の供述を詳細に供述することは不自然ではない旨反論する。しかし、Bにおいて検察官が主張するような目撃をしていたとしても、そのことをB谷が知っていたとは想定しにくいし、事件直後はXの事件とY子の事件は密接に関連したものと考えられていたのであるから、B谷が、ことさら被告人についてとかXの事件についてとか限定して口止めすることは考え難い(B谷において、各園児が何を知っているかを尋ねたり、被告人のことについてのみ口止めしたりしたことを窺わせる証拠もない。)。そうすると、口止めの主体は被告人ではなくB谷である上、その口止めは、X及びY子の事件を含めた一般的な口止めであったとしか考えられないのであるから、BがB谷の口止めを被告人によるX連れ出しの場面だけの口止めと受け取る可能性は低いと考えられる(Bの昭和五四年一二月五日付検察官調書には、Bが、B谷から市電のところで口止めされた際、B谷が自分の目撃事実を知っているのかと思った旨の記載があるが、前記のとおり、この市電のところでの口止めに関する供述はもともと信用性の低いものであり、右調書の記載も、口止めがY子のことを含めてではなくXのことだけについてなされ、そのためBが自分の目撃事実をB谷が知っているのかと思ったように記載されている点で不自然さも感じられる。)。そして、仮に、そのように受け取ったとしても、当然それは被告人に不利益な事実を供述してはならないという趣旨であることになるのであるから、B谷に対する恐怖心等から口止めに従おうとするならば、X連れ出し場面だけでなく、これに関連しそうな部分について一切供述しないように考えるのが自然であって、事件直後のBの供述調書の、積極的ともいえる詳細な記載をもって、口止めにより一部事実を隠していた者の供述であると説明することの不自然さは否定できない。

右のとおり、Bの供述する供述変更理由のうち、B谷による口止めについても、これが真の供述変更理由であると考えるには不自然な点がみられるといわざるを得ない。

(ウ) 父親による口止めないし叱責

この父親からの口止めないし叱責も、B自身が、「事件直後の事情聴取の際は『お父さんにいらんこと言うたらあかんて言われた。』から目撃事実を供述せず、約三年後のときには、『お父さんが自分の知っていることは全部話しなさいと言ったから。』これを供述した。」と理解できる証言をしているところであり、この趣旨の供述は、Bの調書として初めて目撃供述が記載されている昭和五二年五月七日付警察官調書にも「今まで、本当のことを知っていて刑事さんたちに話さなかったのは、お父さんから言うなよと言われたし……。」と記載されている。

しかしながら、この点についても、原判決が第六の三5(五)(265頁)及び同7(二)(310頁)において説示するように、父親であるD原太郎が昭和四九年四月二日の警察官の取調べ態度に怒って発した「何もいわんでよろしい。」という言葉は、警察官が謝りの意を表したため、その直後に「知っていることは話すように。」という趣旨のことを言って取り消されていること、当時のBの供述調書がXやY子について豊富な内容になっていること、太郎の言葉で被告人による連れ出し場面のみの口止めにはなり得ないこと、昭和五二年の口止めの解除は、そのような太郎の発言があったこと自体に疑問がある上、内容的にも事件直後の前記「知っていることは話すように。」という言葉と同じであり、昭和五二年に至って急に内容を異にして受け取る理由もないことなど、真の供述変更の理由と考えるには不自然な点が多いといわざるを得ない。

検察官は、父親D原太郎の「何もいわんでよろしい。」という発言の直後に「知っていることは話すように。」という趣旨のことを言ったとしても、その直前まで警察官に対し感情をむき出しにして怒っていた太郎の態度を見ていたBにおいて、警察に協力的になってはいけないとの気持ちをなお維持していたとしても不思議ではない旨主張するが、そうであれば、被告人によるX連れ出し場面だけでなく、XやY子に関する供述全体が抑制的になるはずであって、当時の供述調書の豊富な内容の説明が困難である。

(3) 弁護人の主張する供述変更理由について

(ア) 弁護人の主張

Bの供述変更の理由についての弁護人の主張は以下のようなものである。すなわち、Bは、被告人によるX連れ出しの事実を目撃したことはなかったが、事件の後の昭和四九年四月以降昭和五〇年五月にかけて、捜査官やXの母親B沢冬子らから事件に関する情報が与えられ、これにB沢冬子及びB自身の推測によって事実が付加されるうち、被告人によるX連れ出しという事実が自己の認識の中で固定化して自ら目撃したような錯覚に陥り、昭和五二年の西村巡査部長の事情聴取の際に誘導的な質問をされたことにより、右連れ出し事実を供述するに至った、というのである。

(イ) 弁護人の主張の検討

まず、Bにおいてどのような情報をどのように入手したかについては、原判決が第六の三9(三)(416頁)において説示しているとおりであって、Bにおいて、「被告人がX殺害の犯人であり、三月一九日夜に『さくら』の部屋で遊んでいたXをまずCが呼びに来たがXは帰らず、次に被告人がXを呼んで連れ出し、廊下をXと歩いて非常口の方に行った。」という基本的筋書を基礎づける情報は、昭和五二年五月のBの目撃供述以前に得ていたものと推測される。

また、西村巡査部長の事情聴取の際の暗示・誘導の可能性については原判決が第六の三7(一)(275頁)において説示するところであって、西村における事情聴取の経過、その場のやりとり等に照らし、これが暗示・誘導をもたらすものであった可能性を否定できない。特に、Bの児童記録、同人についての保母らの供述、武貞・吉田鑑定及び一谷鑑定におけるBの応答並びに証言時の応答等を総合して認められるBの性格、すなわち、行動的で多弁であること、身体的・社会的接触を求め、人なつこいこと、自我が弱く他者依存的であることなどの性格は、弁護人主張のような経緯で目撃供述が作出される疑いを強めるものである。

これに対し、検察官は、「誘導時の供述に対する影響の有無を考える場合、それは、主観的に捜査官に誘導の意思や事実を押し付ける意思があったか否かで決まるものではなく、現に供述人に対して誘導的、暗示的、押し付け的な尋問がなされたか否かで決まることであり、取調べ状況でそのような質問方法がとられていないのであれば、仮に捜査官に誘導・暗示の意思があったとしても誘導等による供述への影響ということはあり得ず、本件でのBの取調べについて西村に誘導・暗示・押し付けのような言動がなかったことは、西村自身及び立会人たる朝倉の証言から明らかである。」旨主張して、原判決の判断を非難する。しかしながら、検察官自身も理解して述べているとおり、原判決は、西村の積極的で意図的な誘導等のみを想定しているのではない。例えば、ある答えに対してもう一度同じ質問を繰り返すことだけでも、場合によっては供述者にとって前の答えを否定するうな暗示になり得るのであって、西村におけるBが何らかの事実を目撃していることへの期待と、Bの他者依存的な性格や承認欲求から、警察官という立場の者からの一見通常の質問のようにみえる言葉が、Bにとって暗示・誘導になり得る可能性を問題にしているのである。西村や朝倉の各証言によっては、このような意味での暗示・誘導があったことを否定することは不可能である。

さらに、検察官は、少なくとも、被告人が嫌がるXの足を持って引きずり出したという目撃の中心場面は、Bが事前に得ていたと考えられる情報の中にも全く存在しておらず、西村の無意識の暗示・誘導もあり得ない旨主張する。しかし、この場面は、被告人がXを連れ出すという流れの中では、一場面でしかなく、例えば、西村が「廊下を一緒に歩いていた二人が非常口を出るときにXが素直について行ったか、それとも嫌がったか。」という質問をし、Bが、これに対し、たまたま嫌がったという答えをしてしまえば、それならXはどうしたのかというような質問を重ねることによって、Bにおいていくらでも想定できる情景であって、これをもって事実存在しなければ供述できない事項ということはできない。

(4) 評価

以上によれば、Bの基本的な供述変更の理由として、検察官の主張する恐怖心、口止め等は、これがあり得ないこととまではいえないものの、これで説明しようとすると不自然な点が多く、むしろ、弁護人の主張するBの事前の情報と捜査官による暗示・誘導については、これを認める直接の証拠はないが、可能性としては十分考えられると評価すべきである。

(三) 供述の変遷等について

(1) はじめに

Bは、第二次捜査段階以降、基本的には被告人によるX連れ出し事実があった旨供述しているのであるが、その供述内容の中には多くの変遷とあいまいさがみられる。原判決は、B証言の反対尋問部分の変遷、あいまいさについては第六の二2(二)(139頁)において、捜査段階供述の変遷については第六の三8(339頁)において、それぞれ検討の過程を説明し、結論としてこれらの変遷、あいまいさがBの供述の信用性に疑いを抱かせるものである旨判断しているところ、右判断はおおむね首肯できるものである。

これに対し、検察官は、Bの供述の基本的部分は一貫しているとし、特に、原判決の「信用性判断では、単に核心となるべき事項さえ変遷がなく一貫していればよいというものではなく、その核心的事項を構成する種々な具体的事実あるいはそれに関連するその前後の供述事実等が変遷なく一貫していてこそ、その供述に信用性を与えることができる。」との見解に対し、これは、「証人の能力、特質等の人物像やその立場、証言対象とされた事柄の内容・性質等の違いを無視し、衝撃的な核心的事項もこれに付随するごく日常的な瑣末な周辺事項もその記銘、記憶の保持力には差異がないことを前提とするものである」と非難している。しかしながら、原判決は、瑣末な周辺事項に関する供述まで一貫していることを要するとは述べていないのであって、検察官の主張はこれを曲解しているものといわざるを得ない。すなわち、もともと、記憶に残っているべきものは抽象的事実ではなく具体的事実である以上、一貫すべき核心的事項という場合にもその核心的事項を構成する具体的事実を意味するのであり、これが一貫していなければ記憶に基づく供述としての信用性が揺らぐのは当然のことである。そして、その具体的事実に関連するその前後の事実等については、記憶の中心部分ではないために記憶があいまいな場合もあろうが、仮に一貫していれば、その信用性が高められるという関係にある。言い換えれば、記憶に残っているべき事実は、供述において一貫していることが当然の前提であり、そこに変遷があればその信用性が減殺されると評価され、記憶に残らなくてもやむを得ない周辺事実は、仮に供述において変遷があっても必ずしも信用性を失わせるものではないが、記憶が明確であるものとして供述全体の信用性を高めるとの評価をするためには、これが一貫していることを要するということである。原判決の見解は相当であって、要は、変遷している事項とその変遷理由の如何にある。

以下、検察官の主張のうち、主要な点について補足する。

(2) 証言について

検察官は、CがXを連れて行くのを見たことに関するB証言についての原判決の判断のうち、①CがXを連れて行った時期、見た内容が一貫しないとの判断に対し、テレビを見ている最中に連れて行った記憶は残っていたが、時間の経過によりその時期があいまいになっただけであり、原判決の指摘する齟齬は核心とはいえない些細なものである、②尋問者が異なればその直前に供述しなかったことも供述するという点に対し、尋問の方法、状況が異なるのであって何ら不自然ではない、③見えるはずのない「さくら」の部屋に入るのを見たと供述したことにつき、Bの終始デイルームにいたという証言に疑問があり、「CがXを連れて女子棟に行くのを見て、自分も遊ぼうと思って女子棟に行った。」旨の捜査段階供述に照らせば、証言内容は不自然ではないなどと主張する。

①についてみると、確かに、人の記憶に際して、出来事自体は覚えているもののその時期があいまいになることは少なからず起こり得ることではある。しかし、前記(二)(2)イの口止めの項でも述べたとおり、そのような場合、記憶があいまいである旨の答えがなされるか、少なくとも記憶があいまいなために供述が揺れていると理解できるような答えがなされるべきであるのに、Bのこの点の答えも、やはり明確な記憶があるかのような答えを場当たり的に変遷させているのである。テレビを見ている最中にCがXを連れて行ったというBの供述が正しかったことが他の証拠から立証された後であれば、結果としてBの表現力不足というような説明が可能かもしれないが、その供述自体からは、Xがいつデイルームにいたのか、CがいつXを「さくら」に連れて行ったのかが判明しないのと同様に、本当にBが三月一九日夜テレビを見ているときにそのようなことがあったのかという疑問も生じてしまうのである。

②については、Bにとってその尋問がどのようなものと理解されたかという問題である。Bの証言を検討すると、検察官の主張するように、Bが異なる質問と理解して異なった答え(沈黙を含む。)をした可能性を全く否定することはできないが、素直に読めば、Bが同じ問いに対して異なる答えをしていると理解するのが自然なものであることは否定できないのであって、検察官の主張は、可能性の低い事柄をことさら強調するものといわざるを得ず、意味のある反論とはなり得ない。

③については、検察官の主張自体が理解し難いものである。Bは、検察官の主尋問でも弁護人の反対尋問でもデイルームから見たと何度も答えているだけでなく、こたつに座っていたという状況まで説明しているのであって、この「デイルームから」という点が事実に反している可能性があるというのならば、「見た」という点も事実に反している可能性があることにならざるを得ない。

次に、検察官は、BがCとトイレの前で出会ったことに関する証言についての原判決の判断のうち、①Cの行動内容がCが女子棟から帰る途中に出会ったという状況ではなく、一貫性もないとの判断、②BがCに言ったと証言する「頼りないから先帰っておけ。」という言葉は、反対尋問で答えた両名の関係からすると不自然であるとの判断に対し、いずれも、Bの証言を全体的にみて合理的に解釈すればそのような一貫性のない不自然な証言ではないものと理解できるのであって、原判決が指摘する証言は弁護人の不当な押し付け的誘導尋問の影響によってもたらされたものである旨主張する。

この点に関してBの証言を検討すると、弁護人の質問の中に、検察官の主張するような押し付け的な質問ではないものの、聞き方によっては一定の答えを示唆するような質問が存在し、原判決の指摘するBの答えのうちの一部にその影響を受けた可能性の窺える部分があることは否定できない(ただし、弁護人の反対尋問を全体としてみたとき、これが長時間に及んだこと自体は、B証言の内容が事件から約三年後に初めて現れたものであること、反対尋問における答えが主尋問から変遷するなどしたこと、あるいは理由不明の沈黙があったことなどからするとやむを得ないものであったと認められるのであり、尋問内容も、不当な押し付け的な誘導はほとんどなされていない。)。しかしながら、そのような質問や答えはBの反対尋問のうちの一部であり、また、その一部も誘導的質問の影響を受けた可能性は窺われるものの、そうではなく自らの記憶、判断によってなされた答えの可能性も十分に有しているのであって、全体として判断したとき、Bが本当に女子棟から帰ってくるCとトイレの前で出会ったという場面の記憶があるのだろうかという疑問は、検察官の反論によって解消されるものではない。

さらに、検察官は、Bが被告人とXを目撃したことに関する証言についての原判決の判断のうち、①どの時点で被告人と気付いたか、何をしていると思ったか、その後B自身はどうしたかについて変遷ないし矛盾した証言をしているとの判断に対し、被告人であることに気付くという心理状態は段階的に微妙な経緯が存するのであってその差異の表現が困難であり、原判決の指摘する矛盾した証言は弁護人の不当な押し付け的な誘導尋問によるものである、②不自然なまでに過剰で詳細な証言がなされているとの判断に対し、Bと被告人及びXとの間にはその目撃をさえぎるような障害物はなく、Bは同人らの行動を見逃すまいと注視していたのであるから、Bの供述する目撃状況が極めて具体的であることは少しも不自然ではない旨主張する。

①の被告人と気付いたのがいつかという点について考えると、これが心理状態として段階的であることは所論指摘のとおりであろうが、本件目撃状況においては、Bにとって、Xを連れて行く女性が知らない外部の者であるかそれとも被告人であるかという事実の持つ意味は大きな違いがあると考えられるのであり、Bにおいて「いつ気付いたか。」と聞かれれば、答えるべき時点としては当然ある一時点を想定すると考えるのが普通である。年少者にとって段階的な心理状態を想定する方がむしろ困難であり、ある一時点を想定した上で、その時期の前後がはっきりしないのであればそのような答えがなされるはずである。しかるに、Bの供述はその時点が変転し、これに関連する被告人とXが何をしていると思ったかなども含めて一貫していないのであって、真に目撃場面の記憶が残っていることに疑いが生じるといわざるを得ない。また、②については、Bの証言の詳細さを、具体的であって信用性を高めるものとみるか、記憶に残っているはずのないほど過度に詳細であってかえって信用性を失わせるものとみるかの評価の違いであり、それぞれにそれなりの根拠があるともいえようが、この点については、記憶しているはずがないとまではいえないものの、三年後の供述という点から考えると、記憶に残っていることに疑問が生じると思われる事項が多過ぎるといわざるを得ない。

(3) 捜査段階供述について

原判決は、結局のところ、Bの捜査段階供述が、三年以上前の出来事について記憶していたにしては詳細過ぎる上、その内容に変遷があったり他の証拠と矛盾したりしていることから、その信用性に疑いを抱くとの判断をしているものである。

検察官は、原判決の右判断に至るまでの説明を種々非難しており、まず、原判決が、三年間目撃供述をしなかったBがその供述をするに至ったとすれば記憶が固定したものになっているのが自然であると判示していることに対し、基本的核心的な事柄については相当するとしても、周辺の事実についてまで当然記憶が固定してしかるべきであると考えることに論理的必然性はなく、そのような事柄について供述に変遷があることをもってその供述全体が不自然で信用性がないとする判断は不当である旨主張する。しかしながら、原判決は、周辺的事項につき記憶がなくなっていることはあるとしても、仮に記憶が残っているならばそれは固定されているはずであるとし、Bの供述が、これら周辺の事実につき、記憶があるかのように述べながら変遷していることからすれば、同人が記憶に基づいてではなく、いろいろ問われるうちにあるいは不自然さを問われるうちに、思いつくままにあるいは自分なりに理屈をたてて供述したのではないかとの疑いが生じるとして、その供述全体についての信用性に疑いを抱かせるとしているのである。検察官の主張は当たらない。

また、検察官は、供述調書の記載は捜査官において供述内容を要約して録取するものであって表現に正確を期し難い記載となることはあり得るし、事情聴取の際には体験した事実が余すところなく供述されるわけではないなど、調書作成上の限界を主張して、原判決の供述調書におけるB供述の解釈を非難するのであるが、この点は、検察官の主張する点を念頭に置いて調書を読んでも、Bの供述が不自然な変遷をしているという原判決の判断が不当なものとは考えられない。

(4) 評価

原判決の説示及び右に補足したところからもわかるように、Bの被告人によるX連れ出しの事実に関する供述は、三年間口を閉ざしていた事実を供述し始めたと考えるには、過度に詳細であったり不自然に変遷したりしており、「被告人がXを連れ出した。」という抽象的な事項については新供述を始めて以来一貫しているとしても、同人が思いつき、想像で供述している疑いを強く抱かせるものといわざるを得ない。

(5) 園児Kをめぐる供述変遷

なお、ここで、Bの供述中、第一次捜査の時点から証言時に至るまでその変遷が極めて顕著に現れているKをめぐる供述を通して、Bの供述傾向を考察してみる。昭和五〇年五月一〇日付捜査復命書によると、同月七日Bは警察官に対し姫路の自宅で、Xが殺されたときのことについて「自分は見ていないが、K君は知っていると思う。自分はK君から『Xは女子棟の廊下を歩いて出て行った。』と聞いた。」と説明し、さらに、「X君は一人で出ることはできない。こわがりである。また廊下の戸は鍵がかかっとるから一人では出られへん。そやけどそれだけしか聞いてへん。K君は知っとるやろ。」と答えたこと、次いで、同月一〇日にもBを伴ってKから事情を聞いた際、知らないと答えるKに対しBが記憶を呼び戻すように積極的に促していたことが認められる(なお、昭和五二年六月一三日付捜査復命書には、Kについて、昭和四九年五月八日から同月三〇日までの間六回にわたり事情聴取を行ったが有効な情報は得られなかった旨の記載がある。)。

Bが、昭和五〇年五月の段階でこのような内容の話をしていること自体、その当時、すなわち第一次捜査段階において既にBにとって果たして検察官のいう恐怖心やB谷の口止めあるいは父親の口止めないし叱責の効果があったといえるのか疑問を抱かせる事情といえるが、それはさておき、その後昭和五〇年八月八日付警察官調書では、「澤崎先生がX君やY子ちゃん殺したというたんはK君や。僕K君から部屋で聞いた。K君は『知っとったけど誰にも言えへんやった。』というた。」と述べ、第二次捜査でいわゆる新供述を始めた後である昭和五二年五月一〇日付警察官調書(二通目)では、「B野先生からXちゃんがおらんことを聞いて、しばらくしたころに自分の部屋の入口のところでK君に会った。K君は『B君がX君を捜しに外に出たんかと思って裏庭を見たんや。裏のマンホールのフタをあけている両方の手首から先を見た。暗くてわからんかったけど手首のところが黒いような毛糸みたいだった。』と言っていた。」旨供述し、翌日の同月一一日付検察官調書(二通目)では、ほぼ同旨の内容のことをKから聞いた点では同じであるものの、その聞いた時期と場所が異なり、同月二一日付検察官調書(一通目)では、Xが連れ出されるのを目撃した後、廊下を歩いて「くす」の部屋へ帰るとき、Kがデイルームの後ろの椅子に乗って窓から外をじっと見ていたとの供述がぽつんと出てきており、続いて同年六月一四日付検察官調書では、「Xがいなくなった晩、廊下から連れて行かれるのをKが見ていると警察には話したが、Kからは聞いていない。前に話したように、Kがデイルームの裏の窓のところから外を見ていた。それでKがXが廊下から連れて行かれるのを見て、Xが可哀想に思ってどうなることかと外を見ていたと思った。」旨供述している。

昭和五〇年五月の段階で話しているKから聞いたという事実が決して軽い事柄ではない上、自ら積極的にKの発言を促したほどのBが、第二次捜査の昭和五二年五月一〇日の警察官の取調べで突然Kから聞いた事実の内容が変わり、さらにその後の検察官の取調べでは、これも特に供述内容を翻した理由を述べることなしに、Kからは何も聞いておらず、Kが窓から外を見つめているのを見たと変わっている。検察官の主張によれば、Bは第二次捜査のC丘園では恐怖心や口止め等の枷がとれて真実を述べる心境になっていたというのであるが、それにもかかわらず、Kの件に関しては短時日の間にこのような大きな供述内容の変遷がみられるのである。検察官は、あるいはKから聞いたとして警察官に話したことなどは、自ら体験したこととは異なり、記憶に残らなくてもおかしくはないと主張するのかもしれないが、Kから聞いたという事実の内容は、簡単に忘れてしまうような事柄とも考えられず、その上わざわざ警察官に話していることである。しかも、その内容がなぜ変わるのかも納得できない。むしろ、Bの右の供述の変遷をみていると、Kから何らかの話を聞き、原判決が指摘する前記の他の情報とも相まって、次第にBの認識の中で固定化し、あたかも自ら目撃したような錯覚に陥っていたことを垣間見せるものといえる。また、他面、捜査のプロであるはずの警察官や検察官が、Bのその場その場の思いつき的供述に翻弄されているかのような観を呈しているとさえいえる。

そして、Bの証言に至っては、Kから話を聞いたこともなく、Kから聞いたという話を警察官等にもした記憶がないというのである。証言がBにとって事実を述べているものだとすれば、Bの記憶保持能力自体に根本的な疑問が生ずるし、Bが故意に供述を避けているとすれば、目撃供述そのものの信憑性に疑いを抱かせるものといわざるを得ない。

(四) 供述内容について

(1) 客観的事実や他の証拠との符合

供述内容からその信用性を判断する場合には、まず、その供述内容が客観的な事実や他の証拠と符合しているか否かを問題にすべきであり、特に本人が直接見ていなければ知り得ないような事実で客観的事実に合致している点があればその信用性は高まると考えられるが、本件ではそのようなものは存在しない。Bがいつも生活している青葉寮の一部である女子棟廊下における、通常接している被告人とXに関する目撃供述であるから、これらの点に関する供述内容が事実に合致していることは真実性の担保にはなり得ない。そして、他の証拠との関係でみると、被告人によるX連れ出しの時刻及び場所が他の園児の供述と一致しているが、このような抽象的な時刻及び場所の一致は、捜査官による意識的・無意識的な暗示・誘導が問題にされている本件において、それほど積極的に考慮することは相当でない。ただ、Cの供述は、Cが「さくら」の部屋にXを呼びに行ったが連れ戻すことができなかったという点で、Bの供述を具体的な部分で裏付けているともいい得るが、これは同時にA子供述の裏付けともなっているので、C供述の項で併せて検討することとする。

これに対し、他の証拠との食い違いを検討すると、原判決が園児供述全体についての根本的疑問として第五の四4(103頁)で述べるように、①検察官がB供述とともに信用できるとするA子供述及びE子供述を前提にすれば、Bが被告人によるX連れ出しを目撃したころにA子及びE子も付近にいたはずであるのに、これに関する相互の供述がなく、B自身当然気付くであろうA子に関する供述をしていないこと、②Bがこの目撃前後に男子棟と女子棟とを行き来しているのに、B川がこれに気付いた旨の供述をしていないこと、③Bが目撃の際に女子棟廊下にいたとすると、B野が男子棟の就寝状況を見て回った際には自室の「くす」にいなかったことになるのに、B野はBが「くす」にいなかった旨の供述をしておらず、さらにBの供述どおりだとすると、B野がXを捜して男子棟の居室を回っているころにBが女子棟での目撃を終えて男子棟の自室「くす」に戻ったことになるはずなのに、B野がBに気付いた旨の供述をしていないことなど、問題とすべき不一致点は多い。

検察官は、右の①につき、園児の目撃供述は、被告人及びXの位置関係については不正確な可能性があるので、相互に目撃していない可能性があるとか、Bは被告人とXに注意を集中していたはずであるから他の園児の有無に気付かなくとも不自然ではないなどと反論する。しかし、検察官の主張する事実は、被告人がXを「さくら」から連れ出して非常口から出るまでの短時間の状況をこの三人の園児が非常口から陰になるようにしてではあるにしても同じ廊下から見ていたというのである。これら三人の園児がたまたま相互に気付かれないようなタイミングで移動し、又は相互に視界に入っても気付かなかったということが容易に想定できない。検察官の反論は、あり得ないことではないという主張に過ぎず、右各証拠の内容が相互の関係で不自然であることを否定できるものではない。また、右の②及び③については、B川、B野らがXの行方不明を知った当時においては、いまだ目撃園児らの行動が行方不明となったXの行動の目撃に関係している可能性があるとの認識さえもなかったのであるから、目撃園児らの行動を裏付けるような供述をしていないことをもって園児供述が不自然であるとはいえず、むしろ当然と主張するのであるが、右②については不自然ではないという見方もあり得るという程度では当てはまるとしても、③、とりわけ前段部分については原判決が第六の三8(五)(2)(402頁)で詳細に説明するとおり、客観的事実と食い違っているといわざるを得ず、重大な疑問点である。

すなわち、B野の証言及び同人の昭和五二年五月二五日付検察官調書を素直にみる限り、B野は年少園児が就寝すべき午後八時になり、デイルームでテレビを見ていた園児が部屋に帰ってきたため、その子供達が部屋に入ったかどうか確認しようと男子棟の非常口の方からデイルームの方に順次部屋を見て回り、「まつ」の部屋でXがいないのに気付いたというのであるから、非常口に一番近い「くす」の部屋に居住し、しかも午後八時に寝ることになっている年少園児であるBは、B野が部屋を見て回ったときにはいたということにならざるを得ない。B野の右検察官調書は、むしろこのことを強調している趣旨が記載されているとみるべきであろう。

しかるに検察官は、B野の供述は事件発生から時間を経ており、また内容も理屈から推測したあいまいなものである旨主張している。確かに、B野の右検察官調書は、事件発生から約三年二か月経過した時点でなされているが、この点に関する供述は決して検察官がいうようにあいまいなものではなく、むしろ比較的明快であると評価できる上、簡単にではあるが、同趣旨の供述は、同人の昭和四九年四月二日付警察官調書、同月一四日付検察官調書、同年五月二八日付検察官調書にも記載されており、B野はこの点に関しては事件発生当初からほぼ一貫した供述をしているとみることができる。

さらに検察官は、B野はBが「くす」の部屋に在室しているのを確認したといっているのではなく、「自分が『まつ』の部屋にXがいないことがわかって、Xがいないと言い出しているので、そのことから考えると『くす』から『まつ』に至るまでの部屋の年少者は在室していたはずである。」というように、具体的記憶に基づかず、理屈から推測した感覚的供述をしているに過ぎないというが、B野は、当日男子棟を担当していた宿直者であり、しかも、前々日の一七日にはY子が行方不明になる状況があったのであるから、午後八時の就寝時刻に年少園児が男子棟のそれぞれの部屋に帰っているか否かを確認することが大切な職務内容の一つであり、そのため一番端の部屋から順次確認するのも当然のことで、かなり念入りに見たと推認できる。検察官は、B野はその際、一人で便所に行くことのできるような年少園児が部屋にいなくても、いまだ格別異常に感じたりすることなく、順次部屋の見回りを続けていたと認められるから、就寝介護を要する年少園児ではなかったBが「くす」の部屋に在室していなかったとしても、B野が、特にそのことに異常を感ずることなく、「まつ」の部屋まで見回りを続けたとしても何ら不自然ではないともいうが、これは明らかにB野供述を曲解しているとしかいいようがない。すなわち、B野供述中には、見回り当時便所に行っていた園児がいたような事実はおろか、それを窺わせるような供述すらない(歯みがきについては、当夜歯みがきをしている園児はいなかった旨の証言がある。)。もともと、B野は、「就寝介護を要する年少園児」の在室を確認するために見回ったわけではなく、「年少園児」全体についてその在室を確認するため、わざわざ一番奥から順次見回ってきたのであるから、もし在室していない年少園児がいたのであれば、便所であれその他の場所であれ、その所在を確認するための行動があってしかるべきであるのに、本件では全くそれが認められない。検察官の主張する解釈は、宿直者が午後八時ころ年少園児の在室を確認するために見回りをするという任務を通常とは(少なくともB野とは)かなり異なった内容のものと理解しない限りとり得ないものである。また、検察官は、B野供述が推測であることを強調するが、B野は、年少園児全体の確認のために見回りをしたのであり、Bとかその他特定の園児の確認のために見回りをしたわけではないから、Bとか特定の園児が在室していたのを確認した旨の供述調書にならないのはむしろ自然というべきであり、B野の供述するような経緯でX不在に気付いたというのであれば、Bが在室していなかった旨の供述がない限り、午後八時に寝る年少園児は揃っていた、すなわちBも在室していたという趣旨を供述しているとみる外なく、B野供述を推測であるといってみても、その「推測」なるものは誠にもっともな合理的な推認に他ならない。

そうだとすれば、「Bの第二次捜査以降の供述によれば、Bはイナズマンの予告編のころにデイルームを出て、男子トイレの前でCと出会って女子棟の方に向ったというのであるから、B野がBの居室である『くす』の部屋を見たころには、Bは自分の居室にはいなかったということになる。」との原判決の指摘はそのとおりであって、Bは客観的事実にそぐわない供述をしているといわざるを得ず、その信用性に決定的ともいい得る疑問を抱かせるものである。

(2) 内容の具体性・合理性

供述内容からその信用性を判断する場合には、その具体性・合理性も問題になるのでこの点を検討する。

一般には、供述内容が具体的・迫真的であればその信用性は高められるものといい得る。これは、細部にわたって虚偽の事実を作り出すことは必ずしも容易ではないため、具体的で迫真的な供述ができるのは、現実に見て記憶しているためであると推測されることが多いからである。したがって、信用性を高める具体性というのは、当然のことながら、一貫した具体性のことである。しかし、被告人によるX連れ出しに関するBの供述をみると、前記供述の変遷等で述べたように、具体的かつ詳細であるもののその内容が場当たり的に変遷しており一定していない。このような供述は、迫真的というより、思いつきによる単なる脚色の可能性を窺えると評価すべきものである。

また、被告人が嫌がるXを非常口から連れ出したというB供述の骨格部分には、それ自体で不合理な部分はないが、ある一場面に関する供述内容に不合理な点があればそれだけで信用性がなくなるのであって、不合理な部分がないといっても否定的な評価をする必要がないということに過ぎず、これを信用性を認めるような方向で積極的に評価することはできない。

ただ、内容自体の合理性という点では、不合理とまではいえないし、その判断は事件全体にかかわることではあるが、仮に被告人がXを連れ出そうとしたとしても、「先生」という立場からは説得による合意の連れ出しもそれほど困難ではないのではないか、午後八時ころという人目に触れる可能性が高い時間帯に、他の園児が寝ようとしている居室前の廊下で、抵抗して這っていくXを無理矢理引きずり出すという態様で連れ出すことまでするであろうか、という疑問がないではない。

(五) Bの供述能力・特性について

Bの供述の検討の結果は右に示したとおりであるが、検察官は、その検討についてはBの精神遅滞児としての供述能力・特性を考慮することが必要である旨主張し、原判決の判断に対して、その考慮が足りないために判断を誤ったと批判を加えているので、以下この供述能力・特性について付言する。

(1) 基本的な知能及び性格

まず、Bに関する武貞・吉田鑑定及び一谷鑑定によれば、同人が中度の精神遅滞の状態にあり、事件当時の生活年齢は一二歳二か月であるが知的発達の水準である精神年齢が五歳半前後から六歳ころであり、目撃供述を初めてしたころの精神年齢が六歳から七歳前後にそれぞれ相当するものであったと認められることは、原判決第六の一2(二)(133頁)記載のとおりであり、さらに、過去の事実に関して基本的な供述能力があり、器質的な精神疾患及び病的な虚言癖は存在しないものと認めることができる。

また、Bの性格として、武貞・吉田鑑定書は、「自己中心性・自我統制のまずさ、持続性のなさ、単純な反応様式、情緒的な未熟さ」を指摘し、「従って、自我が弱く、不安定であり、依存的で他人に従っていると安定感がある。自分で独立してゆくには困難な面があり、対人関係のまずさなどから社会的適応は十分とはいえない。一方固執性と従順な面もあり、他からの影響をうけやすい。人間として気のつきやすい面もあり、感受性もつよい。反省力・内省力はあるが感情の統制は困難な面を有する。規制があれば抑制は可能であるが、要求を抑え切れず規制が弱くなるか、はずされると衝動的行動に出やすいといえる。」旨、また、一谷鑑定書は、要旨、「他者依存的で、庇護、救済を求める傾向、社会的承認への欲求が強い傾向にあるが、過去の生育環境、生育歴などによるところが大である。満たされない欲求を保持しつづけているが、それは、愛情への欲求が主体となっており、強く、身体的、精神的、社会的接触を求めていることがうかがえる。」「施設収容中の特徴的行動(とりわけ遺尿、収集癖、虚言的行動等)、自己否定的弁解も右の事情(愛情を得たい、承認を得たいという欲求)からくる注意喚起行動、叱責回避行動とみることができる。」「行動は多動的、活動的でじっとしていることは苦手だが、案外緊張感が高く、外部からの刺激に対して敏感で感受性が高く、一対一の状況でゆっくり落ち着いて話さないと意思の疎通ができにくい。」との各判断を示しており、これらの、自我が弱い、承認欲求が強い、他者依存的、行動的である等の評価は、各鑑定がその根拠とするところの説明からも、青葉寮保母の供述や児童記録等から窺われるBの過去の行動からも是認できる判断である。これらの性格は、Bの供述の信用性判断に直結するものとまではいえないが、その判断に影響を及ぼすものである。

(2) 検察官の主張する特性

それでは、さらに、武貞・吉田鑑定及び一谷鑑定から、Bの供述特性としてどのようなものを認めることができるのか。検察官は、両鑑定のうち裁判所が証拠として採用しなかった具体的供述の信用性に関する結論部分が支持できるとの観点から所論を展開しており、具体的供述の信用性判断の前提となる一般的な供述特性としての主張が明確にはなされていないが、原審論告における主張も併せてみると、精神遅滞児一般についての主張と重なる面はあるものの、Bに一般的な供述能力があることを前提に、記憶保持能力について「具体的に経験したことの把持率は高く、エピソード的なものについては長期に記憶が保持される。」旨、表現能力について「言語表現については不十分であり、具体的なステップを踏んだ質問には答えることができるが、抽象的な質問に答えたり、理由を述べたりすることは困難である。」旨、虚言能力について「自分が認識したこと、知覚したこと以外のことを想像で組み立てて作り上げる能力は極めて弱く、論理的矛盾を含まず、また、深い見通しをもって虚偽の事実を構成することは困難である。」旨の主張をしていると解される。右各主張の当否について検討する。

(3) 記憶特性について

まず、この点に関する検察官の主張はどのような意味をもっていると理解すべきか。精神遅滞児であっても、過去の事実に関する供述の場合に当然の前提となる記憶力は有するという最低限の供述能力としてこれを主張しているのであれば、前記(1)で述べたとおりこれを肯定することができる。また、園児供述の総論部分で述べたように、「人は誰でも理解が容易でイメージし易い事柄がよく記憶でき、理解のための一要素として体験の有無が影響する。」という経験則の一つの適用場面として、Bの理解力については施設生活という社会経験の少なさも考慮しなければならないという意味でその特性を主張しているのならば、被告人によるX連れ出しという事実がBの経験において理解できるような事実か否かの検討は必要であるにしても、これに異を唱えるべき点はない。しかし、その場合は、供述分析の際に通常と異なる特別な経験則を用いることは不要であって、この特性はそれほど大きな問題とならない。したがって、検察官の主張は、健常児でもみられる年少者の記憶の傾向を越えた特別の性質として、「Bは体験したことは記憶できるが、体験していないことを記憶することは困難である。」と主張している可能性がある。仮にこのような主張であるとすると、具体的には、Bにおける体験事実に関する記憶が一般の健常児より優れているか、非体験事実に関する記憶が劣っているか、その双方であるかの主張ということになる。

しかし、このような観点から武貞・吉田鑑定及び一谷鑑定等を検討しても、Bの記憶に関して、精神年齢が同じ一般の健常児に比して体験事実に関する記憶が特に優れているとか、非体験事実に関する記憶が劣っているとかの事実を認めることはできない。

すなわち、武貞・吉田鑑定書には、Bについて「体験的な事実で印象的なもの、聴覚や視覚的に認知される感覚的印象は強く記憶される。」旨の鑑定結果が記載されており、一谷鑑定書の中には、「興味と自己中心性に関連して触れておかなくてはならないが、Bは、心理発達上の直観的思考段階にあり、具体的に目の前に生起する事象、事物のイメージや映像に基づいて物を考え、記憶する時期であるため、遊びに伴った事柄の方が、遊びに比べて概念的要素がより強い物語や知能検査用具で経験した事柄よりも良好に記憶していたことは十分理解可能である。」旨の記載があるが、これらの記載は、前述のような年少児の記憶の一般的傾向として体験した事実の方が非体験の事実よりも記憶し易いということに加え、年少児にとって興味のある遊びに関するものはよく覚え、興味のないものは余り覚えないという当然のことを述べている以上に、健常児一般に比してBに特別な傾向であることを意味しているものとは理解できない。なぜなら、例えば、武貞・吉田鑑定においては、知能、性格等に関する各種検査の結果と、その検査の際や面接等を通した行動観察により鑑定事項に関する判断を行っているが、記憶についての判断の部分では、要旨「外界の刺激を受け取り印象づけること自体は精神遅滞であるからといって必ずしも劣るものではないが、記憶の際には意識的・無意識的に何らかの媒介を利用するところ、概念形成・推理・判断・記憶等の抽象的機能の働きの劣る精神遅滞者においては、その媒介を利用する能力が足りないために記憶が影響を受ける。」と説明されており、これは、前述の「人は誰でも理解が容易でイメージし易い事柄がよく記憶できる。」の一般論を別の角度から説明した上、理解力として精神遅滞の部分が影響することを付加したものと考えられるし、また、長期記憶の要因として掲げられている、「無意味材料・有意味材料・運動技能に分けると後者ほど保持度は高い。」「材料の性質が意味性の豊かなもの・近親感の深いこと・連相価の高いことは保持上有利な要因である。」「単一の感性領域を通ずるよりも二つの感性領域を通じて刺激を受ける方が保持度はよくなる。」「自我関与の度合いを増すことは保持度を高める。」「課題指向の状態で行った仕事よりも自我指向の状態で行った仕事の方が保持度が向上する。」「動因があり、意図的に行った記銘は偶然的・無意図的に行った記銘よりも一般的に保持度を高める。」なども、大人・子供、健常者・精神遅滞者を含めた一般的な要因として述べられているものである。そして、このような前提と、Bが面接の際に話した自己の生育歴や過去の事実等が父親の話や他の者の調書の記載と一致していること(なお、生育歴については、過去の事実が自ら体験した事実として覚えられているのか、父親から聞かされた話として覚えられているのかの区別はなされていない。)を重要な考慮要素として、前記の「体験的な事実で印象的なもの、聴覚や視覚的に認知される感覚的印象は強く記憶される。」という判断が導かれているのであって、そこでは、健常児と比較した場合のBの特別な性質としては何も述べられていない。

また、一谷鑑定においても、Bの知的発達の水準が健常児の発達過程のうちの直観的思考段階にあることを重要な根拠にしており、実験の結果として説明する際にも健常児との比較はなされていない。

さらに付け加えると、武貞・吉田鑑定書には「(Bは)記憶的能力にややすぐれている面が見られる。」との、一谷鑑定書には「本人(B)の偶然学習における長期記憶は非常にすぐれたものである。少なくとも健常児とさほど差がない。」との各記載があり、これらは、その比較の対象とその根拠があいまいではあるものの、これまでにも児童心理を研究してきた者の経験的判断としてBの記憶能力が他の例えば理解力等に比べて優れていると感じたことを意味していると考える余地もある。しかし、これが、精神遅滞者でありながら機械的記憶のみが極めて卓越しているいわゆるイディオ・サバンのような能力を意味しているものでないことは明らかであり、一谷の「健常児とさほど差がない。」という記載が生活年齢が同じ健常児との比較であるとしても、一般の児童という範囲内で精神年齢よりも年上の記憶力を有するに過ぎないのであるから(ただし、知的能力一般については年齢とともに発達するとしても、このような偶然的記憶の面での記憶能力が年齢とともに当然に発達するか否かは不明である。)、供述分析の際に、特別に考慮すべき特性とまではいえない。

結局、Bの記憶特性は、供述判断において特に考慮するほどの特性とは考えられない。

(4) 表現能力について

検察官の、「言語表現については不十分であり、具体的なステップを踏んだ質問には答えることができるが、抽象的な質問に答えたり、理由を述べたりすることは困難である。」との主張については異論はない。具体的な質問、応答を検討する際に、個々の質問がBにとって理解が可能で答えることが可能な質問であったか、それとも困難な問いであったかを考慮し、これに対するBの答えも、表面上の文言だけでなく、B自身が何を答えようとしていたのかを注意して検討しなければならないという当然のことを意味するだけである。

(5) 虚言能力について

検察官は、「Bには、意図的に相手を不利な立場に陥れようとする深い見通しを持ってなされる詳細、複雑な嘘をつく能力がない。」と主張する。ここでも検察官の主張の意味が問題となる。

この「嘘をつく」という点に関しては、差戻前一審以来、Bが嘘をつくか否か、虚言癖があるか否かという点で検察官と弁護人との間で議論がなされたが、結局のところ、検察官もBが全く嘘をつかないと主張しているわけではなく、弁護人も、Bに病的な虚言癖があるという主張をしているわけではない。弁護人は、Bに盗癖があり、言い訳としての嘘もついていたと指摘するが、これは、Bが全く嘘をつかないと主張していたともみられる検察官への反論のための指摘であって、Bが特に虚言傾向を有しているとまで主張するのではないと解されるから、Bの過去の行動等が性格的な面で供述判断の際の考慮要素になり得るとしても、この盗癖の有無等を虚言能力の参考として特に問題にする必要はないであろう。

したがって、ここで取り上げるべきものは、検察官の、「Bの能力として、『本件目撃供述のような』嘘をつくことができない。」との主張である。

まず、検察官は、「意図的に相手方に不利な立場に陥れようとする深い見通しを持った嘘」を問題にしているが、Bが被告人に対する恨み等から意図的に罪に陥れようとするような状況は証拠上全く認められず、想定することも困難である上、弁護人も、Bの供述について、暗示・誘導によってなされた可能性を指摘するものの、右のような被告人を陥れるための嘘による虚言は主張していないのであるから、そのような問題提起自体が無意味なものといわざるを得ない。検察官は、「本件目撃供述の内容が、作り話とすれば論理的思考や深い見通し能力がなければ到底供述し得ないものであることはあえて説明の要もない。」旨主張するが、これは、何の暗示・誘導も考えられない状況において、ある人物を陥れるために自発的に目撃供述をしようとする場合を想定しての議論であって、弁護人のいう虚偽供述とその前提を異にしている。

弁護人が取り上げる暗示・誘導による虚偽供述の可能性を検討する場合、検察官のこの虚言能力の主張に意味を持たせるとすれば、「暗示・誘導があった場合に、これに従って詳細、複雑な嘘をつく能力があるかないか。」という部分であろう。すなわち、意識的に極めて露骨で詳細な誘導がなされた場合は問題にならないとしても、無意識的暗示・誘導の場合には、供述者において相手方の意図するところを推測し、自ら虚偽事実を構成する必要が出てくると考えられるからである。しかし、この点については、園児供述総論の中で述べたように、供述者と相手方との間の対話の中での暗示・誘導が問題となるのであって、供述者にそもそもどの程度の知識があり、相手方からどの程度の暗示・誘導がなされた場合に、事実として現実に認識していない事柄をどの程度作り出すことができるかということであるから、すべて程度にかかわる、しかも相手方との対話が介入しつつ進行する連続的な問題であるといわざるを得ないのであり、Bの知能発達が遅れている分その洞察力も劣っていることを考慮するにしても、虚偽事実の構成が可能であるか否かは具体的場面で検討するしかないものである。

なお、武貞・吉田鑑定においては、「(Bが)論理的矛盾を含まず又深い見とおしをもって虚偽の事実を構成することは困難である。」旨の判断がなされ、武貞証言中には「(Bが)自分が認知したこと知覚したこと以外を想像で組み立てて作り上げる力というのは極めて弱いですし、そういう虚言というふうなことは、私は、この子はまずできないと思います。」との供述が存在するが、検察官も認めるとおり、武貞は、少なくともBが簡単な嘘をつくことができることを認めているのであるから、右の「虚偽の事実を構成できない。」という意味もその場面と虚偽の内容等の状況によるとしかいえないものである。そして、武貞、吉田の両名が、これまで刑事手続における供述心理の研究に直接携わったことがないこと、本件の鑑定書及び証言中にも捜査官による事情聴取等がどのようになされたものであるかについての検討が十分なされた形跡がないことからすると、右武貞・吉田鑑定の内容は、その具体的な場面での基準としてもほとんど意味がないといわざるを得ない。

(6) まとめ

以上のとおり、Bの供述能力・特性について検討してみると、同人の供述の信用性を判断するについて、特殊な経験則による判断は必要ないものというべきである。もちろん、事件当時の知的発達の水準が五歳半前後から六歳ころの年少児であることからもたらされる性質、すなわち、思考としての論理操作が困難であり、具体的にイメージできない抽象的なものの理解力に乏しいこと、自我が確立しておらず被暗示性が強いことのほか、施設収容児として育てられたことにより社会的経験が限定されていること、固執性が認められる場合があること、さらに前記(1)で述べたBの性格などの事実は供述分析の際に考慮に入れる必要があるが、これらは通常の総合的判断の要素の一つであって、それぞれ必要に応じて考慮すれば足りる。したがって、B供述の検討につき特殊な解釈を必要とするかのような検察官の主張は採用できない。

(六) 小括

結局、被告人の連れ出し事実を目撃した旨のB供述は、事件直後に聞かれても答えなかったのに、事件から約三年後の第二次捜査段階で初めて現れたものであり、これが口止め等によるものと考えるのは困難なこと、その内容が過度に詳細で不自然に変遷しており、Bの性格からすると思いつきで述べている疑いが生ずること、内容的にも他の証拠と一致しないものであることなどからすると、これが事実に反すると断定はできないものの、真実と考えるについては払拭し難い大きな疑問がある。

5  A子の供述

(一) はじめに

A子の供述は、昭和五五年一月から翌五六年四月にかけて差戻前一審で期日外に行われた証人尋問においてなされたものと、検察官調書(昭和四九年四月から昭和五二年六月にかけて作成された一〇通)におけるものが検察官請求の罪体についての証拠であるが、右の証拠以外にも多くの供述関係証拠が弁護人の請求により供述過程を立証するものとして取り調べられている。右のうちの証言についての検察官の要約による内容は、原判決第七の一1(一)(429頁)に記載されたとおり、事件当日の午後八時ころに、被告人が「さくら」の部屋からXを連れ出したことをA子が知っているというものであり、この被告人の連れ出しという骨格は、事件の八日後にA子から事情を聞いた際に作成された昭和四九年三月二七日付捜査復命書にも記載されている。

以下、B供述と同様、まず、供述経過及び供述内容を具体的に検討した過程を説明し、その後、人的要素のうち一つの争点となっている供述能力・特性を検討することとする。

(二) A子の供述経過及び供述内容について

(1) はじめに

A子は、第一次捜査段階以降、基本的には、事件当日に被告人が「さくら」の部屋からXを連れ出した旨供述している。ただ、その供述を少し細かくみると、裁判所の面前でなされた証言も明確なものとはいい難い上、それまでの供述経過においていくつかの部分に変遷がみられるという問題点がある。原判決は、A子証言につき第七の二(470頁)において、捜査段階供述につき第七の三(518頁)において、それぞれ検討の過程を説明し、結論として、A子の証言については供述状況に照らしてその信用性を疑わしめる状況があり、罪体の証拠となっている捜査段階供述には捜査官の影響や看過できない変遷や疑問点がみられて信用できない旨判断しているところ、検察官は、この原判決の説示に対し、個別に種々反論し、A子供述に信用性がある旨主張している。

当裁判所は、このA子の供述につき検討した結果、以下のように考える。

まず、A子はいわゆる第三者的立場であり、大人以上に社会的利害関係も少ないと考えられ、A子がことさら被告人を陥れるために嘘をつくような事情は証拠上も見当たらない。検察官は、A子供述に信用性が認められる根拠として種々の主張をするが、その根幹となるのは、「A子にはことさら被告人に不利益な供述をする必要も理由もないのであるから、その述べることは事実である。」という点であると思われるところ、「子供が嘘をついてまで被告人を陥れるはずがない。」という率直な感覚は軽視できないものであって、仮にその供述に多少の変遷があっても、記憶があいまいであることなどで説明が可能なものであれば、必ずしもその信用性に疑いをいれる事情とはいい難い。その上、A子供述は、これが事件からそれほど間もない時期である八日後に現れている(昭和四九年三月二七日付警察官作成の捜査復命書)点では、他の園児供述と異なっており、その意味でも証拠価値は高いはずのものである。したがって、このA子供述は、本件において被告人の有罪を立証するための最重要証拠の一つと考えられる。

しかしながら、これは他の園児とも共通するのであるが、A子の供述によれば、同人はB野やB川がXを捜して「さくら」の部屋に来たことを知っているというのであり、そうであるとすれば、ごく少し前に自分が見聞きしたXと被告人のことを捜しに来たB川ら職員に話すのが普通であると思われるのに、何も話さなかったという重大な疑問である。

右の点はさておくとしても、一方で、年少者が成人に比べて暗示・誘導に影響され易いことは、これまでの裁判例からも明らかな経験則であって、供述の信用性を判断するためにはこの暗示・誘導の可能性を考慮せざるを得ない。そして、供述者本人が、自己の供述を暗示・誘導によるものであると自覚してその旨述べることが期待できない以上、その供述がなされた状況と現れた供述を検討してその可能性の有無、程度を判断する必要がある。

そのような観点でA子の捜査段階供述を検討すると、事件から八日後のA子供述の内容が、暗示・誘導の判断において最も重要な初期供述であるにもかかわらず、同人の後の供述内容と余りにも相違していることから、これをどのように理解すべきかという大きな問題が生じ、その後の供述の現れ方、変遷状況及び供述内容の若干の疑問等も併せれば、検察官の反論を考慮しても、A子が事実として認識していないにもかかわらず、事情聴取の際の暗示・誘導によって事件当日の被告人によるXの連れ出しを供述をし、その後これを維持している可能性が否定できず、このA子供述の信用性を高いとみることに躊躇を感じざるを得ない。

以下説明する。

(2) 証言について

原判決は、A子の期日外尋問における証言を各回ごとに詳細に検討し、検察官の主張する被告人によるX連れ出し事実が主尋問においても断片的にしか現れていないこと、反対尋問においては沈黙や「忘れた。」「わからない。」との答えが繰り返されたことなどから、この証言態度は、証言を求められている事項についてのA子の認識や記憶があいまいで、自信を持った答え方ができない事実を示唆するものであるとし、検察官の、「A子の右証言態度は、検察官の主尋問における弁護人の激しく執拗な異議による異常ともいえる法廷の状況下において、A子が冷静な状態で証言できず混乱させられたためのものであり、そのような中でもA子が被告人による連れ出しを証言したことは、その信用性を裏付けるものである。」との主張を退けているところ、検察官は、原判決が取り上げている個別の尋問部分について、原判決の解釈は恣意的なものであるとして反論を加えている。

A子証言でまず問題なのは、その尋問の雰囲気である。これをみると、神戸地方裁判所尼崎支部の会議室内に、裁判官が三名、検察官が三名から五名、弁護士が一五名から二六名のほか書記官、速記官が在室したという状況から考えて、部屋内の雰囲気がA子の緊張感を高めるものであったことは推測に難くなく、さらに、弁護人の異議は、検察官の質問方法からやむを得ない面があったにしても、かなり頻繁で声も大きく激しいものであったことが調書上窺われるのであって、これによりA子が精神的に動揺し、答えを躊躇するような状況であったことは否定できない。特に、主尋問の段階から、Cが「さくら」に来て帰った後という本件で問題となる場面でこのような異議が多くなされたことからすれば、弁護人が意図したものであるか否かは別として、結果的に、A子が、事件当日の状況のうち、被告人によるXの連れ出し事実を供述することに抵抗を感じたであろうことは、その尋問経過から窺われるところである。したがって、この点の答えが容易に出なかったこと、反対尋問において沈黙等が多かったことから、直ちにその信用性に疑いが生ずるとまではいえないと考える。しかしながら、A子に被告人によるX連れ出しの事実の記憶があったことが明らかになっているわけではないのであるから、右の証言態度が弁護人の異議等の結果であると断定できないことも当然であり、記憶等が不確かであるためにそのような証言態度になった可能性も否定できない。

なお、検察官は、A子証言につき、証人尋問の雰囲気、特に検察官の主尋問の際における弁護人の異議を問題にし、大声で余りにも激しい異議の申立てが多かったためにA子は萎縮してしまい、第一回の証人尋問期日で、被告人がXを連れて行った事実を証言するに至らなかった旨主張する。しかし、この点を含め、A子の証言と弁護人の異議申立ての関係については、原判決が第七の二2(475頁)において詳細に説示しているが、原判決の説示はおおむね相当であり、特に付加すべき点はない。ただ、検察官の所論にかんがみここで若干付言すると、A子、B及びE子という本件における園児証言中の主だった三人の証言は、その証言を求められている主たる事項が、いずれもいってみればそれほど複雑な事実であるとも思われないのに、三者とも尋問に対する答えが円滑になされない傾向があり、証言を渋ったり、避けたり、全体として証言をしたがらない様子が目立ち、A子及びE子において特にそれが顕著である。そして、この傾向は、決して弁護人の尋問の際に限られているわけではなく、検察官の尋問に際しても多かれ少なかれみられる。例えば、簡単な答えを得るにも、長い時間をかけ、何度も質問を繰り返し、なだめすかして尋問しなければならない様子がみてとれる。検察官の主尋問においても、これほど証言が難渋すると、つい誘導的尋問をしてしまうはめになり、これに対し弁護人側から異議の申立てがなされるといった悪循環に陥ってしまっているといえる。証人尋問はできるだけ冷静かつ穏やかに進行するのが望ましいが、当事者に異議申立権がある以上、それが違法であるとか濫用にわたるとかあるいは不相当なものでない限り、制限することができないのも当然である。検察官は、弁護人の異議申立てをA子があたかも自分がいじめられているかのように受け取り、結局証言できなかったというが、異議の申立てはいうまでもなく質問する相手方に対するものであって、証言する証人に対するものではない。そして、A子の証人尋問を含め、本件における園児の証人尋問の際の弁護人の尋問をみればわかるように、弁護人は、供述を渋る園児に何とか証言してもらおうと質問内容や言葉遣いを工夫したり、観点を変えたりなど努力している様子が窺われ、逆に言葉を荒くして責めたり、あからさまに叱責や非難をしている箇所はほとんど見当たらず、むしろ、証人が沈黙する時間が余りにも長いときには、裁判長がどちらかといえば厳しい言葉で証言を促しているとすらいってよい。検察官の所論では、あたかも弁護人が証人に証言させまいとして妨害的な異議の申立てをしているかのようであるが、もとより弁護人が証人をいじめたり、証言を妨害する意図をもって異議申立てをしていると認めることはできず、結果的に証人が萎縮する可能性があるからといって、正当な異議申立権を制限することはできない。もっとも、本件における証人尋問全体をみると、証人尋問に対する異議の申立ては必ずしも弁護人側の方が圧倒的に多いともいえず、検察官側からも相当激しくなされているともいえる。

結果として被告人によるXの連れ出し事実について、第一回の証人尋問期日では証言がなされておらず、全体を通してみても辛うじて右の部分についての証言が維持されているといい得るほどであり、見方によっては原判決が第七の二3(一)(511頁)において述べるように「検察官の主尋問において被告人によるX連れ出し状況を証言したというその評価には問題があり、また、反対尋問において、その証言を維持したともいえない。」と評価されかねないものであった以上、その証言内容が明確であるとして信用性を認めることはできない。検察官は、A子の証言がそのような不完全なものであるかどうかはさておき、A子にとって答えることが困難な過酷で耐え難い雰囲気の中でも被告人によるXの連れ出し事実を供述している以上その信用性は高い旨主張するが、A子のこの点の供述に、例えば第二回証人尋問期日において、CがXを呼びに来た事実を飛び越して被告人が呼びに来た事実を供述したり、青葉寮の図面を検察官に指示される前に書き出そうとするなど、検察官による証人テストの影響が窺えることは否定できないほか(このテストが、記憶の確認、整理の限度であるか、それを越えたものであったかは不明である。)、証言における連れ出し供述が捜査段階における事情聴取に影響されていることは間違いなく、その際述べた自己の供述内容に固執しているものとも考えられるのであるから、被告人によるXの連れ出しという骨格を曲がりなりにも証言したこと、あるいはこれを撤回しなかったことのみでその証言内容が事実である可能性が高いとの判断をすることは困難である。そもそも、A子証言が、事件当時から約六年を経過した時点でなされたものであることからすると、その証言状況のみから信用性を云々すること自体が無理というべきであって、結局のところ、A子供述の信用性を判断するには、捜査段階の供述から検討せざるを得ないと考える。

(3) 昭和四九年三月二七日付捜査復命書について

(ア) 昭和四九年三月二七日付捜査復命書の意味

捜査段階供述としては、検察官調書が罪体に関する証拠として提出されており、したがって、その供述調書の信用性を判断することが必要となるが、ここで考慮すべきは、原判決がその可能性を指摘し当事者も争点としてきた暗示・誘導の可能性であるから、それまでの供述経過を検討せざるを得ない。そして、それを検討する場合、当然のことながら、暗示・誘導の有無が問題となる事項に関する供述が最初になされた時点にまず注目すべきである。なぜなら、その後の供述は、いったん暗示・誘導によってもたらされた供述の影響を受けることが否定できず、必ずしも後の供述の際にも改めて暗示・誘導があるとは限らないからである。その意味で、原判決が三月二七日(以下、本項(3)において年を示さない月日は昭和四九年を意味する。)の捜査復命書を最初に取り上げていることは正しい着眼点である。ところで、前述のように本件における証拠状況でとりわけ重要な位置を占めるA子供述の信用性を考察する場合、いかなる経緯でA子供述が現れたかということがまず最初に検討されるべき点であろう。検察官も、何の利害関係もなく嘘を工作して言うはずのないほかならぬ園児であるA子が、事件後比較的早い段階でX連れ出し事実を供述している旨強調する。しかし、証拠によれば、警察官は、既にその前日の三月二六日に、Bから姫路の自宅で「XがA子の部屋で先生ごっこをしていたが、午後八時ころA子の部屋に行くとXはいなかった。」旨の供述を得ているのである(B供述に関する三月二六日付捜査復命書)。このB供述や、後記被告人を犯人として絞り込みつつあった捜査状況を基にすれば、A子から事情を聴取するのは、捜査の経過からみてごく自然な成り行きである。A子が何のきっかけもなく供述を始めたというのではなく、そこには事情聴取に当たった警察官の予測による暗示・誘導が入り得る余地があったことを考慮に入れねばならない。そして、三月二七日付捜査復命書に記載されたA子の供述内容をみると、その内容はその後になされたA子の供述の内容と大きく相違している。したがって、その後の供述内容との相違をどのようにみるべきかが大きな問題となる。

(イ) 検察官の主張

この点につき、検察官は、A子が三月一九日の被告人によるX連れ出しを事実として記憶していたと考え、「A子自身は、この事情聴取の際、警察官からXが行方不明になった日である三月一九日のことを聞かされていると十分理解した上で、後の連れ出し供述の内容と同様の内容を供述しようとしたが、警察官が、この事情聴取を聞き込みの一環として概括的に行い、十分に詰めた質問をせず、しかもA子の供述内容をよく理解せずに捜査復命書を記載したために、このような相違が生じたものであると思われる。」旨主張する。これは、捜査復命書に記載された内容どおりを当時A子が供述していたとすれば(証拠の解釈としてはこれが自然であることはいうまでもない。)、その内容は四月三日、四日の警察官調書以降のA子の連れ出し供述の内容と余りにも大きな相違があるため、事件後約一週間後と約二週間後以降とでこのような相違のある供述をしていること自体、果たしてA子に真に被告人によるX連れ出しの場面の記憶があるといえるのか疑問とされかねないことから、そのような主張をしているものと考えられる。

しかしながら、検察官の右の見方は著しく説得力に欠けるものである。すなわち、捜査復命書は、捜査官により一方的に作成されるものであって供述者ないしその立会人による録取内容の確認がなされていない点で、一般に供述調書に比べその信用性や正確性が低いとみられているとはいえ、犯罪捜査に必要な情報を収集するために捜査官が上司の命を受けて作成する書類であるから、検察官主張のようにいわばいい加減ともいえる記載がなされていると推測することはできず、特に本件のような重大事件において作成されたことにかんがみれば、そのような推測はむしろ不当であるといわざるを得ない。検察官は、右捜査復命書の事情聴取をしたのが機動捜査隊の警察官であることから、捜査能力、取調べ能力が十分でなかったことが窺われるとし、質問の内容、確認状況が判明していないことも合わせて右推測をするが、機動捜査隊の警察官であるから捜査能力、取調べ能力が十分でないといい得るものでないことは原判決が指摘するとおりである。記載内容に一部不正確な点があるという限度ならば検察官の説明も納得できないではないが、A子がトランプをしていたのか寝ていたのかという基本的な状況のほか原判決が指摘する多くの相違を、取調官の不手際で説明できるものではない(A子が精神遅滞児であることを考慮しても同様である。)。

そしてまた、仮に検察官主張のように、A子が後の連れ出し供述とほぼ同様の供述を三月二七日の段階でしていたとすれば、原判決が指摘するとおり、A子が三月二七日に既に被告人による連れ出し事実を供述していたのにもかかわらず、四月三日、四日にはその供述をするのにかなり抵抗していたという供述態度の説明が困難であるとの問題も生じる。検察官は、①三月二七日の事情聴取もスムーズであったか否か明らかではなく、むしろその供述はなかなか出てこなかったものと推認される、②精神遅滞児の場合、そのときの精神状況やその場の雰囲気、事情聴取を行う相手方の態度・言動によってその態度対応に差が生じても不自然ではない、③被告人が三月末にA子方を訪ね、同人の義母であるC川夏子にA子宛のお菓子を言付けたことから、これを知ったA子が不安と心理的負担を覚えて被告人の名前を出すことを渋ったと推察される旨述べて原判決の指摘に反論している。しかし、①については、三月二七日にA子の供述がなかなか出なかったことを窺わせる証拠は全く存在せず、供述状況が不明ではあるものの、むしろ捜査復命書に特段の記載がないことからすればそれほどの困難がなく事情聴取ができたのではないかとも当然いい得るし、②については、その日の状況で供述態度に変化があるにしても、四月三日の供述調書にもある程度の事実の記載があり、すべてのことについて事情聴取ができなかったわけではないのに、被告人が連れ出したという点について供述がなかったことがまさに問題なのである。また、③については、A子の供述する被告人によるXの連れ出しが平穏な態度であることに照らせば、そもそも三月末という時点でA子において右供述が被告人にとって好ましくない不利益な供述であるとの認識を有していたか否かに疑問があり、仮にそのような認識をあったとしても、被告人が自分の留守中に自宅を訪れてお菓子を言付けたことをこれに結び付けて、検察官主張のような心理状態になり、既に一度は警察官に話をしていたことを話さない方がよいと考えるようになることは、A子の社会経験、精神年齢からみて容易には考え難い上、そのような被告人に対する気がねを示すような言動は周囲の者の供述から窺えない。

結局、検察官の解釈は、右捜査復命書におけるA子の供述内容が、後の連れ出し供述と同一場面を供述したものであるという結論が判明しているときに、なぜこのように違う内容のものになったのかその理由を考えるとすれば、そのような説明にならざるを得ない、あるいはそのような説明も可能であるという以上のものではなく、同一場面を供述したものか否かがまさに問題となっているときにそれ自体が納得できる解釈とはいい難いものである。

(ウ) 原判決が採用した弁護人の主張

これに対し、原判決は、弁護人の主張を採用し、右捜査復命書に述べられた状況がいわば日常的出来事であって日にちの特定が困難であることなどの理由から、A子が別の日の出来事を供述している疑いがある旨判断している。前者の日常的出来事であるとする点を検討すると、被告人が「さくら」の部屋からXを連れ出すこと自体が日常的であることを直接示す証拠は存在しないが、Xが青葉寮園児の中では比較的G子と一緒に遊ぶことが多く夕食後はよく「さくら」に来ていたこと(A子の昭和四九年五月二九日付検察官調書のほか、他の青葉寮保母らの証言等から認められる。)からすると、Xが「さくら」で遊んでいることは日常的と考えられ、これに、青葉寮において保母らは年少児の就寝時刻である午後八時ころに各居室を見回って確認すること(他の青葉寮保母らの証言等によって認められる。)、さらに、具体的証拠はないものの、就寝準備時に限らず、保母らが用事のある園児を呼び出すことはあり得ると考えられること、青葉寮関係の指導員及び保母は約一〇人であり、その勤務形態からすると、被告人が宿直となる頻度も少なくないことも併せ考えると、右の日常的との判断に特に問題があるとは考えられない。また、三月一九日の特定が困難であるとする点であるが、右捜査復命書を作成した警察官が三月一九日のことを聴取しようとしていたこと自体は多分間違いないものと思われるものの、その発問自体において同日の特定が十分されていたかどうかは不明であり、A子の供述内容において「Xがいなくなった日」を特定できる事実関係が記載されていない以上、その記載自体からA子が同日の出来事としての記憶を供述したのか否か確認ができないという意味で特定が困難なことは否定できない。

ただ、これらは、右捜査復命書の記載が三月一九日のことを述べたものであると確定できないことを意味するのみであって、A子が別の日の出来事を話した可能性が高いことまで意味するものではない。弁護人は、三月一九日に被告人による連れ出しが存在しなかったとの立場を前提に、事実が存在しないのに右捜査復命書にその旨の記載がなされていることは、A子が別の日の出来事を混同していることで説明可能であると主張しているものとみるべきであろう。しかしながら、A子が別の日の出来事を供述している可能性を考えるについては、右二点のほか、そもそも、警察官において三月一九日の事情を聴取しようとしていながら、それとは異なる日の事実が述べられ、これが捜査復命書に記載されることがあり得るのかという基本問題が出てくる。すなわち、三月一九日に被告人によるX連れ出しの事実がなかったのならば、警察官の事情聴取に対しその旨答えれば済むことであって、ことさら被告人によるX連れ出しを述べる必要はないはずだからである。この説明がつかなければ、前記の内容の食い違いにもかかわらず、事実三月一九日に被告人によるX連れ出しがあったのではないかと推認させる依然として有力な証拠であり得ることになる。ここで三月二七日の段階での暗示・誘導の可能性が問題となる。

この点を検討するのに、既に三月二七日の時点で、警察官において被告人が「さくら」の部屋からXを連れ出したのではないかと疑っているかのような状況が窺われ、同日の事情聴取における暗示・誘導により、事実ではない被告人による連れ出しが供述された可能性があると考えることができる。すなわち、四月三日、四日ころの捜査状況については、原判決が第七の三3(四)(4)(568頁)で説示するところであるが、特に、被告人に対する嫌疑はY子発見時やY子の葬儀の際に被告人が示した言動等に端を発していること、B山出発後に被告人が管理棟事務室からいなくなっていたと思う旨のE田の供述や、被告人の言動が不審であるかのようなB川及びB野の各供述が早い段階で録取されていること、三月二八日には被告人から事情聴取した際に特異言動だけを取り上げた捜査復命書が作成されていることからすれば、既に三月二七日の時点でも警察官の間で被告人に対する嫌疑がかなり強まっていたとみるのが自然である。一方、既に述べたように、三月二六日には、Bが「三月一九日の午後七時から八時の間にテレビを見ていたが、そのころXは『さくら』の部屋でA子、H子、G子の四人で先生ごっこをしており、それを時々見に行った。午後八時ころに見に行ったらXはいなかった。」旨述べた捜査復命書が作成されている。そうすると、右Bの捜査復命書から、「Xは『さくら』の部屋から何者かによって連れ去られた。」ことが予想され、被告人への嫌疑と併せれば、「被告人が『さくら』の部屋からXを連れ出した。」ことが想定できるのである。

なお、検察官は、原判決の捜査状況に関する判断を非難し、三月中には主任捜査官の高橋でさえ犯人を被告人に絞り込める状況ではなかった旨主張するが、これは、事件から二〇年以上を経過した後に、しかも検察側に不利な証言をし難い立場にある高橋がした証言を無批判に信用せよというに過ぎないものであり、到底採用できない主張である。証拠書類に記述されている被告人への嫌疑の高まりが、主任捜査官の認識と無関係であるなどとは到底考えられない。しかも、高橋証言もこれを子細に読めば、警察は本件について早い段階から内部犯行説をとり、園児を一応除外し、職員に絞った捜査をしていたところ、職員のアリバイ関係を調べて、三月二五日にはE田の供述から被告人に容疑を向けていたことを証言していると受け取ることができる。被告人の特異言動等が犯人性を判断し得るようなものではなく、アリバイに関する関係者の供述も被告人が犯人であることを否定する方向で考慮できるものであったとの検察官の認識は正当であるが、捜査官において捜査当初一つの見込みにより捜査を進めることはこれと矛盾するわけではない。結果的には、他の可能性への考慮を疎かにして被告人が犯人であるとの思い込みによるともいえる捜査が本件のような事態を招いたものと批判されるべきであるが、一般的には、捜査当初において、他の可能性も留意しつつある程度経験的な勘によって捜査範囲を限定することは十分考えられることである。

右のとおり、既に三月二七日の時点で、警察官において被告人が「さくら」の部屋からXを連れ出したのではないかと考えていても不思議のない状況が窺われる以上、事情聴取の際に、「『さくら』の部屋にXがいたことはないか。」、「被告人が連れ出したことはないか。」などの質問がなされ、A子において日付の特定が不十分なまま、他の日の被告人による連れ出しを供述する可能性も否定できなくなる。このような暗示・誘導を直接示す証拠は存在しないものの、Bの三月二六日付捜査復命書に、「一九日夜、XはA子の部屋で、A子、H子、G子と先生ごっこをしていた。」旨記載されているところ、H子は当時「さくら」におらずBの話のうちのこの点は明らかに事実に反していた(H子の居室は「さくら」ではなく「ゆり」であって、そのときには先にB川から寝かされていた事実が後に判明している)。にもかかわらず、三月二七日のA子の捜査復命書においても、被告人がXを連れ出したとき「さくら」にH子がいたとしてもこの間違いが引き継がれていることは、Bの三月二六日付捜査復命書がA子の同月二七日の供述に影響していることを窺わせるものであり、これが右暗示・誘導を示唆するともいい得るであろう。

(エ) まとめ

以上検討したところから、A子の三月二七日付捜査復命書については次のようにいえる。すなわち、その内容とA子の後の連れ出し供述の内容との食い違いからみると、真実三月一九日に検察官が主張するような形での被告人によるX連れ出しがあり、A子が三月二七日にもその事実を供述したと考えることには余りにも支障が多過ぎかなり困難であるといわざるを得ない。そのように、異なる内容にもかかわらず、被告人によるX連れ出しという一点でのみ一致している供述の証拠が存在することは、逆に警察官による何らかの暗示・誘導を示唆するともいい得る。そして、三月一九日に右連れ出しがなかったのに、警察官による暗示・誘導により別の日の出来事が供述されたと考えることについては、これを否定すべき事情が見当たらない。

(4) 昭和四九年四月三日及び同月四日付の警察官調書について

右に述べたとおり、昭和四九年三月二七日付捜査復命書は、A子が後に述べる被告人によるX連れ出し供述、すなわち検察官が立証しようとする同年三月一九日の事件当日の出来事を述べたものとは理解し難いのであるが、同年四月三日及び四日付の各警察官調書は、同年三月一九日の出来事として記載されていることが明らかであり、その中で被告人によるX連れ出しの事実が供述されているのであるから、この両調書が次に問題となる。すなわち、本件で罪体の証拠となっているA子の連れ出し供述の原形が、昭和四九年四月三日及び四日に初めて現れているからである。

この昭和四九年四月三日及び同月四日付各警察官調書については、原判決が第七の三3(540頁)で説示するところをおおむね相当と認めることができるのであり、C川春子の立会状況、大内の質問方法等、供述調書の作成方法、当時の捜査状況等を検討すると、検察官の主張するように「大内によるA子の事情聴取に不当な誘導が入る余地がない。」ということはできない。

検察官のこの点に関する原判決への反論は、基本的には既に原判決により排斥された主張の繰り返しであったり、原判決の示した経験則と異なる経験則によってその結論を非難するものであって、改めて取り上げるまでもないと考えるが、基本的な考え方については改めて確認しておくと、当裁判所が相当と考える原判決の判断は、「A子が、この四月三日、四日の事情聴取において、大内による暗示・誘導の影響を受けて、事実としての記憶がなかったにもかかわらず被告人の連れ出しを供述した可能性が否定できない。」ということである。検察官は、原判決においてあたかも大内が意図的で不当な誘導により被告人の連れ出し事実を供述させた旨認定されているかのようにいってその判断を非難しているが、原判決はそのような判断をしているものではない。問題なのは、結果として暗示・誘導となり得るような質問方法がとられた可能性があったか否かということであり、合理的に推認できる当時の大内の暗示・誘導についての認識と、その証言、A子の供述調書及び捜査復命書等から窺われる質問方法によれば、その可能性が否定できないといっているのである。検察官の主張は、年少児における暗示・誘導の可能性をほとんど否定し、よほどの明確な誘導がない限り事実と異なる供述をするはずがないという立場によっているとしか考えられないものであり、その前提が採用できない。

この昭和四九年四月三日と四日付各警察官調書の信用性を考察するには、翌五日の大内作成にかかる捜査復命書の存在も看過できない。すなわち、そこには、大内がA子と会って事情聴取したが、「情緒安定せず真偽の程判定できませんので云々」との記載があり、これが三月一七日のことについていっているのか(検察官)、三月一九日のX連れ出しのことについていっているのか(原判決)争点となっている。当裁判所は、この点も原判決の説示が相当であると考えるが(三月一七日のことについては四月四日にも聴取され供述調書にも記載されているが、右捜査復命書の三月一七日についての記載はそれよりも詳しくなっていて相互に大きな矛盾はない旨の原判決の理由は説得力がある。)、さらに、本件における三月一七日と三月一九日の出来事の重要性の違いや、末尾にわざわざ「一九日悦子先生がY君を連れて行ったことは間違いない。」旨一行だけ記載されていること、検察官のいうようなことであれば、大事なことで誤解を招きかねないことであるから、この点を明らかならしめるような表現の工夫がなされてしかるべきと思われることなどを総合すれば、A子は、四月四日の供述調書を作成された翌日において、かなり動揺した不安定な精神状態にあったことを窺わしめるもので、ひいては同人の四月四日の供述内容が決して安定したものでないことと結び付く事情といえる。

(5) その後の供述の変遷について

昭和四九年四月三日、四日付各警察官調書以降の供述の変遷等についてみると、原判決が第七の三4(二)(590頁)において、その供述内容の合理性、変遷の理由についても検討しながら詳細に説示しているところもおおむね相当であり、①被告人のX連れ出しを目で見たのか耳で聞いて認識したのかの点、②被告人とXの位置関係の点、③被告人の服装及び髪型の点、④CがXを呼びに来たときに目をつぶっていたのか否かの点などの変遷は、A子が真に過去の事実の場面を記憶しておりこれに基づいて供述したのかに疑問を起こさせるものであるといわざるを得ない。特に、昭和四九年五月二一日にA子を取り調べた樋口検事の証言により、当時、A子が被告人の服装について事件当日の黒色フード付きダッフルコートとは異なった服装の供述をしていたと窺われることは、前記弁護人の主張の、他の日の出来事との混同の可能性を示唆するものである。

検察官は、①に対し、昭和四九年四月四日付警察官調書の記載はA子が目撃した趣旨と断定できず、同月八日付の検察官調書の記載は、A子が検察官の質問を誤解した可能性がある旨、②に対し、どちらが前を歩いていたかという事柄が通常では勘違いし得ないような事項であるとの考えが誤っている旨、③に対し、原判決の指摘する被告人の服装に関する変遷等は、A子が面倒くさがって「わからん。」と答えたり、質問が詰めてなされなかったりしたことによるもので、記憶自体があいまいではなかったと考えられ、髪型の点もふだん見慣れていた被告人の髪型の記憶喚起を行うことは三年後であっても特に困難ではない旨、④に対し、証言時に目をつぶっていたと変遷した理由は明確でないものの、尋問時の異様な雰囲気のためと考えられる旨それぞれ反論する。

しかしながら、①に関する主張は、供述調書の記載をことさら曲解し、調書を作成した検察官の証言さえ信用できないとして理屈づけようとするものであって、到底採用できる主張ではない。②については、勘違いがあり得ないとまではいえないとしても、瑣末とはいえない点について、あいまいな供述ではなく明確に供述する中で異なる情景を述べていることは、その場面について記憶があることを疑わせる変遷といわざるを得ない。③に関する主張も、服装の点については、A子が目撃したとする人物の服装は捜査官にとって犯人特定のための重要な要素であるという点をことさら無視し、単なる推測による可能性で説明しようとするもので反論たり得ず、髪型等の点については、検察官のこの主張自体が、昭和五二年六月三日付検察官調書には廊下を歩いていた女の人の髪型等として明確に記載されているものを、A子がふだんの被告人の髪型等として述べた内容であったと説明することになりかねず(女の人が被告人であったという記憶があったことから女の人自体の髪型の記憶を喚起したと説明するのかもしれないが、それでは情景として廊下の女の人の髪型をそのまま記憶していたことになるのか疑問であり、少なくとも調書上その記憶ないし記憶喚起の過程の説明が必要である。)、その主張を採用すれば供述調書の作成方法から全体的な信用性が問題になるのであって、これを記載どおりにA子が廊下の女性の髪型等を覚えていたとすれば原判決が指摘するとおり不自然といわざるを得ない。④については、Cが呼びに来たときに目をつぶっていたとの答えは、弁護人の異議の直後ではなく、Cが「X君、ねよう。」と言ったとか、Xが押入れの上にいたとかの答えが順次なされた後になされているものであり、尋問の雰囲気のために記憶と異なる答えをするような状況は窺われないのであって、検察官の主張は当たらない。

そして、このような説明の困難な変遷が存在することは、A子が精神遅滞児であろうがなかろうが、その供述の信用性に疑問を生じさせる一つの事情になることは否定できない。

(6) 供述内容について

(ア) 客観的事実や他の証拠との符合

A子の供述内容については、Bの場合と同様、客観的事実との符合として積極的に評価すべきほどのものはない。他の証拠との関係でいえば、B供述の場合と同様、C供述がその裏付けとなり得るものであるが、これはC供述の項で検討する。

これに対し、他の証拠との食い違いを検討しようとすると、そもそもA子の供述に変遷があり、何をその供述内容として考えればよいのか自体が問題となるものの、少なくも次の点の不一致は指摘することができる。すなわち、①B供述の項で述べたのと同様のことであるが、検察官がA子供述とともに信用できるとするB供述及びE子供述を前提にすれば、A子が被告人によるX連れ出しを目撃したころにB及びE子も付近にいたはずであるのに、これに関する相互の供述、特にA子を近くから見たと思われるBの供述がないこと、②A子は、被告人によるX連れ出しの後、B川がXを捜しに来た際には眠っていなかったと述べているが(眠っていた旨の供述もあるが、多くの供述は眠っていなかった旨の内容であり、検察官もこれが事実であると主張する。)、B川は、A子が眠っており、ちょっとゆすっても起きなかった旨証言していること、の二点である。

検察官は、②について、A子は布団に入って横になっていたが、眠っていなかったとして、B川らがXを捜しに来た際にA子がXのことを話さなかったことが不自然でないとの議論をしようとしているが、B川は、A子が寝ており肩をちょっとゆすっても起きなかった旨明確に証言しているのであり、目を覚ましており、それもB川がXを捜していることに気付きながらゆすられて目を開けることさえしないことの不自然さも併せ考えれば、A子は眠っていたと考えるのが自然であり、この部分のA子の供述は事実に反している可能性が高いといわざるを得ない。

この点について原判決は、「A子はB原(B川)が捜しに来たときには眠っており、その後何らかの形で職員らがXを捜しているのを知った。」と説明できるとし、さらに、「A子はテレビのキャシャーンとかイナズマンのまんがが好きであること、その好きなまんがイナズマンを見るのを途中でやめて部屋に帰っていること、その理由については、おもしろくなかったとか眠たかったと証言していること、A子は部屋に帰ると寝巻に着替えてすぐふとんに入っていること、A子は寝付きがよくすぐ寝てしまうことに照らすと、A子はB原(B川)が捜すころには既に眠っていたと考えるのが合理的である。ただ、ずっと眠っていたのではなく、その後の職員らの捜索により目を覚ますなどして職員がXを捜していることを知ったと考えられる。」旨述べている。証拠関係からみて無理のない合理的な推認と解されるが、さらに、原判決も触れているように、このことからすれば、A子が、部屋に帰ってすぐ布団に入り、しかもすぐ寝付いたため、B川がXを捜しているころにも目を覚まさず眠っていたと推認するのが最も合理的であるといってよいように思われる。検察官は、A子は目をつぶって布団の中で横になっていたというが、B川の証言によれば、A子をゆすっても起きなかったというのであるから、既に眠り込んでいたとみる方が合理的である。そうだとすれば、A子は、Cや被告人がXを呼びに来たこと、被告人がXを連れて行ったことなど眠っていて目撃できるはずのないことになり、目撃供述の信用性は否定される反面、たとえB川らがXを捜していることを知ったとしても何の反応も示さないA子の態度も納得できることになる。

(イ) 内容の具体性・合理性

内容の具体性をみると、被告人によるX連れ出しの部分は、目をつぶった状態での認識という点でやむを得ないことではあるが、供述に変遷のない部分では特に具体性があるとはいえず、信用性を高める旨の評価はできない。

内容の合理性を考えると、原判決が第七の三4(二)(2)ア(594頁)で説示するようにA子が目をつぶったままの状態で被告人によるX連れ出しを認識して記憶したと考えるのは不自然であることが指摘できる。この点、検察官は、A子は眠ろうとしていたのであるから目を開けないことも不自然でないと主張する。しかし、顔の向きを変えるまでもなく、目を開けさえすれば被告人やXの状態が見えるのであるから、宿直ではない被告人が来室したならば人間の心理として一度は目を開ける方が普通であって、これもしなかったというのであれば、よほど眠ろうと集中していたか、眠さで周囲への関心が薄れていたと考えるのが相当であろう。そのA子が、被告人の歩いてきた方向を足音で認識して記憶し、被告人らが出て行くなりわざわざ布団から出て起きあがり戸を閉めたということは不自然といわざるを得ないと考える。検察官の主張は、足音の方向も意識して記憶にとどめ、被告人とXが出た後は「部屋が自分とG子だけになってXが戸を閉めなかったので起きあがって閉めに行かなければと考えた。」という清明ともいうべき意識状態にありながら、目の前での被告人とXの行動は自分に関係ないから音がするにもかかわらず目を開けないという状態であって、あり得ないことではないとしても、それが自然であるとは到底いえないことである。

(三) A子の供述能力・特性について

検察官は、Bの場合と同様に、A子についてもその供述能力・特性について特別の考慮が必要である旨主張しているので、ここで付言しておく。

(1) 基本的な知能

まず、A子に関する赤羽目・萩原鑑定によれば、同人が軽度の精神遅滞の状態にあり、事件当時の生活年齢が一一歳一一か月、精神年齢が七歳から七歳半であって、基本的な供述能力があると認められることは、原判決が第七の一3(二)(438頁)に記載するとおりである。

(2) 検察官の主張する特性

さらに、検察官は、A子の供述能力ないし特性につき、赤羽目・萩原鑑定書の記載を引用しながら、「A子は、直接知覚し得るものを越えて連想を広げる能力が乏しく、また、目前に存在しない事物を素材として、これを形容詞で修飾したり、副詞で結ぶなどの加工をほどこして新しい出来事を述べる能力は極めて乏しい。何らかの動機をもってでたらめな供述を行う意図がある場合でも、架空のことを合理的に構成する能力は極めて乏しい。しかし、現実に体験したことについては相当細かいことまで記憶していて間違いなく述べる力を持っている。」などと主張する。しかし、A子が、このような、「見たことはほぼ正確に述べるが、体験していないことは何も述べることができない。」といった特異性を有しているものとは到底認めることができない。そもそも、A子の精神遅滞の程度が軽度あって、A山学園での生活においては高い評価を得ていたことからすれば、その知的能力が健常児に比べて多少劣っているとしても、供述能力において健常児の年齢差から見られる違いを越えた特殊な性質を有することなどあるはずのないことは常識的に判断できることと考えられるのであるが、この点に関しては赤羽目・萩原鑑定が存在し、検察官もこれをよりどころとして右主張をしているので、再度説明を加える。

(3) 赤羽目・萩原鑑定の根本的問題

まず、検察官が証拠として提出し、右主張の根拠としている赤羽目・萩原鑑定自体に大きな問題がある。すなわち、この鑑定に携わったのは神戸少年鑑別所に勤務する精神神経科医師赤羽目と同鑑別所法務技官矯正専門職の萩原であり、赤羽目が医学的生物学的な側面を、萩原が心理学的な側面を担当し、本件で問題となっている判断は主として萩原によってなされているものであるが、そもそも同人にA子の供述能力に関する鑑定が可能であるか否かの点について、多大の疑問が存在するのである。すなわち、審理不尽の項及び園児供述総論の項で述べたところからもわかるように、本件鑑定で求められるのは「精神遅滞児であるA子における供述の特殊性は何か。」という判断である。ところが、萩原は、大学の文学部哲学科で心理学を専攻後、本件鑑定までの約一五年間、少年鑑別所を中心に勤務したが、その間、供述の信用性について特に研究したことはなく、ただ、仕事上、少年の供述の信用性を判断することは必要であるから考慮していたというだけなのである。このような萩原の経歴を考えると、同人が接するのは主として中学生以上の少年と考えられ、「児童」の点でも、「精神遅滞」の点でも、本件鑑定で期待されるような専門的知識経験を有していたのか疑問である上、供述の信用性に関しても、その経験とは、信用性判断自体が究極の目的ではなく、性格判定等の鑑別の前提としての信用性判断であるから、同人の学識経験が、本件鑑定における判断をするに適当なものとは考え難い。供述の信用性判断について学識を有するといえないことは、萩原自身が、証言について、「鑑定を実施するに当たり供述の信用性に関しての文献を読んでやり方を考えた。」「記憶に関する検査方法についても、日本においては供述の信用性に関する鑑定の報告がほとんどなく、ドイツの方でいろいろなされた結果もあったが、説もいろいろあって、確実な統一された仮説はなかった。」「記憶の構造等についての文献は普通の心理学程度の文献しか読んでおらず、特に本件鑑定に当たり研究もしていない。」旨述べていることにも現れている。そうすると、萩原が鑑定においてなした検査及びその解釈は、科学的合理性をもった鑑定とはいい難く、単に各種心理テストの結果を自己の実務経験に基づき解釈してみた意見としか評価できないものである。

なお、「供述の信用性の鑑定」という点では、B供述を鑑定した一谷鑑定及び吉田・武貞鑑定においても同様の問題が存在するが、右両鑑定は、精神遅滞児の心理あるいは児童心理についての研究者によって理論的な面からの検討もなされ、他の精神遅滞児と接した経験も踏まえて示された判断であって、少なくとも「精神遅滞児たるBの特性」の点では参考にすべきものと考えられ、赤羽目・萩原鑑定をこれと同様に考えることはできない。

このような問題点はあるものの、以下では、その判断について一応検討することとする。

(4) 赤羽目・萩原鑑定の判断について

検察官の主張は、具体的には「記憶能力」「空想癖、虚言癖及び想像力」「被暗示性」についての赤羽目・萩原鑑定の記載及び萩原証言を中心に構成されているので、これらについての判断が問題とされる部分である。しかしながら、赤羽目・萩原鑑定の記載等を検討すると、右各判断は採用し難いものといわざるを得ない。

その理由の一つは、健常児との比較がなされていない点である。先にも述べたとおり、ここで問題とすべきは、健常児との比較であるところ、右各点についての判断を鑑定書に記載した萩原は、健常児との比較についてほとんど説明をしていない。同人の判断は、理論的な面からというより、各種検査結果の解釈から導かれているものであるにもかかわらず、A子と同じ精神年齢の児童であればどのような検査結果となるのかを示さずに、単にA子の検査結果だけを独自の解釈で説明している。他の児童の検査結果は当然の前提として考慮しているのかもしれないが、その経歴からすると、当時のA子の精神年齢、すなわち八歳程度の児童の検査経験が多いとも思われないし、それを示さない説明に比較としての客観性は認め難い。

もう一つの理由は、解釈自体が容易に納得できない点である。萩原は検査結果を自己の経験に基づき解釈しているのであるが、その検査は先に述べたとおり、確立された方法論による検査ではなく、場合によれば本来の目的とは異なった使い方をもしているのであるから、その解釈が万人を納得せしめるものでなければならない。ところが、萩原の解釈をみると、原判決が第七の一3(三)(3)(448頁)ないし(5)(459頁)で指摘するように、当該検査結果は別の見方もできるのではないかとの疑問を生じさせたり、わずかな検査の結果から極端な結論を導いたとの飛躍を感じさせたりするものであって、到底納得し難い。ちなみに、「記憶能力」については、そもそも体験したことと体験しえいないことを截然と区別できると考えること自体が相当でなく、萩原が行った検査によってそのような記憶能力、特に問題となる長期記憶能力が検査できるのかという根本的疑問が存在し、「空想癖、虚言癖及び想像力」については、A子が次々に発想を拡げて喋るような性格でないことは窺えるが、これが「架空の出来事を合理的に構成する能力が極めて乏しい。」などと表現することは極端な飛躍といわざるを得ず、「被暗示性」については、「被暗示性が強いとはいえない。」という文言自体を誤りとはいえないものの、体験した事実についてA子に対し暗示・誘導を行うことは困難である旨の、あたかも同人に行った実験で他の児童の多くは暗示・誘導にかかるが、A子に対してはこれが不可能であったかのような評価は、根拠のないものである。

なお、検察官は、原判決の赤羽目・萩原鑑定に対する評価につき、個別の解釈論を指摘して反論するが、これらは、結局のところ、萩原の判断は専門家としての総合的判断による意見であるから信用すべきものであるというに過ぎないのであって、先に述べたように、萩原の専門家という点に多大の疑問があることからすれば、採用できない論法である。

(5) まとめ

以上のとおり、A子の供述能力・特性について検討してみると、同人の供述の信用性を判断するについては、Bの場合と同様、事件当時の知的発達の水準が七歳から七歳半であったということのほか、特殊な経験則による判断は必要ないものというべきであろう。むしろ、Bについては、その性格にある程度の特徴がみられたのに対し、A子の場合は性格的な面でも取り上げるべきものはないというべきである。

(四) 小括

結局、被告人が「さくら」の部屋からXを連れ出した旨のA子供述は、事件後間もないころから被告人によるXの連れ出し事実を述べている点で、他の園児供述よりも一見信用性を高めるべき条件を備えていると考えられるものの、当日の夜宿直の職員らに自己の目撃事実について何の話もしていない点は他の園児同様重大な疑問とされる上、最初に被告人によるX連れ出し事実の記載がある昭和四九年三月二七日付捜査復命書の内容がその後の供述内容と大きく相違し、捜査官による暗示・誘導による影響の可能性を否定できないことからすると、その信用性には到底看過することのできない大きな限界があるものといわなければならない。

6  Cの供述

(一) はじめに

Cの供述は、昭和五五年四月及び一二月に差戻前一審で期日外に行われた証人尋問においてなされたものと、第二次捜査段階の検察官調書(昭和五二年五月一一日付及び同月二一日付)におけるものが検察官請求の罪体に関する証拠であるが、同人も事件直後からかなりの回数の事情聴取を受けていたものであり、右の証拠以外にも多くの供述関係証拠が弁護人の請求により供述過程を立証するものとして取り調べられている。検察官は、C供述がA子供述及びB供述の裏付けとなる旨主張しているところ、原判決は、Cの能力等、次に証言、捜査段階供述と順次検討し、その判断過程について委曲を尽くして説明した上、結局、同人の証言は極めて信用性に乏しく、捜査段階での供述も含めたCの供述は、他の園児や捜査官の影響を受け、具体的な記憶に基づかないでその場で思い浮かぶまま供述していた疑いがあり、信用できない旨結論づけている。当裁判所も、おおむね原判決と同様の判断に至ったが、そのうちの中心となる判断過程を示すこととする。

(二) Cの証言について

そもそも、C証言が、事件当時から約六年を経過した時点でなされたことからすれば、BやA子の場合と同様、その信用性判断のためにより早い時点でなされた捜査段階の供述を検討せざるを得ないと考えられるのであるが、C証言については、そのような信用性判断という以前の問題として、証言内容が不明確であるため何を証言内容としてとらえるべきかに問題がある。すなわち、これは、検察官主張のような、「本件事件当夜、Xを『さくら』の部屋に迎えに行ったが、Xが帰ろうとしなかったので、戻る途中出会ったBにそのことを告げた。」旨の事実の証言をみることが困難であり、むしろ、その証言における応答からは、Cの記憶保持能力が弱く、特定の日の出来事について供述する能力があるのかについて疑問が生じるだけでなく、被暗示性、被誘導性の強さも窺われることは、原判決説示のとおりである。これらの点に関しては、原判決が指摘する諸点によってその判断の根拠はおおむね理解できると考えられるので、原判決の判断に対する検察官の反論のうち、主要な点について説明を加える。

まず、検察官は、C証言の趣旨につき、Cが、検察官の主尋問において十分な供述ができず、弁護人の反対尋問では「わかりません。」と答えたり、場面を取り違えて答えたりしている状況が見受けられるが、これらは検察官の尋問に対する弁護人の異議や反対尋問における弁護人の質問が不適切であったからであって、基本的には検察官主張の事実を証言した旨主張している。しかしながら、当裁判所がCの証言を検討しても、主尋問においては、弁護人の異議等により検察官の質問が幾度となく中断していることはあるものの、Cは、その異議によって混乱したとは考えられない場面においても、検察官主張の事実と矛盾する答えをしており、反対尋問においては、特に理解が困難とは思われない弁護人の質問に対し、しばしば「わかりません。」と答え、あるいはちょっとしたヒントを与えると、それに引きずられて事実と明らかに異なる答えをしたりしているとしか理解できないものであり、結局検察官主張事実を証言しているとみることは困難である。確かに、主尋問においては、弁護人の異議のため、Cにおいて何を証言しているのかについて確認ができなかった場面はあり(ただし、Cの供述態度にかんがみれば、多くの弁護人の異議は検察官の質問方法に照らしやむを得ないものであったというべきである。)、反対尋問においては、弁護人がそのような誤った答えが簡単に引き出せることを明らかにするためにわざと矛盾した答えが出たのを放置したという場面があるが、現実に、複数の、それも事実に明らかに反する答えも存在する以上、証言だけからは、何が真の証言内容であるのか判断することができない。検察官の主張は、Cが検察官主張のとおりの事実を経験しており記憶もあるということを前提として、それに沿う証言部分のみが証言内容であるとする一方的な解釈といわざるを得ない。

また、検察官は、原判決の「Cが特定の日を記憶していてその日の出来事として供述しているのか疑問を抱かせる。」旨の判断に対し、「CにとってのXがいなくなった日の記憶とは、Xが行方不明になったことに関連して自己の体験した出来事があった日の記憶という以外にはなく、その日の出来事として、『自己がXを呼びに『さくら』の部屋に赴き、一人で戻ってきて寝たが、その後B野がXのことを聞きにきた』事実を述べているのであるから、問題の本質は、Cにおいて、自己の体験事実を離れてXがいなくなった日を記憶できる能力があるか否か、XやY子がどうなったかを認識する能力があるか否かではなく、Cが証言する出来事が現実にあったとして不自然でないのか否か、その証言する出来事がXの行方不明となった日の出来事として不自然なものでないのか否かであって、この点に問題がなければ、Cは、正にXがいなくなった日のことについて証言したものと認定して何ら差し支えない。」旨主張する。しかしながら、原判決は、Cの証言から窺われる記憶保持能力の弱さ及び時間感覚の薄さ並びに質問の趣旨を十分理解しないまま言葉に反応して答えてしまう傾向等から右疑問を抱くに至っているのであって、CがXを呼びに「さくら」に行ったこととB野がXを捜しに来たことを同じ日の出来事として証言しているとみること自体にも疑問を抱いているのである。すなわち、Cは、「さくら」に行ったことやBに会ったことを聞かれた後に、B野が来たことを述べているのであるが、B野にXのことを尋ねられて答えなかった理由を全く述べていないなど、それ以前のCの行動と結び付くような証言はなく、反対尋問の際は、B野が「X君おりません。」と言った際に自分が何か言ったか言わなかったか、Xがどこにいるか知らなかったのかという各質問に際して「わからない。」旨証言するなど、結局、「Cが布団に入ってからB野が来て『Xおりません』と言った。」という場面ないし事項しか述べておらず、これらの場面がそれ以前のBと会ったり「さくら」に迎えに行ったりした場面等と関連していることを証言自体から推測することはできない。そうすると、原判決の指摘するBとの出会い場面の証言の出方等とも対比すると、Cは、B野がXを捜しに来たという出来事を、Xがいなくなった日の出来事として特定できていないのはもちろん、「さくら」に行ったりBに会ったりした日としての限定も意識せずに、「布団に入った後に誰か来たか。」と問われたから捜査段階から繰り返しているB野と答えただけではないかとの疑念が生じるのである。これらが同じ日であることを前提とする検察官の立論は、原判決の提起する疑問に対する反論たり得ない。

その他にも検察官は原判決に対し反論しているが、これらは、何度も繰り返すように、検察官主張の事実が真実であるとすればCの証言をそのように解釈することも不可能ではないということを述べているに過ぎないものであって、取り上げるまでもない。いずれにしろ、証言自体の証拠価値は低く、捜査段階供述の信用性を判断せざるを得ないというべきである。

(三) 捜査段階供述について

原判決は、Cの捜査段階供述について、その内容面では、CがXを捜しに来た職員にXのことを何も話さなかったことが、供述経過の面では、事件から三年以上経過してそれまで供述していなかった事実を供述し始めたことが、それぞれ根本的な疑問であるとし、さらに、第一次捜査段階及び第二次捜査段階での供述経過を検討し、結論として、Cの捜査段階供述(検察官調書二通)の信用性は低く、これらの供述がA子供述やB供述の裏付けとはなり得ない旨判断しているが、右判断は、その検討経過も含めて相当であって、検察官主張のような判断の誤りは認められない。すなわち、その骨子を繰り返せば、C供述は、事件当日の午後八時ころXを迎えに「さくら」に行ったがXは帰らなかったという点において主としてA子供述の、それ以前にXを「さくら」に連れて行った点及び「さくら」に迎えに行った帰りにBに会った点において主としてB供述の裏付けになり得るのであるが、後者のB供述の裏付け部分については、事件から三年以上経過してBの新供述がなされたのに対応したかのようにして初めて現れ、しかも第一次捜査段階にはこれと矛盾しているような内容の供述もあることからするとその信用性は著しく低いものである。そして、A子供述の裏付け部分については、事件から間もないころから供述していた点で、一般的には信用性を高めるような事情があるといい得るものの、その供述事項のうちXらが何をしていたのかなどの枝葉末節とはいい難い点について、昭和四九年三月から同年六月の間においてさえ大きな変遷があることからすると、それ自体でCに事件の夜という特定の日の場面として記憶が残っていたのかどうかについて疑問が生じる。そして、Cの最初の供述が記載された昭和四九年三月二九日付捜査復命書が作成された時点では、警察官において既にBの同月二六日付捜査復命書等によりXが「さくら」にいた旨の情報を得ていたと認められること及びその後のC供述におけるXの様子に関する変遷がBやA子の供述に現れた内容の中で変化していることといった供述の変遷の背後に窺われる事情と、Cの証言の項で述べた同人の被暗示性、被誘導性の強さとを併せ考慮すると、Cの記憶することとして供述調書に記載されているものは、結局捜査官による暗示・誘導により作出された可能性があるのではないかとの疑問がある。このことに、ほかならぬCが「さくら」にXを迎えに行ったという供述内容が、その「さくら」への迎えから帰ってきた直後といってもよい時刻にB野及びB川からXの所在を尋ねられて知らないと答えた事実とどう考えても整合しないという内容上の問題があることとをも併せ考慮すると、全体としてその信用性にかなりの疑問が生じるのである。ここでも、検察官の反論のうち、必要な部分について説明を加える。

まず、検察官は、原判決が第八の四2(二)(687頁)で説明する「事件から三年以上経過して新供述を始めたことが疑問である。」とする根拠の「日常的なひとこま」という部分に対し、「新供述の内容自体は特異なものではないが、Cは、事件当夜に職員がXを捜していることを知り、その後Xが死亡したことを知ったものと思われ、少なくともXの行方不明の件で学園内がふだんと違った異常な状態になったことは感じていて、その意味で記憶に残っても不自然ではなく、その後捜査官から繰り返し事件当夜のことについて尋ねられたため、一連の自己の行動として記憶に残ったとしても不自然ではなく、ただ、第一次捜査段階では、Cの性格やそのときの精神状態、さらには表現能力の問題と、捜査官が焦点を合わせた質問をしなかったことにより供述が現れず、第二次捜査段階では、捜査官が焦点を合わせて質問したために新供述が出たと考えて不自然ではない。」旨主張する。しかし、これは余りにも検察官の都合のよい解釈といわざるを得ない。Cが、事件の日を異常な日と感じていたか否かの点でも疑問があるが、仮にそのような意味で記憶が残っていたとするならば、検察官の主張するCの能力を考慮しても、第一次捜査段階でこれらの新供述の内容事実が現れないはずのないことは原判決が説示するとおりである。検察官は、さらに、原判決が「捜査官は種々の角度から種々の形で質問をして事情聴取を行うのが通常。」とする点に対し、「B供述が出る以前にはCが『さくら』から戻る途中にBと会ったことは捜査官において知るべくもなかったから、捜査官が『さくら』の部屋から『まつ』の部屋に戻る際に誰かと出会ったかなどという質問はしていないとみるのがむしろ当然である。」旨いうが、第一次捜査段階において、CがBと出会ったことを前提とする質問ができないことは当然であるとしても、捜査官は、Cの記憶にあること、特にXに関係する何かがあればこれを聞き出そうとして質問をしているはずである。検察官の主張は、そのような常識的な前提をことさら否定し、第一次捜査段階においてCに対する事情聴取が何回もなされているにもかかわらず、その事情聴取においては、捜査官が把握している事実しか聞き出すことができないような質問しかしなかったということになりかねないものであって、到底採用できない。

どのように検察官が反論を試みても、結局、Cが「まつ」の部屋に戻る途中にBに会ってXが部屋に戻らないことを伝えたことが実際に経験したこととしてCの記憶に残っていることと、この点に関する供述がその経験事実と近接した第一次捜査段階の供述に現れず三年以上経過した第二次捜査段階において現れることとの整合性を欠いた不自然さは解消されるものではない。

次に、検察官は、Cが「さくら」へXを迎えに行った点については捜査官の暗示・誘導の可能性があるとする点に対する反論として、①この供述が最初に現れる昭和四九年三月二九日の段階で警察官はCを誘導するような予備知識は持っていなかった、②仮に誘導したのであれば部屋にいた園児もB及びA子供述と一致すべきである旨の主張をしているが、原判決も説明しているように、Bの同月二六日付捜査復命書及びA子の同月二七日付捜査復命書によれば、「Xが事件当夜の行方不明になる直前に『さくら』の部屋におり、これを被告人が連れ出したのではないか。」という推測が働くのであって、Cに対する事情聴取は、これの裏付けになる供述を求めてなされたとみるのが自然であるし、また、ここで問題にしているのは、意図的で強引な誘導だけではなく、無意識的暗示・誘導の可能性も含むのであるから、内容の一部に他の園児供述との不一致の点があるからといってその可能性を排除することはできない。

検察官は、その他原判決の個別の判断事項に対してことごとく反論するが、そのほとんどは原判決が推論の過程で用いた経験則を、検察官の立場を前提として非難するものに過ぎず、特に取り上げるべきほどのものはない。原判決の示す推測の可能性に若干の幅はあり得るとしても、基本的には原判決の推論に飛躍はなく、検察官の所論は採用できない。

(四) まとめ

結局、B供述やA子供述の裏付けとなるべきC供述は、その中心部分が事件から三年後に新たに供述されている点でその信用性に疑問が生じ、Cの証言等から窺われる能力的な問題と供述調書の作成経過をも考慮すれば、取調官による暗示・誘導の可能性が窺われ、その信用性は低いものといわざるを得ない。

7  Dの供述

(一) はじめに

Dの供述は、昭和五五年三月及び翌五六年一月に差戻前一審で期日外の証人尋問においてなされたものと、第二次捜査段階の検察官調書(昭和五三年四月七日付及び同月一七日付)におけるものが検察官請求の罪体に関する証拠であるが、同人も事件直後からかなりの回数の事情聴取を受けていたものであり、右の証拠以外にも多くの供述関係証拠が弁護人の請求により供述過程を立証するものとして取り調べられている。それらの供述内容の概要は、証言におけるものについては原判決第九の三2(一)(764頁)及び同(二)(1)(766頁)に、第一次捜査段階におけるものについては原判決第九の四2(一)(781頁)に、第二次捜査段階におけるものについては原判決第九の四2(二)(784頁)にそれぞれ記載されたとおりであり、概括的にいえば、事件直後には事件に直接関連するような供述を何らしていなかったのに対し、昭和五三年三月七日以来、午後八時ころにXないし被告人を女子棟廊下で目撃したことや、そのころBをデイルームで目撃したことなどの事実を供述し始め、証言の主尋問でも同様の事実を供述したが、反対尋問ではこれがあいまいになっているということができる。

検察官は、右のように変更されたDの供述のうち、①被告人とXが廊下を非常口の方に歩いて行ったこと、②Bをデイルームで目撃したことは信用でき、①は被告人によるX連れ出しという間接事実についての直接証拠の一つとなり、②はBの目撃供述の裏付けとなる旨主張するのであるが、原判決は、Dの能力等、次いて証言、捜査段階供述と順次検討し、その証言はDが真実証言時の記憶に従って供述しているのか疑問を抱かせるものであり、また、第二次捜査段階での新たな供述も不自然な変遷がある上、新たな供述をするに至ったことにつき合理的な説明ができていないなどの問題点があることに照らすと、いずれも信用できない旨の結論に至っている。このD供述に関しても、当裁判所は、おおむね原判決と同様の判断に至ったものであるが、そのうち中心となる事項の判断過程を示すこととする。

(二) Dの証言について

D証言は、事件当時から約六年を経過した時点でなされたものであることから、その信用性判断のために捜査段階の供述を検討せざるを得ないと考えられるのであるが、とりあえず証言自体において問題とすべき点を検討する。

原判決が第九の三2(764頁)において指摘するとおり、Dの証言は、検察官の主尋問においては、おおむね検察官主張の事実に沿う証言をしていると評価できるものの、反対尋問においてはこれを否定するようなあいまいな証言をしている。一般に、証言の信用性を判断する際、反対尋問においても揺らぐことなく一貫した証言をした場合にはこれを信用性を高める事情として考慮することができるのであるが、本件のように、反対尋問でその証言内容が主尋問と異なった場合にそのような評価ができないことは当然である。これは、仮に反対尋問が不適切であったために主尋問に対する答えと矛盾するような証言になったと認められる場合であっても、主尋問に対する答えの信用性がより積極的に増すことにならないという意味では同じである。むしろ、反対尋問が不適切とはいえず、証人において当然主尋問におけるのと同じ答えをすべき質問に異なった答えをしたり、何らかの答えが期待される質問に答えられなかったりすれば、その事実は証言の信用性を否定する方向に働く判断要因になるべきは当然である。原判決は、その意味で、Dの反対尋問における証言が、不適切な反対尋問によるものとはいい切れないとして、証言内容の信用性に疑問を抱いているのであり、その判断に検察官主張のような誤りがあるものとは考えられない。

これに対し、検察官は、Dの反対尋問における証言は、弁護人が尋問者の意見を押し付けたり、不当な誘導をしたり、あるいは精神遅滞者であるDの思考能力の限界を越えた抽象的、概念的思考や判断を要するような反対尋問をしたため、Dが精神的、心理的に混乱して適切な証言ができなかったことによるものと認められる旨主張する。しかしながら、その主張内容は、原判決が第九の三2(三)(771頁)で排斥した検察官の主張の繰り返しであって、記録を読めば原判決と反対の判断をすべきであるという結論を述べただけの反論に過ぎず、当裁判所が速記録による尋問調書を検討しても、原判決の判断に特に付加すべきものはない。すなわち、反対尋問において弁護人が自己の意見に沿った答えを引き出し易いような誘導的尋問をしている部分が一部あることは否定できないものの(主尋問の答えを弾劾して検証するという反対尋問の役割からはやむを得ないものと考えられる。)、Dは、問いの意味がわからなければ問い返し、記憶の程度も区別して言葉を使い、自分の記憶にないことは「わからない。」「覚えていない。」などと答えるなど、その質問理解能力、応答能力はCとは異なりかなり高いものと認められるのであって、反対尋問に対する答えと、その多くは自らの思考の結果とみることができるのである。結局、Dの証言は、X及び被告人の目撃事実にしても、Bの目撃事実にしても、さらには、捜査段階からの供述経過で問題となる「B谷の口止め」により目撃供述をしなかったことに関しても、証言時においてはその記憶がほとんどないことを認めているものといわざるを得ない。

なお、弁護人との面談の影響に関する検察官の主張は、Dが弁護人の反対尋問にほとんどそのいうがままに答え、主尋問の証言内容を訂正しているということを根拠にしているのであるが、Dの反対尋問の答えは検察官主張のようなものとは到底理解できないのであって、前提を欠くものである。また、検察官は、原判決が「知的能力が低い者については、被暗示性や被誘導性が強く、尋問者の意図とは別にその態度なども供述に影響を与える。」という立場を示していることから、弁護人がDと面談したこと自体でその影響を強く受けた可能性があると考えるべきであると主張するのであるが、Dの精神遅滞は軽度のものである上、証言当時には既に約五年間の会社勤務による社会経験を経ていたこと、尋問において自己の意に沿わない質問に対して答えを拒否するなど自己の意思をある程度主張できていることからすれば、その被暗示性、被誘導性を年少の精神遅滞児と同様に考えるべきではない点で前提を混乱させた議論であるといわざるを得ない。そして、それでも注意すべき暗示・誘導を考えても、弁護人との面談が喫茶店において二回なされたに過ぎないことと、現実の反対尋問における応答態度をみれば、弁護人との面談の影響により真意と異なる答えをした可能性はほとんどないものと認めることができる。この点の主張も採用できない。

D供述については、証言自体既に検察官の主尋問で証言された事実が、弁護人の反対尋問によってことごとく覆されているとみるのが相当であるが、さらに、引き続き捜査段階供述の信用性について検討を加えることとする。

(三) Dの捜査段階供述について

(1) 結論

原判決は、Dの捜査段階供述について、詳細な検討をして、Dの新なに供述は信用できない旨判断している。右判断は、その検討経過も含めておおむね相当であって、検察官主張のような誤りは認められない。すなわち、①検察官が証拠として用いようとする供述は、Dが第一次捜査段階で述べておらず、あるいは明確に否定していた事実について、第二次捜査段階に至って新たになされた極めて不自然なものであるところ、そのように供述が変更された理由として検察官の主張するところは納得できるものではなく、②新たな供述は、それ自体でも不自然に大きく変遷しており、さらに、③そもそも新たな供述の内容は、事件当夜にXと被告人を見たとしながら、Xを捜している職員に対してそのことに関する事実を何も話していないという不自然なものであることからすれば、その信用性はかなり低いものである。ここでも、検察官の反論のうち、主な部分について理由がないことを説明する。

(2) ①の供述変更について

まず、検察官は、①につき、Dが第二次捜査段階になって目撃供述をしたことが不自然でない理由として、平素世話になっている学園職員である被告人に不利なことは言えないという心理的負担を付け加えたほか、これまでの主張とほぼ同様に、B谷から口止めを受けたことによる強い影響下にあったからであるとの理由を主張し、原判決の(ア)「第一次捜査段階での供述内容をみると、口止めされたためある事実を供述しなかったとは到底いえないような内容となっている。」旨の判断に対し、第一次捜査時にDがXや被告人、Bの行動について供述したのは被告人のX連れ出しとは直接関係のないところであるから、そこに矛盾はない、(イ)「口止めがあって特定の事実を約四年間も供述しないでいたとすると、その特定の事実はむしろ記憶に残りやすいものであると考えられるのに、新たな供述が出てからの供述内容をみると、その供述はわずか一か月余りのうちに大きく変遷しているのであり、極めて不自然である。」旨の判断に対し、これは第二次捜査段階においても、Dには事実を供述することに心理的抵抗があり、迷いながら供述したためである、(ウ)原判決の「D自身が長期間供述しなかった理由として一貫として口止めの事実を供述しているのではなく、しかも口止めに関する供述も、その口止めの具体的内容が何もない極めてあいまいなものである。」旨の判断に対し、Dが精神遅滞者であるため、第二次捜査段階に至って目撃供述をするようになった理由というような、いわば自己の心理の内面を内観してこれを的確に表現することがそもそもDには無理といってもよい事柄であり、それでも、なお、Dは「XやY子のことがかわいそうになったから。」とその心情の核心は証言している、などと反論する。

しかしながら、(ア)についてみると、これは、Dが、被告人によるXの連れ出し事実等のみを供述してはならない旨十分自覚し、第一次捜査段階でも供述調書八通、捜査復命書一通の少なくとも九回にわたる事情聴取の際の捜査官の質問に対し、捜査官に気付かれることなく被告人によるX連れ出しの事実等を隠し通したという主張であって、あり得ないこととはいえないまでも、かなり無理な主張である。そもそも、「B谷の口止め」については、園児供述の総論部分でも述べたように、個別的な口止めはなかったと認めざるを得ないのであり、D自身も口止めの具体的内容については何も供述していない。B谷の発言として考慮できるのは、一般的な捜査官への非協力の限度であり、それ自体は、普通に考えれば、園児の立場からすると、「子供が不確実なことを言うと捜査を混乱させるから余計なことは言うな。」と理解するようなもののはずであり、仮に「捜査官はB谷からみて敵であるから協力するな。」というような理解であっても、喋ってはならない対象が事件当日の出来事のうち被告人によるX連れ出し等の場面に限定されるものではない。検察官の意図するような、限定した口止めになるためには、Dにおいて「被告人による連れ出しにかかわる場面の口止めをしている。」という理解をする必要があるのであるが、どのような知識を有しているのかわからない園児に対して、まさに犯人を庇うような口止めをすることは、自らが犯行に関係していることを吐露するようなものであって、容易には考え難いところである。検察官は、一般的なものであるはずの「B谷の口止め」を被告人によるX連れ出しの目撃事実のみを話さないことに結び付けるために、被告人に不利なことは言えないという心理的負担を付け加えているのであるが。Dの目撃とは、被告人とXを廊下で見たというその事実自体は取り立てて問題にされるような場面ではないのであり、Bのデイルームでの行動については事件との関係さえ予想できない場面であるから、捜査状況を把握しているわけでもないDが、他の部分ではB谷の意向にもかかわらず捜査官の質問に記憶をたどって詳細に答えながら、右二つの場面は事件にかかわりがあるだけでなく、これを話せば被告人が不利益になると自ら判断して供述しないという状況を想定するのは困難である。本来青葉寮にいないはずの被告人が青葉寮にいたこと自体が怪しいとの考えは、外部犯行説を否定し、他の職員のアリバイ等も一応調べた捜査官の発想であり、園児にとって、少なくとも被告人逮捕前の時期においては、事件の当日の午後八時ころに被告人が青葉寮でXの側にいたからといって犯人である可能性が高いなどと思うことより、せいぜい被告人ならXについて何か知っているかもしれないと思うことの方がはるかに想定し易い状況といえる。なお、検察官は、Bを目撃した場面については、捜査官の事情聴取において焦点が当てられていなかったために第一次捜査段階ではたまたま欠落したと主張するのかもしれないが、例えばDがマーブルチョコレートを食べたころにこたつの回りにいた園児について、これらの者が事件とどう関係するか明らかでないにもかかわらずその名前が挙げられているように、捜査官は午後八時ころの状況については当然詳しく尋ねていたはずであり、Bの行動についてはB電話の点でも供述しているのであるから、たまたま欠落したとは考え難い。

また、(イ)についてみると、検察官の主張は、このような変遷は、D自身が供述をすることをためらったために生じた変遷であるというのであるが、そうであるならば、その変遷は、基本的には、隠していた事実が一部供述され、またそれを否定するというような変遷になるはずである。ところが、Dの供述の変遷は、原判決が摘示するとおり、当初からの供述とも最終的な供述とも異なる事実が加わったり消えたりしているものであって、供述をためらったという理由によるものとは考えにくい。

さらに、(ウ)についてみると、捜査段階において考えれば、今まで話さなかったことをなぜ今回話したのかという事項は、検察官がいうような難しい問題ではなく、特に、被告人とXの目撃という特定の場面を意識して供述しなかったのであれば、その理由は明確であるはずである。Dの精神遅滞の程度は軽度であり、右理由が供述調書に記載されず、あるいは変遷していることをDの能力のためとして説明することはできない。そもそも、「B谷の口止め」という理由が明確に現れているのは、昭和五三年三月一七日付検察官調書であるが、この調書には、Xと被告人を女子棟廊下で見たという肝心の部分が記載されていないのである。また、証人尋問段階において考えれば、そこで求められている証言は、六年前からの第一次捜査段階において供述しなかったことあるいは約二年前に供述したことの理由であり、その詳細について記憶のないことはやむを得ない面があるものの、Dの証言は、そのように記憶が薄れたというものではなく、前に述べたように「B谷の口止め」により事実を供述しなかったこと自体の記憶がほとんどないことを認めていると解釈すべきものである。真に事件から四年もの間口止めによって事実を隠し、第二次捜査段階に至ってこれを話したのであれば、口止めという事実についての記憶がなくなるとは考えられない。D自身が供述変更理由の説明をなし得ていないことは、検察官の理由付けが事実ではないことを示しているといわざるを得ない。なお、検察官は、Dが第二次捜査段階に至って供述するようになった理由を「子供が可哀想だ。」と証言した点も指摘するが、Dの右証言は、反対尋問の際に意味を尋ねられて、「別に意味はありません。」と答えたほか、その言葉は主尋問前に検察官から聞いた旨述べ、再主尋問時にもう一度その気持ちを聞かれて、「(可哀想という気持ちは)持ってないことはない。」と答えた程度のものであって、まさに供述を変更した理由としと納得できるようなものではない。

(3) ②の供述の変遷について

検察官は、②につき、(ア)このような供述の変遷は、DがB谷から口止めをされて、心の葛藤の中で言おうか言うまいかと揺れ動きながら徐々に供述を行っていったためであり、(イ)むしろ、供述が変遷して当時出ていたB新供述に一致していないことは、捜査官の誘導がなく、Dが自発的に供述したものであることを示している旨主張する。

しかし、(ア)については、Dの供述の具体的な変遷内容が検察官主張のような理由による変遷と理解できないことは前記のとおりである。また、(イ)については、その主張自体が、Dの新供述の変遷が検察官の意図的な誘導の結果ではないといっているに過ぎず、変遷の不自然さからもたらされる信用性の低下に対する反論になっていない。しかも、誘導の有無に関しても、検察官の立論は、「事情聴取において誘導する場合には、捜査官において事実関係を細部まで確定した上でこれに合わせるようにすべてを誘導する。」という前提に立って初めていえることであって、説得力はない。すなわち、事情聴取において他の供述の裏付けを期待する場合、その事項に関する供述を得ることを第一の目的として、その詳細については必ずしも詰めずに調書が作成され、その後内容を突き合わせて検討する中で矛盾のない事実関係を想定してゆくことは十分考えられることであるし、また、Dの精神遅滞の程度、社会経験からすれば、暗示・誘導が可能であるとしてもすべてが簡単にできるはずもなく、捜査官の想定と異なった供述のままでも一部期待した事項の供述が得られればこれを調書化することもこれまた十分あり得ることである。本件がそのようなものであると推認できる徴憑があるとまでいえるか否かはともかく、供述が変遷しているから暗示・誘導がなかったなどということはできない。

(4) ③の職員に話さなかったことについて

検察官の③についての主張は、「B野はデイルームを通った際にその場にいた園児に問いかけたもので、特にDに対してなされたものではなく、それは単にXの所在を尋ねたというものであったことを考えると、Dが目撃した内容そのものは格別異常で即座に告げるほどのものではなかったと考えられるから、D自身がその場で直接その内容をB野に告げなかったとしてもあながち不自然とはいえない。」というものであって、原判決が正当に排斥した主張の繰り返しに過ぎない。検察官の主張によれば、Dは、ほんの数分前にXと被告人を女子棟廊下で非常口の方に歩いているのを目撃しながら、(ア)B川がデイルームで園児らに対しXを知らないかと尋ね、E子が午後七時半までいたと返事をした際には目撃事実を知らせず(これについては、Dがテレビに気をとられるなどしており、B川の質問に気が付かなかった可能性がないとはいえないであろうが。)、(イ)B野から尋ねられた際には自らXが午後七時半までデイルームにいた旨の答えをし、(ウ)自分もXを捜し出したときには、Xや被告人が歩いていたのと反対方向にある男子棟のみを捜し、(エ)その後、玄関付近で被告人を見かけた際に被告人にXの所在を尋ねることもせず、(オ)園内で多くの職員がXを捜索している際にも誰にも目撃事実のことを伝えなかった、というのである。これらの問題点につき個別にいろいろ反論を試みても、この事実の経過からDの目撃供述が真実であると考えることには重大な疑問が生ずるといわざるを得ない。

(四) まとめ

結局、事件当時に被告人とXを女子棟廊下で目撃したなどのD供述については、事件から約四年後の第二次捜査段階で初めて現れ、その内容的にも大きく変遷した上での供述である点で信用性に疑問が生じ、その内容自体が、D自身の供述及び他の証拠から認められる事件当日のDの行動と矛盾するものであることも考慮すれば、ほとんど信用できない(事実に反する可能性が高い)ものと判断される。

8  E子の供述

(一) はじめに

E子の供述は、昭和五五年五月、一二月及び翌五六年五月に差戻前一審で期日外においてなされた証言と、第二次捜査段階の検察官調書(昭和五二年四月から昭和五三年三月にかけて作成された六通)におけるものが検察官請求の罪体に関する証拠であるが、同人も事件直後から相当の回数にわたり事情聴取を受けており、右の証拠以外にも多くの供述関係証拠が弁護人の請求により供述過程を立証するものとして取り調べられている。それらの供述内容の概要は、証言におけるものについては原判決第十の三2(一)(846頁)に、第一次捜査段階におけるものについては原判決第十の四3(一)(883頁)の中に、第二次捜査段階におけるものについては原判決第十の四3(二)(915頁)の中にそれぞれ記載されたとおりであり、主として問題となるのは、①Xの行方不明が知らされる前のデイルームでテレビを見ていた際に女子棟廊下の保母室付近に立っている被告人を見たこと及び②その後E子が女子便所に行く途中で女子棟廊下の「ぼたん」の部屋付近にいる被告人とXを見たことという被告人によるXの連れ出し事実を直接立証する供述と、③他の園児の就寝介助をした時にXが「さくら」の部屋にいたのを見たこと及び④被告人によるX連れ出しを見た直後に女子棟便所でBと会ったことというB供述やA子供述の裏付けとなる供述であるが、これらは、証言においてはその内容が現れず、捜査段階においてなされた右供述もかなり変遷があるものである。検察官は、右①から④の内容の供述が信用できると主張するところ、原判決は、E子証言では検察官の主張を根拠付ける証言は出ず、E子の捜査段階の供述では、全体としてE子が真に記憶を喚起して供述しているのか疑問であるとし、結局、検察官が主張するE子の供述内容は信用できない旨判断している。

当裁判所は、E子供述に関しても、原判決の判断はおおむね相当であって、検察官主張のような誤りは認められないものと判断する。すなわち、被告人によるXの連れ出しに直接かかわる目撃供述である前記②の女子便所に行く途中に被告人とXを見たこと及び④の女子便所でBを見かけたことに関しては、いずれも第二次捜査段階に至って初めて現れたその出方が極めて不自然な供述であって、そのように供述が変更された理由として検察官の主張するところは納得できるものではなく、特に、Xを見たという点は、自らもXの靴の確認をするなど捜索に加わりながら、事件当夜Xを捜している職員に対してその目撃状況あるいはXに関する事実を何も話していないという事実との関係で内容的に大きな疑問があり、信用性は極めて低い。また、前記①のデイルームから被告人を見たという部分については、第一次捜査段階から述べてはいるものの、時間的な問題を中心にあいまいなものが明確になっていく過程に不自然なものがあって、Xの行方不明が判明した後に捜索に来た被告人を見た場面と混乱している疑いがあり、③のXが「さくら」にいた旨の供述についても、おおむね一貫した供述ではあるものの、これはE子自身がJ1子の就寝介助をした状況と一体をなしているところ、右の就寝介助の状況に関する内容は、信用性が高いと考えられるB川供述と矛盾するものであって、①ないし④のいずれもその信用性は低いと考える。

右の結論に至った理由は、それぞれの事項に関して原判決が説示するところに尽きるのであるが、検察官の所論につき、若干補足して説明する。もっとも、E子供述に関しては、E子証言において検察官主張の事実は証言内容としてほとんど現れておらず(むしろ否定されている)、検察官が立証しようとする事実についての証拠は捜査段階供述であって、証言は、その捜査段階供述の信用性判断の資料という面が大きいので、捜査段階供述についての判断に対する主張を中心に取り上げることとする。

(二) 主要な供述が第二次捜査段階で現れたことについて

(1) 結論

検察官は、E子供述のうちでも特に重要な前記②と④の供述が第二次捜査段階に至って現れた理由として、他の園児においても主張する「(B谷の)口止め」と学園職員に不利なことは言えないとの収容園児特有の心理的負担を述べ、さらに、職員への心理的負担を具体化した「被告人へのはばかり」はE子の証言態度により明らかである旨主張しているが、この主張に関しては、原判決が基本的な考え方については第十の四2(二)(869頁)において、証言の解釈については第十の三(845頁)において判断しているところがおおむね相当と認められる。すなわち、「(B谷の)口止め」の時期、場所、内容に関する具体的な証拠が存在せず、検察官がいかなる内容の口止めの主張をしているのかが明らかでないという問題が存在し、現れている証拠からは、具体的な「(B谷の)口止め」について、B谷その他口止めをした者が園児らが認識したと考えられることについてどの程度の知識を前提に、どのような意図で「口止め」を行い、その際にどのような文言を用い、これをE子がどのように理解して問題となっている目撃供述のみをしなかったのかという過程の想定が困難であるほか(D供述に関する7(三)(2)における説明参照)、仮に「(B谷の)の口止め」「心理的負担」によってE子が被告人とXがいた場面を述べなかったとすれば、デイルームから被告人を見たことについてはこれを述べていることと矛盾するという重大な疑問が生じるといわなければならない。

(2) 検察官の反論

これに対する検察官の反論は、基本的には、「事情聴取時の状況や証言時の状況に照らし、さらには、E子の昭和五二年四月二三日付検察官調書における『Xがいなくなった日の夜、青葉寮で澤崎先生を二回見た。一回目はマーブルチョコを食べている時に女の子の部屋の廊下にいた。女の保母室の戸の前辺りにいるように見えた。その廊下をデイルームと反対の方に歩いて行った。もう一回は覚えているけど言えない。言ったら私が困る。』と供述していることからも、E子がその体験事実の中でも、自己の判断で供述したくないことは供述しないという意思表示をはっきりしていることが窺えるから、E子が第二次捜査段階まで重要な事実を供述しなかったのは『口止め』や『被告人へのはばかり』の影響によるものであることは明らかである。」旨の、原判決の証拠評価に対する非難の繰り返しである。

(3) 「口止め」について

しかしながら、右のうちの「口止め」については、原判決が説示し、当裁判所も何度も触れたように、検察官が指摘するE子の供述をみても、「口止め」の具体的内容は全く明らかになっておらず、第一次捜査段階にまさにその「口止め」によって問題となる部分を供述しなかった心理過程の説明がE子自身によってなされていない。いつごろ言われたのか明確ではない「言ったらあかん。」という言葉だけが繰り返され、E子においてそれがどのような意味を持つものと理解され、その結果E子自身がどのように供述をし、あるいはしなかったのかが具体的には何も述べられていないのである。

右のような抽象的な「口止め」に関する記載部分からでは、変更後の供述が真実であるか否かがまさに問題となり、そのために供述変更の合理性を判断しようとしている場面において、E子が「口止め」によって真実を供述しなかったという心証を持つことができない。そして、その記載部分のあいまいさは、むしろ、「口止め」により供述しなかったという事実が現実には存在せず、捜査官から示唆された言葉を何となく述べていることをも感じさせるものといわなければならない。

なお、E子供述のあいまいさについて、検察官は、この「口止め」に関する供述があいまいなことも「口止め」の影響であると主張するのかもしれない(原判決が、第二次捜査段階において現れた新供述の信用性が低いと考えられる根拠の一つとしてその供述内容が具体性、迫真性を欠くと指摘する点に対し、検察官は、E子が「(B谷の)の口止め」「心理的負担」により供述を躊躇して事実をすべて述べなかったからである旨主張している。)。しかし、そのような主張は、存在するか否かがまさに問題となっている「(B谷の)口止め」「心理的負担」が存在することを前提にして、これらによってE子供述のあいまいなわけを説明しようとする主張である点でそもそも根拠と説得力に問題があるほか、検察官が主張するような場合のあいまいさは、「口止め」に関する一定の事実が見え隠れするようなあいまいさであるべきであるのに対し、E子の供述におけるあいまいさは、「口止め」の対象が変化したり、時期が変化したりするようなあいまいさであって、検察官のような解釈は困難である。

(4) 「被告人へのはばかり」について

次に、「被告人へのはばかり」についてみると、これは供述調書には何ら記載されていないものであって、検察官によるE子の証言態度からの推測に過ぎないものである。そして、E子の証言を検討すると、原判決も説示するように、証言時におけるE子に「被告人へのはばかり」が存在したと認められることはそのとおりであるが、E子の沈黙等の理由がそれだけであるのか否か、その他の理由があるとして「被告人へのはばかり」とどのような関係があり、それぞれどの程度影響しているのかは不明であるといわざるを得ない。本人が沈黙等の理由を供述していない以上、その沈黙等の理由は推測によるしかないのであり、「被告人へのはばかり」が存在すること自体は認められるとしても、検察官が主張するように「現に被告人の在廷する場ではどうしても証言したくないとの気持ちの表れによるものであることは余りにも明白である。」などとは到底いえるものではない。その上、「被告人へのはばかり」が存在するとしても、これがいかなる理由で「はばかる」ものかも全く明らかではない。確かに、検察官主張のように、E子が検察官主張のような目撃をしたとすれば、これを供述することが被告人が犯人であることを強く示唆してしまうため被告人をはばかって事実を話せないということも一つの想定できる状況であるが、それ以外にも、例えば目撃事実がない、若しくは明確な記憶がなかったにもかかわらず、捜査段階で目撃した旨の供述をして被告人を不利な立場に追い込んでしまったために被告人にはばかったという想定も十分可能である。そうであれば捜査段階の供述は誤りであったとか、記憶が明確でなかった旨証言すれば足りるというのかもしれないが、それは逆に調書作成時の供述を翻す点で調書を作成した捜査官に対する「はばかり」が生じることになるのであり、単純なものではない。したがって、検察官主張の事実を前提にすればE子が「被告人をはばかる」ことは自然であるといえても、「E子が被告人をはばかる」から検察官主張の事実が真実であるという関係には必ずしもならない。言葉を変えれば、E子が「被告人へのはばかり」を示したということからは、検察官想定のような状況も考えられるから、捜査段階の供述を否定したことが直ちに捜査段階の供述の信用性を否定することにはならないという意味は持ち得るものの(供述が一貫しなかったという点で信用性を減殺する事情の一つになることまで否定されるわけではない。)、逆に、捜査段階の供述が信用できると推測せしめる事情とみることはできない。

(5) 第一次捜査段階において被告人を見たことを供述している点の矛盾について

なお、検察官は、「口止め」「被告人へのはばかり」という理由がE子においてデイルームから被告人を見たことを第一次捜査段階から述べていたことと矛盾するという点につき、「E子にとって、被告人が一人でいた場面を述べることの方がXと一緒にいた場面を述べることより心理的負担が軽いことは明らかであるから、前者については比較的早い時期から供述し得ても、後者については当初これを供述し得なかったことについては合理的理由があり自然なことである。」旨の主張を繰り返し、これは被告人が犯人であることを前提にした考え方であるとの原判決の排斥理由に対し、「E子が山田がX殺害の犯人であることを直感的に感じていた。」と説明するのであるが、直感的に感じていたという主張自体に根拠がない点をさておき、仮に、E子において、被告人を犯人であると直感的に感じていたとすれば、職員がXの行方不明により騒ぎ出す直前に本来青葉寮にいないはずの被告人がいたという事実を自分が述べれば、これが被告人にとって極めて不利な事情であることは容易にわかることであり、さらに、検察官の主張によれば、E子は被告人がデイルームの様子を窺っている場面とXを連れ出そうとしている場面を数分間のうちに目撃しているのであり、前者の場面を供述することが後者に密接に関連していることは当然理解できているはずであって、「被告人が一人でいた場面を述べること」と「Xと一緒にいた場面を述べること」に検察官がいうほどの差があるとは考え難い。

(三) Xの目撃を職員に話していないことについて

E子が職員に対してその目撃状況等を何も話していないことの不自然性に対する検察官の反論は、B川の質問の際はE子がテレビに夢中になって生返事をした。尋ねられたときには異常な事態との認識がなかった、デイルームにいたかどうかを尋ねられたのでそのことのみ答えた、玄関にXの靴を見に行ったことは廊下での目撃事実と矛盾しない、など原判決により排斥された主張の繰り返しに過ぎないものがほとんどであり、反論とはなり得ない。特に、E子が、B川からXのことを聞かれた際には、テレビを見ていたとしてもB川の質問に答えているのであり(B川、自分が「七時半までいたか。」と尋ねてE子がうなずいた趣旨の証言をするが、仮にそうであってもそれはE子が返事をしてくれたとB川が感じるうなずき方だったはずであるし、そもそも、B川は、捜査段階においてはE子が「七時半までいた。」と答えたと述べ、国賠証言においては「捜査段階の調書でE子が『七時半までいた。』と言ったとなっているのならそうかもしれない。」旨述べており、これらによれば、E子が「七時半までいた。」と答えた可能性も高い。)、「さっき被告人と廊下にいた。」の一言を言わないことは考えられない。E子が目撃事実を特に異常事態と感じていないことは、これを述べない理由にはならない。

(四) デイルームから廊下上の被告人を見たという点について

検察官は、原判決が指摘する供述過程の不自然さに対し、当初記憶喚起がなされなくても、詳しい事情聴取によって記憶を喚起し得ることは不自然ではなく、質問の方法、内容等によって答えが出たり出なかったりすることもあるから、原判決が指摘するような点は不自然な変遷ではないと反論する。しかし、右の各供述が記載されている調書が既に被告人が逮捕された後に作成されたものであることからすれば、捜査官の事情聴取はE子による被告人の目撃事実について当初から詳細になされているはずであり、E子が供述していたにもかかわらず調書作成上大雑把に記載されたとは考え難く、被告人の目撃供述が当初あいまいであることは、記憶自体があいまいであったことを意味すると理解せざるを得ない。したがって、問題となるのは、その後明確になったのが記憶の喚起によるものなのか、暗示・誘導によるものなのかという点である。検察官の主張は、詳しい事情聴取がヒントになって記憶を喚起する可能性があるということであり、そのこと自体は否定すべきことではないが、これは反面、詳しい事情聴取の中で、暗示・誘導に結び付く質問がなされる可能性が高いともいい得るのであり、一般的には時期の早い方が記憶が鮮明であるはずであることからすると、本件のように、明確になっていく事項が多岐にわたる場合、これらすべてが現実の記憶の喚起であるとは考え難いのである。なお、検察官は、原判決の指摘する個別の点について、捜査官の質問方法が不適切であったことに基づくとか、E子の供述に対する原判決の解釈がおかしいなどとして、そもそも変遷とはいえない部分がある旨の主張もするが、証拠を検討してもそのような理解には賛成し難い。

(五) Xが「さくら」の部屋にいた旨の供述について

検察官は、E子の述べる就寝介助の状況がB川の供述と矛盾していることについて、原判決でも引用されている「B川が、J1子を『ばら』の部屋に連れて行き、その後他の園児の就寝介助を行っている間、E子はJ1子に添い寝をしてやっていたと考えられる。」旨の主張をしているが、これは、原判決もいうように確かに「いえなくはない。」という程度のものであり、B川とE子の各供述に相互に相手方が出てこないことのほか、他の園児についてなど当時の状況に関する内容が食い違っていること自体は否定できないのであって、不自然ではないということはできない。また、X目撃の状況については、就寝介助に行く途中で見た極めて短時間のことであるから正確に認識することは困難であり、供述に変遷があったり、一部記憶違いがあっても不思議はないと主張するが、その個々の供述内容に、短時間の目撃であってよく記憶できなかった(見えなかったないし印象に残らなかった)というあいまいさを窺わせるものはないし、そもそも記憶違いを起こすようないい加減な目撃であるとすると、Xがいたことさえ事実であるのかどうか不明である。当初から記憶違いがあったとすれば、最後まで供述中に残った人物のみが真実「さくら」にいた人物であると考えることもできないはずである。

(六) まとめ

結局、事件当時に被告人とXを女子棟廊下で目撃したなどのE子供述については、重要な部分が事件から約三年後の第二次捜査段階で初めて現れた点でその信用性に疑問が生じ、第一次捜査段階から供述している点についても、あいまいであったり、不自然な変遷があったり、事件当日のことと考えるには内容的に問題があったりし、検察官主張のような事実を供述をしているとみるについては、信用性がかなり低いものといわなければならない。

9  園児供述のまとめ

以上のとおり、各園児の供述をみると、多かれ少なかれその信用性に疑いを抱く事情が存在する。そもそも、園児供述から被告人によるX連れ出しが認定できる旨の検察官主張の根本に存在するのは、園児らの供述に多少の変遷やあいまいさがあっても、利害関係のない園児らが、口を揃えて被告人によるX連れ出しに結び付く供述をしている以上、その事実は存在したに違いないという点であると考えられ、これは、感覚的にはわからないではなく、園児供述の信用性は十分検討してしかるべきものである。しかしながら、本件園児供述にあっては、各園児供述において検討したとおり、Xがいなくなった当夜、Xを捜している職員に対して誰一人後に捜査官に供述しているような目撃事実を話している者はなく、また、B野及びB川という宿直員によって裏付けられる供述がない点で、その信用性に根本的な疑問があることは否定できず、さらに、各園児供述が出てくる過程、特に最も重要な供述が出てくる過程において、あらかじめ捜査官においてある程度の情報を得ており、これに基づいて捜査官が暗示・誘導した結果なされた供述である可能性が否定できず、むしろこれが窺われる部分も多々存在するのであって、決して検察官の主張するような「白紙で臨んだ捜査官に対し、園児らがそれぞれ独立して自ら被告人によるX連れ出しに関連する目撃状況を述べた。」というものではない。そもそも、XがA子の部屋である「さくら」で遊んでいたと最初に供述したのは本件証拠上Bである。Bがどのようなきっかけでこの事実を供述するようになったかは重要なところであり、昭和四九年三月二六日付捜査復命書にその経緯が記載されているが、それによると、同日、警察官がB電話の時間帯を確認するためBの自宅である姫路まで赴き、同人の父D原太郎から事情聴取した後Bからも事情聴取したところ、たまたまXがA子の部屋で遊んでいた話が出たというのである。このBの供述内容は、原判決も指摘するとおり、青葉寮での日常生活のひとこまといえるものであり、それが事件当日である一九日の出来事であるかなどその真実性は明らかでない。すなわち、一九日夜にXがA子の部屋で遊んでいたという供述が、前記のような性格のBから、しかも、たまたま姫路の自宅で事情を聴く機会があったために初めて出てきたということ、同月二六日といえば事件当夜から既に約一週間後であり、そのような時点で青葉寮での日常生活のひとこまといえるような状況を果たして一九日の夜の出来事として正確に記憶して述べたのかという疑問が残る。そして、そのようなBの供述が、右捜査復命書作成の翌日のA子に対する事情聴取(同月二七日)のきっかけになったと推認できる。前述のように、Bの右三月二六日付捜査復命書の中で「さくら」にいた園児として記載されていたH子が、真実は「さくら」にいなかったにもかかわらず、そのままA子の三月二七日付捜査復命書においても被告人がXを連れ出したときにいた園児として記載されているように、Bの右捜査復命書の記載がA子の同月二七日の供述に影響していることが窺える。このように、Bの供述が、A子の事情聴取や、さらにその翌日(同月二八日)のCの事情聴取をするきっかけになったとすれば、園児が年少者の精神遅滞児としてもともと暗示・誘導にのり易い傾向を持っていることが否定できないのであるから、A子供述の項で触れたように、当時既に被告人を容疑者ではないかと想定していた捜察官には、園児からの事情聴取に当たり、特に慎重な配慮が要請されたといえよう。

園児供述を総括してみると、本件において、そもそも実質的に「園児らの供述の一致」があるといえるのか疑問とすべき余地が多分にあり、もとより園児供述を過度に重視することは厳に慎まねばならず、各供述の変遷及びそのあいまいさ並びに供述内容の不自然さ、裏付けの不存在等から生じる供述の信用性に対する疑問は、そのまま被告人によるX連れ出し事実の存在に対する疑問とならざるを得ない。

結局、園児供述によっては、被告人によるX連れ出し事実が認定できないのはもちろん、これが存在した可能性が高いとの心証も得ることはできない。

六  被告人の自白について

1  はじめに

これまで述べたとおり、被告人の自白を除いた本件の証拠状況によっては、被告人と本件公訴事実との結び付きを推認することができないだけでなく、結び付く可能性があると考えることすら困難であり、残る証拠は被告人の自白のみとなる。しかしながら、被告人の自白は、もともと捜査段階の供述調書に一時期現れた断片的で不完全なものである上、真実ではないにもかかわらず自白してしまった理由として被告人が述べるところは、決して通り一遍のものではなく、経験した者でなければ供述できないのではと思われるような具体性と迫真性を備えているのであって、しかもその一部は取調官の供述によって裏付けられている上、右被告人の述べるところに反する取調官の供述部分はたやすく措信し難いものがあり、自白の任意性こそ否定されないものの信用性は甚だ乏しいといわざるを得ない。その理由について、原判決が第十一(952頁)において自白の内容、自白するに至った経緯等を克明に検討して説示するところはおおむね相当と認められるのであるが、その重要性にかんがみ当裁判所の判断の過程を再度説明する。

そもそも、自白は、自己の犯罪を認める供述であって、これによって処罰がもたらされるのであるから、身代わり犯などの特殊な事例を除けば、通常の場合において無実の者が任意に虚偽の自白をすることはないであろうという一般的な感覚があることは否定し難いところである。しかしながら、過去少なからぬ事件において虚偽自白が存在したこともまた事実であり、任意性に疑いがない限り自白が信用できるというものではない。自白の信用性判断が最終的には総合判断であるとしても、具体的には、供述の信用性判断の原則どおり、自白の供述内容・経過を順次分析して、信用性を高める事情、低める事情をそれぞれ検討することが必要となる。以下においては、本件における被告人の自白の信用性判断にとって重要であると思われる次の諸点について特に判断を示すこととする。

2  自白における動機供述の問題点について

(一) 原判決は、被告人の自白にかかる動機の内容についても詳細に検討し、判断を示しているが、この点に関して原判決が説示するところは一々もっともであり肯認できる。

さらに、当裁判所は、被告人の自白全体を通して検討した結果、本件における動機の重要性を再認識するとともに、何よりもまず、被告人が供述する動機の内容に重大な疑問点があり、本件においてその供述する動機が成り立たないようなことであれば、もともと断片的・概括的に過ぎない本件自白全体の信用性に根本的な疑念が生ずるとの結論に至ったので、まずこの点についての判断を示す。

(二) 本件における動機の重要性について、原判決は、「本件のような殺人罪の場合、犯行の動機が重要な意味を持っていることは多言を要しないところである。そして、検察官の主張では、本件は、A山学園の保母として園児の介護に当たっていた者が、同園の園児を殺害し、しかも、それ以前に行方不明になっていた園児Y子も同じ浄化槽から発見されたという、極めて特異な事案である。前記のとおり、被告人は、早い時期から精神遅滞児施設で働くことを考え、短期大学卒業後A山学園に勤務し、事件当時で右二年間の勤務を経ていた二二歳の女性であり、園児に対する介護等についてことさら問題があったりした様子もうかがわれないのであって、そのような被告人が、自己の勤務先であるA山学園のしかも被告人が担当していた青葉寮に入所していた園児を殺害するということは、それ相応の動機があってしかるべきであり、それとともに、Xの殺害行為とY子の行方不明についても何らかの関連があると考えるのが自然である。したがって、被告人の自白の信用性を判断するに際しては、その動機及びY子の行方不明との関連について合理的な説明がなされているかどうかが大きな意味を持つといわざるを得ず、ひいては、そのことが犯罪行為の存否の判断にも影響するといわざるを得ない。」と述べるが、当裁判所も同様に考える。

(三) そこで、被告人が自白調書で述べている動機についてみると、本件の犯行動機として検察官の主張するところが、被告人の昭和四九年(以下本項「第二の六」において年を省略した月日は昭和四九年を示す。)四月一九日付及び二〇日付各警察官調書における自白に依拠していること、しかしながら、この動機は、①Y子が浄化槽に転落した際に当直である自己の責任になると考えてつい蓋をしたという点においても、②Y子死亡に関する自己の責任をカモフラージュするためにXを殺害したという点においても容易に納得し難い不自然なものであることは、原判決が第十一の四3(四)(1040頁)において述べるとおりである。特に、②については、弁護人が指摘するように、当時は、Y子の行方不明から二日が経過しており、街中でのビラ配りやラジオ放送での捜査協力依頼など、全体の目がA山学園内部よりも外部に向き始め、Y子の死体が発見され難い情勢になりつつあったといえるのであるから、Xを浄化槽に投げ込んで殺害すれば、Xの行方不明によりわざわざ捜索の目を再び学園内部に向けさせてY子の死体が発見される可能性を増すことになるのであり、Y子死亡の責任から逃れたい、すなわちY子の死亡が発覚しないでほしいと考える犯人の通常の心理とは真っ向から対立するのである。検察官は、(ア)被告人が、いずれY子の死体が発見されることを予測した上、そのときは当直中であった自己にY子殺害の疑いがかかるに違いないと考え、その疑いをそらすために自己が当直でないときに他の園児を殺害しようとした、(イ)仮にY子の死体が発見されない場合にも、Y子行方不明に関する監護責任の追及が弱まる旨主張するが、(ア)については、右に述べたY子の死体が発見される可能性を高めることになる不自然さに対する反論になっていないだけでなく、仮に、Y子の死体が発見されることを予測し、そのときに自己に殺人の疑いがかかると考えていたとすれば、それはある程度冷静な判断ともいえるのであって、そのような判断をしながら、検察官の主張を前提としても既にY子が落ち込んでいた浄化槽の蓋をしたに過ぎない被告人が、もう一人今度は自ら直接園児を浄化槽に投げ込んで殺害することによって自己に対する疑いをそらすことができるというような非常識かつ浅はかな判断をすることの不合理、不自然さはどのような説明を試みようと否定しようがなく、(イ)についても、いまだいかなる程度の監護責任の追及があるかどうかもわからないうちに、それを弱めるために園児を故意に殺害するという余りにも常軌を逸した判断を前提とするものであり、いずれも到底とり得ない議論である。人間は必ずしも合理的な行動をとるものではないから不合理であっても動機になり得ないではない、というのでは説明にならない。

(四) ところで、E子は、本件犯行の動機と密接に関連すると考えられる「Y子の浄化槽転落事実」について、第一次捜査段階では全く供述していなかったにもかかわらず、第二次捜査段階に至って初めて極めて重大な供述をしている。もっとも、本件証拠上、E子がなぜ右のような供述をするようになったのかはE子の供述調書にも記述がないなど明らかではないが、その供述の順序及び内容は、原判決が第十一の四5(三)(1)(1070頁)の中で摘示しているとおりである。

さらに、E子は、公判準備期日における証言の場において、Y子転落時に被告人が現場にいなかった旨及びY子転落後マンホールの蓋を閉めたのは自分である旨、いずれも捜査段階とは異なった証言をしている。

原判決は、Y子の浄化槽転落事実に関する被告人供述とE子供述とを対比し、詳細に検討を加えた上、結論として、E子の供述のうち、Y子転落事実に関する捜査段階の供述は、被告人がその場にいたとの点を除き信用性が高く、それに反する被告人のこの点に関する供述は信用できず、また、被告人がその場にいた旨のE子の供述は信用できないとし、したがって、Y子転落に関する事実を原因事実とする被告人の動機に関する自白供述の信用性には大きな疑問があるといわざるを得ないと判示している。

当裁判所は、右原判決の判断は正当であると考えるが、動機に関する自白供述の信用性に大きな疑問があるというよりも、むしろ動機に関する自白供述は明らかに事実に反するものといわざるを得ないと考えるので以下に説明する。

(五) まず、E子供述(以下「E子供述」という場合は第二次捜査段階でのそれを示す。)と被告人供述との食い違いであるが、原判決は、第十一の四5(三)(3)ウ(1091頁)において、(ア)Y子が転落した時間帯、(イ)被告人がいた位置、(ウ)浄化槽の上にいた園児、(エ)Y子が転落した原因、(オ)そのときの被告人の行動、(カ)転落後のY子の様子、(キ)蓋をした人物などを指摘し、これらが大きく食い違っているとするのに対し、検察官の所論は、原判決の指摘部分は、被告人の供述とE子の供述、証言内容を十分検討すれば本来食い違いとまでいえるようなものではないか、あるいは表面的に食い違いがあるとしても、合理的に説明が可能で、不自然といえるようなものではない旨主張する。

しかし、まず、Y子が転落した時間帯についてであるが、原判決は両供述の間に不一致があるとしているのに対し、検察官はそれを認めていないかのようである。確かに夕食の準備ができた後(被告人)か、おやつの後で夕食の前(E子)かというだけでは違いが明らかではないものの、原判決が指摘しているように、被告人の供述では夕食の準備ができてからY子が席にいないことに気付いてY子を捜しに行ったとなっており、食堂にはE子をはじめ、E子が一緒に遊んでいたと供述するS子、J、Xは既に来ていたことを前提にしているといってもよい、被告人の四月一四日付警察官調書では、そのことを明言しているわけではないが、来ていない子供が五、六人あり、そのうちB、O、M、C1、Y子の名前まで挙げ、Y子以外の子は食事にはきちんと来てくれる子供達なので、遅いことについては気にとめなかったというのであるから、E子ら前記四名は食堂にいたことにならざるを得ない。そうであるとすれば、夕食の準備ができた後とおやつの後で夕食の前とでは文字どおり(後者はどちらかといえば「夕食の前」よりも「おやつの後」という時間帯に力点が置かれていると受け取るのが一般であろう。)かなりの間隔があるとみるのが相当であって、供述に食い違いがあるというべきであり、E子供述で浄化槽の上にY子ほか園児ら四名がいたとする点は、被告人供述では全く述べられていないのみならず、それどころか食堂にいたことになるのであるから、浄化槽の上で遊んでいるはずはなく、明確に矛盾することになる。

検察官は、「被告人が食堂からY子を捜しに行く際に食堂にいた園児」については、被告人の供述内容自体、E子の供述内容と明確に矛盾するとはいえないものである上(これが理由がないものであることは右に述べたとおりである。)、この点についての被告人の供述は、被告人がY子の浄化槽転落に関する自己の関与をまだ否定していた段階でなされたものであって、被告人が真実をそのまま述べたものとは考えられず、また、「Y子転落時に被告人がいた位置」とか「E子が浄化槽でY子と遊んでいた際に一緒にいた園児」や「Y子転落時に浄化槽で遊んでいた園児」についての供述は、被告人のそれまでの供述経過をみれば、被告人はY子の浄化槽転落に対する自己の関与を一応認めたものの、その一方で責任を免れたいとの気持ちから、被告人が真実を供述していない疑いがある旨主張する。

しかし、確かに被告人の四月一四日付警察官調書の供述は、被告人がY子の浄化槽転落に関する自己の関与をまだ否定していた(認めていなかった)段階でなされていたものであるが、だからといって、食堂にいた園児やまだ来ていなかった園児について真実を言わないという理由も見い出し難く、ましてや、自己の関与を認めた調書になっている同月一九日付警察官調書でもこの点の訂正をしていないどころか、右同月一四日付警察官調書を前提としてその続きを供述する内容になっているのであるから、所論はとり得ず、責任を免れたいとの気持ちから被告人の位置や他の園児のことについて真実を供述していない疑いがあるとの主張は全く意味不明のものといわざるを得ない。もし、E子ら他の園児がおり、E子あるいはS子がY子の手を引っ張ったためY子がマンホールに転落したということが真実であり、それを目撃しているのであれば、Y子転落について自己の関与を認める供述をしようとしている被告人にとって、真実を語るのに何の躊躇もないはずである。真実を供述しないで、Y子が一人でいるとき自分が声をかけたためマンホールに転落したと供述することがいかなる意味で責任逃れになるのか全く理解に苦しむといわざるを得ない。自ら蓋を閉めたことまで供述している被告人が所論のような点についてわざわざ虚偽の事実を工作して述べるとも考えられない。

右に指摘した点だけからしても、既にE子供述と被告人供述には明らかに食い違いがあり、両立し得ない関係にあって、いずれか一方が虚偽の事実を供述しているといわざるを得ない。

(六) さて、Y子の浄化槽転落事実についてのE子供述は、第一次捜査段階では供述されず、事件後三年以上経ってから第二次捜査段階に入って供述されるに至ったものであり、供述内容にも変遷があるので、その信用性の判断は特に慎重になされなければならないが、既に述べたように、この点に関しては原判決が結論としてE子の証言が信用できる旨適切に判示しているので、以下当裁判所の説明に必要と思われる限度で問題点を要約して指摘する。

まず、E子供述のうち、第二次捜査段階での捜査官に対する供述と証言とでほぼ一致している点、すなわち、三月一七日の午後三時のおやつの後、Y子、E子、S子、J、Xの五名の園児が浄化槽のコンクリートの上で遊んでいたこと、E子がマンホールの蓋を開けたこと、S子又はE子がY子の手を引っ張るなどしたためY子が浄化槽に転落したこと、以上の事実については、本件においてこれを覆すに足りる証拠は存しない。しかも、Y子の死体解剖に関する溝井鑑定書及びこれに関する溝井証言(差戻後のもの)によれば、「Y子の胃の内容物は、食後、二ないし三時間を経ている位の消化程度である。」と鑑定され、三時間以上を経過しても矛盾はしないが、五、六時間になると胃は空っぽになるというのである。右胃の内容物は昼食に出されたものであり、昼食は午後一二時から一二時三〇分であることからすれば、Y子の死亡時刻は早くて午後二時、遅ければ三時三〇分ということになるから、この胃の内容物の消化程度は、Y子転落の時間帯について、E子供述を裏付けることになる一方、午後四時四〇分ころという被告人の供述にはそぐわないことになるといわざるを得ない。E子供述は、Y子転落に関する限り、ことさら創作して虚偽を供述するような動機も見出せず、供述内容も自己に不利益な事実で、かつ具体性、迫真性を備えているなど信用性が高いといってよいが、溝井鑑定書等によって、さらに客観的にも裏付けられていることの意味は大きい。

そうであるとすれば、既に被告人の自白内容は、これらの点について客観的事実と明らかに矛盾しており、真実とは異なるものと考えざるを得ないのであるが、さらに念のため、E子が証言するマンホールの蓋を閉めたこと、被告人が現場にいなかったこと、B谷も運動場にいなかったことについて検討してみる。

基本的にいって、例えば、自白によって有罪を認定する場合には補強証拠が必要とされているが、被告人の公判廷における自白に補強証拠が必要とされるのは、訴訟法上の要求からで、憲法上の要請からではない旨、公判廷以外の自白と区別がされている議論があるように、被告人の供述であっても、証人の供述であっても、公判廷又は公判準備における自己に不利益な供述は、特段の事情がない限り、その信憑性は高いと考えてよい。本件におけるE子は、もちろん刑事被告人の立場にあるわけではないが、その証言内容は、Y子が浄化槽に転落した事実に関して、それまでの供述と対比して、自己の関与ないしその責任を最も強く認める内容になっており、広い意味では不利益といえる事実を最も強く承認しているといえるのであって、上記の基本理論からすれば信憑性が高いものである。

次に、何よりも、前記客観的と思われる事実との整合性の観点からいっても、証言内容の方が他のE子の供述に比べ、より合理的に説明することができる。すなわち、E子の供述する前記「三月一七日午後三時のおやつの後、Y子ら五名が浄化槽の上で遊んでいたところ、E子がマンホールの蓋を開け、E子かS子がY子の手を引っ張る等したため、Y子が浄化槽に転落した。」というところが真実とすれば、被告人の自白する内容は右と明らかに別の異なった場面ということになり、前記のように被告人の自白は真実に反していることになるところ、被告人が右真実を目撃していたのにこれを故意に供述しない理由など全く考えられないし、また他に被告人がE子の供述するようなY子転落場面に居合わせた事実を窺わせるような証拠は全く存在しないから、本件における他の証拠による限りそこに被告人がいなかった可能性が極めて強いというか、そこにいた可能性はほとんど考えられないといってよい。したがって、被告人がそこにいなかったことを前提とする証言の方が、これをいたとする供述よりも真実に合致すると考えられるのである。そして、被告人がいなかったとすれば、E子が証言するように、E子が自らY子の手を引っ張ったところY子が転落し、助けようとして手を握ったけれどすぐに落ちた(この点はE子が昭和五二年七月一八日付警察官調書において供述している。)ため、つい蓋をしてしまったということも考えられない行動ではないであろう。

所論は、E子が、「被告人はいなかった。」、「自分がマンホールの蓋を閉めた。」と証言したのは、目の前にいる被告人に対する強い「はばかり」があったため真実に反する証言をしたと主張するが、既に第二の五8(二)(4)において述べたように、そもそも「はばかり」なるものが、文字どおり被告人を恐れて、あるいは被告人に対する遠慮から真実を証言できないのか、もともと真実に反すること、あるいは記憶にないことを証言しようとするために被告人に対する「はばかり」が生ずるのかという「はばかり」の原因が明らかでないという問題があるのみならず、原判決も指摘するように、E子証言は、全体として、ほとんどの事項について証言することを渋っており、証言するにしても沈黙する時間が長かったり、手を変え品を変えた質問をすることによってやっと答えが返ってくるか、中には沈黙を通してしまうことがあるなど際立った特徴を示しており、これに被告人に対する「はばかり」や、証人尋問の際弁護人の異議が多かったことだけでは説明できないものである。例えばマンホールの蓋を開けたのは誰か、Y子がどうして転落したのかについてもなかなか答えが出ていないが、これらは検察官の主張するところによっても被告人がかかわっていない部分であって、到底被告人に対する「はばかり」があったからということでは説明がつかない。自分が蓋を開けた、自分がY子の手を引っ張って転落させたと証言することに、被告人に対するどのような「はばかり」があるのか理解に苦しむところである。

そして、蓋を閉めたことについて、弁護人の反対尋問の結果、ようやく自分が蓋を閉めた旨証言しているのであるが、仮に被告人に対する「はばかり」があったとしたならば、捜査段階で通したように、「知らない」とか「記憶にない」とか、あるいはこれまでの証言状況からみて沈黙を押し通すことで十分であるし、それができない状況があったとは考え難い。むしろ、昭和五二年六月二〇日付警察官調書では、「浄化槽のコンクリートの上で遊んでいた園児らに遊ばないように注意しに行った。」旨の内容になっていたのが、同年七月一八日付警察官調書では、「蓋を開けたのはS子と後から来た女の子で、S子がY子の手を引っ張ってはめた、自分はY子を助けようとした、蓋は誰が閉めたか知らない。」旨に変遷し、さらに同年一二月六日付検察官調書で問いに対し約二〇分間考え込んだ後「自分がマンホールの蓋を開けた」ことは認めたが(この供述が出るまで検察官とE子との間でどのようなやり取りがあったのか、その詳細はわからないが、この供述によってY子では開けることができないと思われる約一七キログラムのマンホールの蓋がなぜ開いていたのかという疑問が解消することは事実である。)、「蓋を閉めていない」となっているのをみると、供述の変遷は、自己が直接関与した事実を徐々に供述していったことによるものであり、しかも、自己に不利益な形で変遷していっていること、その供述の出方も、自己に不利益な事実をあえて供述するという心理過程が窺われるものであるとの原判決の評価は正鵠を射たものであって、この延長線上にあるのがE子証言であるとみれば、すべて説明がつくのである。すなわち、人は自己に不利益な事実、あるいは自己の責任に直接かかわるような事実についてはなかなか供述したがらないが、そのような状況の中で尋ねられていくうちに事実を隠し切れず、次第に事実を吐露していく過程が表れていると考えられる。E子は証言の場で初めて、しかも最も自分に不利益な「蓋を閉めた」事実を供述しているが、このことをどのように考えたらよいであろうか。既に述べたように、「知らない。」「見ていない。」との答えで済むはずである。証人尋問調書をみる限り、弁護人の追及がそれほど執拗であったとも認められない。所論がいうように被告人に対する「はばかり」から述べたとみるのはいかにも無理な解釈であって、素直にみる限り真実を供述したと評価せざるを得ない。

しかも、原判決も指摘するように、E子において被告人が現場にいたことを供述しているのは、昭和五二年七月一八日付の西村末春警察官に対する供述調書と、同年一二月六日付の逢坂貞夫検察官に対する供述調書の二通だけであり、同年六月二〇日付の井上正躬警察官に対する供述調書と、最も新しい昭和五三年三月一六日付の仲内勉検察官に対する供述調書には供述されていない。そして、仲内証言によれば、検察官である仲内が、右調書作成の二日後である昭和五三年三月一八日にE子から事情聴取した際、E子に被告人を見たかどうか尋ねたがどちらとも答えが出なかったというのである(供述調書についてはE子が署名押印せず、証拠として提出されていない。)。検察官は、これをも被告人に対する「はばかり」で説明しようというのであるかもしれないが、「はばかり」ということだけで説明できるか疑問であるのみならず、被告人の面前ではないから、「はばかり」で説明するのは一層不当である。

検察官の所論は、Y子転落についての責任をすべて認めているE子が、真実浄化槽の蓋を閉めたのであれば、むしろ蓋を閉めた事実をためらうことなく証言するのが自然であると思われるのに、これをためらった末証言したのは、E子が自己に不利益な事実を述べるのをためらったからという理由だけでは説明できないというが、蓋を開けたり、Y子の手を引っ張ったこと(故意に落とそうとしたとは証言していない)と、蓋を閉めてしまうことの事実自体の軽量に対する考察を欠いたとり得ない主張である。

さらに所論は、E子供述が被告人の行動状況について具体的な供述をしていない点について、Y子転落時及び転落直後には、E子の注意は専らY子に集中しているのであるから、やはり被告人の行動状況についてE子から具体的な供述が出ないことは至極当然である旨いうが、被告人はA山学園において園児らを保護監督する立場にある保母であり、しかも当日の宿直者二人のうちの一人である。もし、Y子転落の現場に被告人が居合わせ、E子がこれに気付いていたのであれば、何をおいても、E子は先生である被告人に助けを求め、被告人の指示を求めるのではなかろうか。仮にE子がそのまま逃げるつもりであったとしても、先生に叱責されはしないか、そのまま気付かれずに逃げられるかなど、被告人の動静を窺うはずである。他に同所にいた園児はすべて自分より能力の劣った者ばかりであるから、それら園児の具体的行動状況に注意がいかないことは当然あり得るとしても、被告人については事情が全く異なるのであるから、この点の認識を欠いた所論も失当というべきである。また、当時被告人に助けを求めることができない何らかの事情があったとも考えられないし、検察官においてこの点に関する何らの主張、立証もない。

E子の捜査段階での供述によると、Y子が転落した後、E子は被告人に助けを求めることもせず、すぐ裏から歩いて運動場へ行き、B谷先生に知らせたとなっている(昭和五二年七月一八日警察官調書)。そうだとすれば、B谷は何をおいてもY子救助に駆けつけるであろうし、学園全体が大騒ぎになるのが当然予測されるところ、本件においてB谷がY子救助に行けないような事情は全く存在しない。しかも、被告人の供述する夕食の準備ができた時間帯には、B谷は園児数名を連れてA山学園の外に木の根を掘りに行っており、学園の運動場にはいるはずがないのである。検察官は、B谷が運動場にいた時間帯を主張する趣旨であるのかもしれないが、そうであるとすれば、被告人の自白する時間帯と真っ向から対立してしまうことになる。検察官はY子が浄化槽に転落した時間帯をあいまいにしたままで事実を認定しようとしているかのようであるが、そのようなことは本件では許されないというべきである。

原判決が、E子供述について、「Y子の浄化槽転落に関する事実に被告人の目撃事実が取って付けたように供述されているのであり、極めて具体的に欠けた供述である。」というのは誠にもっともである上、さらにいえば、B谷が運動場にいて、B谷に知らせたとする点も、全く同様に考えられるのである。

このようにみてくると、E子証言は、それ以外の同人の捜査段階供述と対比した場合、むしろ最も真実に近い事実を証言していると認めるのが相当である。

その他、所論がE子証言の信用性について縷々主張する点を考慮しても、当裁判所の認定を左右しない。

(七) 検察官の所論は、原判決が本件動機が不自然であるとするのに対し、被告人は、浄化槽に転落したY子を単に放置したのではなく、浄化槽の蓋を自ら閉めたのであって、この行為自体は、正に要介護者に対する不救助による「殺人」行為にも匹敵する行為と評価できるものであり。被告人自身も意識としては自己がY子を見殺しにしてしまったとの気持ちがあったものと考えられる旨を主張し、被告人が浄化槽の蓋を自ら閉めた事実を強調し、被告人の供述する犯行の動機内容は十分理解が可能であって、不自然・不合理で不可解と評するようなものではないという。

なるほど、単に放置した場合と、さらに自ら蓋をしたのとではその責任や意識に違いが生じるであろうこと所論指摘のとおりであるが、右に述べたように、E子供述及び溝井鑑定書等による限り、本件では被告人が蓋をした事実は認められず、E子が蓋を閉めたと認めるのがごく素直な事実認定である。そうだとすれば、被告人が蓋を閉めたことを前提とする検察官の動機論は根底から揺らいでしまうことにならざるを得ない。

(八) 本件における動機の重要性については、既に述べたとおりである。確かに動機が明確にできなくても有罪となる殺人事件がないわけではないが、それは他に被告人と犯人を結び付ける有力かつ確実な客観的証拠が存在する場合であって、本件とは全く事案を異にする。既にみたように、本件では被告人と犯人とを結び付けるような客観的な証拠は全く存在しないのであるから、犯行の動機に重大な疑問があれば、自白全体の信用性はもともり、事件全体の立証が崩れるといってよい。

かように、Y子転落事実に関するE子供述は、本件において重大な意味を持つものであるが、これは、第一次捜査段階では全く現れず、第二次捜査段階で初めて供述されたものである。このような重大な供述に直面した捜査官としては、その時点で、今一度捜査を原点に戻して事件を見直すべきであったのではないかとの念を禁じ得ない。

3  自白に至る経過と外形的状況について

(一) 自白の時期、否認との交錯について

被告人の自白の概要は、原判決が第十一の一(952頁)に記載するとおりである(同項1(一)九五二頁五行目括弧内の「四月一九日勾留」は「四月九日勾留」の誤記と認める。)。原判決も第十一の二(979頁)に説示するように、逮捕から自白まで一〇日が経過していること、最初の自白をしてからも短時日の間に自白と否認を繰り返していること、最初の自白から六日目以後は一貫して否認していることが本件自白経過の特徴であり、自白の信用性判断に慎重さを要求する徴憑というべきである。すなわち、身柄拘束後早い段階での自白や、捜査段階で一貫した自白についてはそうでない場合と比較して信用性が高いと認められる場合が多いといってよいが、本件自白については、そのような事情がないという意味で、信用性判断に対するより慎重な態度が要求される。ただ、真犯人であっても自白することに心理的抵抗は存在するのであるから、自白が遅れたことや自白と否認が交錯することが直ちに自白の信用性を減殺するものとみることもできないのであり、必ずしも抽象的な右経過自体が大きな意味を持つものではない。自白に至るまでの供述や、自白と否認が交錯した理由に関する被告人の弁解等を具体的に考慮すべきである。

(二) 弁護人の接見との関係について

被告人の自白調書は、逮捕から一〇日を経た四月一日から同月二一日までの五日間に作成されているところ、被告人は、逮捕された四月七日から釈放される同月二八日まで、同月一一日、一三日、一五日を除いて毎日弁護人と接見している。このように、弁護人との多数回の接見の中で自白がなされた場合には、その自白の信用性が高まると考えるのが通常であり、検察官もその旨主張するのであるが、本件においては、原判決が第十一の三2(989頁)で説示するように、弁護人の接見が円滑かつ十分に行われたとはいい難く、被告人と弁護人との十分な信頼関係が成立していなかったことからすると、弁護人の接見が毎日あったからといって、そのことを被告人の自白の信用性を高める要素とすることはできないと考える。検察官は、この原判決の判断に対し、①検察官の接見指定に対する準抗告等は手続的問題であって、接見が十分になされたか否かとは関係がなく、②被告人が弁護人の助言に従わなかったのは、単に弁護人の進める黙秘戦術と被告人が考えたアリバイ戦術との違いに過ぎず、「犯行は否認し、自白はしない。」という点では一致していたのであるから、弁護人からの指示・助言を受けながら自白したことは、その自白の信用性を認めるに足りる情況証拠であるといえる、③そのことは被告人の供述態度と弁護人との接見の対応関係を全体的にみれば、被告人の否認が弁護人の接見の影響を色濃く反映していることからも十分窺われる旨主張する。

しかしながら、①についてみると、確かに接見指定や準抗告等自体は手続的なものではあるが、これは、弁護人が接見しようとしたときに自由にできなかったことを意味するのであって、結果としてなされた接見の回数及び時間からみても接見が十分に行われたとはいえないとの評価が誤りとはいえない。③についてみると、検察官も「全体的にみれば、……十分窺われ、」と主張するとおり、明確な対応関係ではなく、これをもって対応関係があるとみるか、ないとみるかは評価の違いである。むしろ、原判決が第十一の三2(三)(1006頁)で適切に指摘するように、弁護人の接見があれば被告人の態度が硬化したとか否認に転じたとかいうような対応関係になっているとはいえないとみるのが相当である。②が最も重要な点であるが、そもそも、弁護人との接見が頻繁に行われる中でなされた自白の信用性が高まるのは、取調官によって虚偽の自白を引き出しかねないような不当な取調べがなされた場合には、被疑者が専門家たる弁護人に相談することができ、その適切なアドバイスにより精神的に追い詰められたりすることはないであろうとの前提に立っているからであり、原判決が示すように、本件の被告人や防禦方法に関して弁護人と考え方を異にし、その指示・助言に対し従うことができず、不満を抱いたような場合には、必ずしも当てはまらないというべきである。検察官は、「犯行は否認し、自白はしない。」点で被告人と弁護人の対応が一致している旨主張するが、犯行を認める供述をしないことは、無実であるゆえの否認か虚偽の否認かは別として、否認する以上当たり前のことであって、取り立てて一致があると強調できることではない。問題は、どのような方法により不起訴ないし無罪を獲得するかという点にあり、黙秘を通すことによるのかそれともアリバイ供述(真実か虚偽かはさておく。)を含む種々の弁解を積極的にすることによるのかは方針の基本的な違いであって、この方針の違いは、弁護人と被告人間の信頼関係を失わせるに足りる事由になるものと考えられる。そして、被告人の供述調書の記載並びに取調状況に関する取調官の証言及び被告人の供述を総合すれば、被告人が、むしろ取調官側に親近感を覚え(もちろん取調官に迎合し、無批判に信頼していたとまでいうものではなく、有罪無罪の総合判断をする前の現段階では、被告人が、無実であって取調官が無実を明らかにしてくれると考えたのか、実は犯人であって取調官に逆らわずアリバイを作り出した方が有利だと考えたのかも保留してのことであるが。)、弁護人に対し十分な信頼感を抱いていなかったことは明らかである。このような状況での弁護人の接見は、被告人の自白の信用性をそれほど高めるものとはいい難い。

(三) 支援者のシュプレヒコールとの関係について

また、被告人の自白調書が作成されたころ、被告人が勾留されていた兵庫県警本部前道路で被告人を激励するシュプレヒコールがなされ、その声が被告人にも届いていたことが認められることから、検察官は、このような激励の中での自白は信用性が高いと主張する。しかしながら、このような支援者の声は、一般的には、被告人が真実犯人であると否とを問わず、その孤立感を緩和することによって、自白しないことへの精神的助力になるといえるものの、所論主張のようにいうためには、支援者の声を聞くことにより虚偽自白の可能性が低くなるという関係になければならないのであるが、仮に、被告人が無実であったとしても、被告人自身が述べるように、シュプレヒコールは警察を敵対視するものであるのに対し、自分はそのようには考えていなかったとすると、必ずしも支援者の声が被告人の精神的支えにはなり得ない。したがって、問題は、被告人が右のように考える前提状況が存在したか否かにあるところ、前項で述べたとおり、被告人は取調官に親近感を抱いていたかのような状況が認められるのであって、被告人の述べるシュプレヒコールにどちらかといえば反感を持ったり苦痛に思ったとの見方が直ちに事実に反するものとは認められない。検察官も、控訴趣意書においては、被告人の四月一九日付警察官調書の記載をもって、この供述内容は自分は自分なりに取調べに対応するつもりである旨のことを述べたものと考えられると主張しており、必ずしもシュプレヒコールを被告人の心情に沿ったものと考えていなかったことを認めているのである。したがって、シュプレヒコールをもって虚偽自白の可能性を低める要素と考えることはできない。

(四) 否認供述における変遷について

(1) はじめに

被告人は、逮捕から一〇日を経た後の五日間に自白供述をしているところ、これに至る被告人の逮捕直後からの取調べの内容自体は、Xの行方不明前後における被告人の行動という見方によっては単純な事実といい得るものであるにもかなわらず、被告人の供述内容はあいまいでかつ大きな変遷を示し、自白の三日前の四月一四日には、無意識の間にXを殺害したような気がする旨の極めて特異な内容を示している。被告人の供述が、否認している最中でも大きく変遷している点について、検察官は、「被告人が虚偽のアリバイ供述をしようとし、その矛盾等を取調官から追及されたために変遷し、説明に窮した末の結果である。」旨主張し、弁護人は、被告人の弁解(原判決第十一の五2(二)(1145頁))に基づき、「取調官から現実には存在しない空白の時間があると追及され、記憶が混乱した状況でその間の行動を説明しようとしたために生じたものである。」旨主張する。どちらも変遷の理由としてそれ自体はそれぞれ考えられる説明であるといえるので、それぞれの主張につき、さらに検討してみる。

(2) 検察官の主張について

(ア) 検察官の主張は、それだけをみると、一応もっともであるかのような主張である。しかしながら、これを検察官が本件で主張している事件全体との関連でみると、まず、被告人がアリバイ供述をしようとしたために変遷したという点で大きな疑問が生じる。すなわち、被告人の供述の変遷は、管理棟事務室から出て行った先や、その目的においての変遷であり、これは、管理棟事務室から出たことを前提にアリバイを主張しようとした場合に起きる変遷である。ところが、検察官の本件における被告人らのアリバイ工作論は、各争点で個別に主張され、いつごろ、誰と誰の間で、どのようなアリバイ工作があったとするのか極めてわかりにくいものではあるが、その基本は、「午後七時半ころに被告人、B谷及びE田がB山のいる管理棟事務室に入ったが、それから、被告人は、B山がA山学園から神戸新聞会館に向けて出発するまではもちろん、その後も同室から出ておらず、たまたま出ようとしたときにXの行方不明が知らされた。」という筋書でアリバイ主張をしようとしたというもののはずである(B谷が独自にE田に働きかけたものであって、肝心の被告人には逮捕されるまでその筋書を伝えなかったという主張であるとは考えられない。)。現に、被告人の供述経過をみると、逮捕以前から逮捕翌日の四月八日付警察官調書が作成されるまではおおむねそのような供述である。そうすると、このようなアリバイ供述をしようとしていた被告人が、四月一一日警察官調書において、午後八時前ころに用便のために管理棟事務室を出たとの供述をするに至ったのは、矛盾を追及されて「管理棟事務室から出ていない。」という供述が維持できなくなったからということになるが、その矛盾を追及されたという状況が考え難いのである。

検察官は、この点について、「被告人は、E田らの供述内容を基に取調官から追及を受けて、自己が管理棟事務室から出たこと、さらに、その後B川と出会うまでの行動についても説明せざるを得なくなった。」旨主張しており、E田ら(この「ら」が具体的に誰を想定しているのか明らかではない。)の供述により客観的事実をつきつけられて被告人のもともとのアリバイが維持できない状況になっていたとして説明しようとしている。しかし、右のようなアリバイ主張が工作といえるような形で被告人らの間で計画されていたとすれば、被告人において、検察官がアリバイ工作に加担した一人と主張するE田の供述は、それも被告人が逮捕される以前に作成された捜査復命書ないし警察官調書における「被告人がB山出発後間もなく管理棟事務室を出た。」という供述を示されただけで、自己が管理棟事務室を出ていないとのアリバイ主張が維持できないと考えるであろうかという疑問がある。そもそも、E田のこの供述がアリバイ工作の一環であるという検察官の主張自体無理があり、甚だ理解し難いのであるが、それはさておき、検察官が主張するように、E田のこの段階の供述がアリバイ工作による供述であるとすれば、E田のアリバイ工作に基づく供述により被告人はアリバイ工作の主張ができなくなったという矛盾した説明をすることになってしまうのである。しかも、検察官が主張するところでは、E田は管理棟事務室にいなかったのであるから、E田がアリバイ工作に協力しなかったとすれば被告人の行動について述べる立場にないだけであり、被告人が管理棟事務室から外に出たことを供述できるはずはない。検察官主張のような事実関係で、E田の供述を示されたとすれば、被告人としては、E田は管理棟事務室にいなかったと供述すればよく、E田が本当のことを供述しているなどと考えるはずもないのであって、少なくとも自己のアリバイ供述を支えてくれるはずのB谷供述に期待すれば足りるのである。仮に、被告人において、それまでE田がアリバイ工作に協力してくれると信じて同人も管理棟事務室に一緒にいた旨述べていたため、実はE田は管理棟事務室にいなかったと述べることが過去の自分の供述と矛盾して不利益だと考えたとしても、E田も直接知り得ないことを述べているのであるから、E田の供述が真実の供述であって従わざるを得ないなどと考えることはあり得ず、E田の供述にかかわらず自分は外に出ていないと言い張ることは容易である。

また、B川供述については、グランドで被告人と会ったというだけであり、その位置等に多少の食い違いがあっても、時間的には被告人が管理棟事務室から出たところで会った旨の供述をする妨げになるものとは考えられない。

なお、管理棟事務室内部での行動の説明に窮したとの主張も考えられないではないが、そもそも各電話の時刻自体が明らかになっていない上、そこで説明を要するのはたかだか数分間から十分間位の時間であり、「部屋の中でお茶を飲んで話していた。」、「捜索表を作る準備をしていた。」などの説明が十分可能である。

さらに、当時既に現れていた園児供述を示され、青葉寮に行ったのではないかと追及されて、管理棟事務室にいたことを維持できなくなったとの主張も考えられないではないが、仮に被告人が犯人であり、かつ検察官が主張するようなアリバイ工作まで考えていた者であったとすると、青葉寮において園児に目撃されたという事実は致命的ともいえる事実であり、どこでどのような場面を見られているのかを確認もせずに青葉寮に行ったことのみを認め、なおかつアリバイ供述をするなどとは考えられないところである。

右のとおり、検察官の主張を前提にすると、被告人が事前に計画した「管理棟事務室から出ていない。」との供述を維持できない理由は考えにくいのであって、被告人が虚偽のアリバイ供述を意図していたならば、当然管理棟事務室にいたことに固執するはずであり、またそれができたと思われるのに、これを放棄して供述が変遷していることは、アリバイ主張をしようとして無理をしたためであると考えることと全く整合しないというべきである。そして、付け加えれば、その変遷させたアリバイ供述の最初が、犯人であるとすれば最も危険で供述を避けるべき「青葉寮に行った。」というものであって、むしろ後から厨房等を持ち出していることも、犯人が虚偽のアリバイ供述をしようとしたという説明に違和感を感じる理由の一つである。

(イ) これまで述べたように、「被告人の自白に至るまでの供述の変遷は、虚偽のアリバイ供述をしようとしたために生じたものである。」旨の検察官の主張は、本件における検察官主張全体の構造からすれば重大な疑問があり、ほとんど整合性を欠くといってもよいが、それでも被告人の弁解が信用できず、自白が信用できるという検察官の主張の根本には、「被告人は、逮捕以前にも事情聴取を受けるなどして記憶を喚起する機会があったのであるから、公判廷で供述するような記憶があったのであれば、Xの行方不明前後のたかだか一時間足らずの自己の行動を説明できず、かつ不自然に変遷することはあり得ない。」との判断であると考えられる。確かに、被告人が事実管理棟事務室から出ていないのであれば、事件直後から何度か記憶を喚気してその旨述べているにもかかわらずその記憶が薄れるようなことがあるか、仮に記憶が薄れたとしても、記憶がないとの供述をするだけでなく、青葉寮に行った、サービス棟に行ったなどと事実にないようなことを次々に変遷させて供述するかといった疑問が生じることは否定できない。しかし、前者については、他の関係者供述に関しても述べたが、その直後にXの行方不明が知らされ、ついにはXとY子が二人とも死体で発見されたという極めて衝撃的な事件が発生しているのであり、衝撃的な事実及びその後の行動については比較的記憶に残る可能性が高いといえても、それ以前の自己の行動にについては精神的ショックにより記憶が混乱し、特に便所へ行ったか、おやつを食べたかなど日常的な細々した行動について一々正確に記憶していないことは十分考えられる。後者は、記憶の混乱と関係はするものの、積極的に事実に反する供述を変遷させている点で不信感を抱かせるものであり、弁護人の主張するような説明が納得できるものであるかどうかをさらに検討すべきである。

(3) 弁護人の主張について

被告人の供述の変遷についての弁護人の説明は、前記のとおりであるが、この弁護人の主張が、内容的にも起こり得ると考えられるだけでなく、取調官側の証言によっても一部これに沿うような事実が認められ、一概に排斥できないことについては、原判決が第十一の五2(三)(1152頁)から(六)(1174頁)の中で説示するとおりである。これに対する検察官の反論は、前記(2)(イ)に尽きるのであって、「被告人は、逮捕に至るまで管理棟事務室から出ていないことを供述していたのであり、これが事実としての記憶であれば四月八日から一一日までの三日間でこの記憶をなくしてしまうことが極めて不自然である。」ということである。しかしながら、人の記憶が必ずしも十全でないことはよく知られているところであり、仮に自分が一定の記憶を有していたとしても、それが誤りであることをあたかも確実であるかのように種々問題の証拠等を示して書い込められれば、それを前提にせざるを得なくなるのであって、これをもって記憶をなくしたと表現することは適当ではない。原判決が詳細に説示するように、当時の被告人が、取調官による説明を信頼して空白の時間があるとの前提に立ってしまったとすれば、管理棟事務室から出てないとの記憶がある一方、客観的には出ているはずであるからそのことを忘れているのではないかと考えて、その記憶をたどろうとすることは十分起こり得ることであり、証拠上もそのような状況が窺われるのである。

(五) 四月一四日の無意識殺人供述について

検察官は、四月一四日の無意識殺人供述を否認供述であると評価しているが、むしろ、これは自白の一部として取り上げるべきである。すなわち、前項で述べたように、否認時における供述の変遷については、記憶がない部分について無理に説明しようとしてその供述内容が変遷した可能性を否定できないと考えるのであるが、そうであるからといってその説明が自ら殺人行為を犯したという自白に至る必然性はなく、仮に無意識であると弁解するにしても、自ら客観的な殺人行為を認めることは自己に極めて不利益なことであり、自白に一歩も二歩も近づいたと評価するのが普通の見方である。無実の者がこのような自己に極めて不利益な供述をするについては、何らかの、それもかなり強い原因が必要であると考えられるのであって、その原因として被告人の供述するところに合理性はあるが、そのような事実があったことが窺われる証拠があるかが次に問題となる。

この供述については、調書の記載においても、被告人が青葉寮に行ったことを前提にした上、さらに、取調官から、正面玄関からは入っていないはずであること、その時刻ころにXが連れ出されたこと、被告人がXを連れ出したのを見た園児がいることなどを示された形跡が残っているのであり、原判決が第十一の五2(1142頁)において説示するように、被告人が取調官から追及される中で、論理的に考えた結果として出た供述と考えられる。この点、検察官も、被告人が、取調官の追及により、これまで述べていたことでは自己の行動が説明できなくなった結果として出た供述であるとの判断部分には異を唱えないものの、そこには若干のニュアンスの違いがある。すなわち、検察官は、被告人がXを殺害したと考えているため、無意識殺人供述は山崎から教えられた旨の被告人の弁解をとらえて、①取調官とすれば、無意識殺人は否認供述であってそのような供述には何の価値もないのであるから、これを被告人に押し付けて調書化することは考えられず、②この弁解が信用できず、被告人が自ら無意識殺人を言い出していると考えられることからすると、被告人が、取調官の追及により事実であるX殺害の客観的行為については認めざるを得なくなったため、責任逃れの苦し紛れにした供述であることが明らかである、というのである。

しかしながら、①についてみると、無意識殺人が犯罪の成立について故意が問題になるという意味で否認供述の側面があることはそのとおりであるとしても、それは無意識という点に問題があるだけであり、客観的な殺害行為を認めさせたことは取調官にとって大きな進展であることは否定できない。なぜなら、無意識殺人などということは通常通るはずのない弁解であり、そのようなことは経験豊かな取調官が知らないはずがないからである。もっとも、最終的に供述調書を作成する段階において、無意識とする点に問題があるから、その否認部分を固めないために供述調書を作成しないとの見解もあり得るであろうが(否認供述を調書化するとそれが固定化されて自白を得ることが困難になるから、否認供述はできるだけ調書化しないという考えを持つ捜査官が少なからず存在することは職務上顕著といってよい事実である。)、一部の自白を得たとしてこれを調書化することは十分考えられるところである。まして、取調べの途中においては、一部でも自白に近づくために客観的殺害行為だけでも認めさせようとすることはより考え易いものであって、取調官から無意識殺人を示唆することがあり得ないとは到底いえない。

また、②については、当裁判所としては、この「無意識」の言葉が取調官から出た可能性が高いと考えるが、仮に、そうでないとしても、被告人が、取調官から「Xを連れ出したのは目撃した園児がいる。これは動かし難い客観的事実であり、その後Xが浄化槽に投げ込まれたのだ。」と追及され、これが事実であると前提にしてしまえば、X殺害の記憶がない以上は「記憶はないが殺したのであろう。」という推論をせざるを得なくなるのであって、この「無意識」という言葉を被告人から言い出したか否かは被告人の弁解においてさして重要ではない。

むしろ、ここでの問題は、やはり、理詰めで追及されたからといって、記憶にないX殺害行為を客観的行為の部分だけといえども認める心境になるか否かという点である。すなわち、検察官が主張するような「犯人が説明に窮して事実を一部認めながら苦し紛れの弁解をする。」という経過は一見自然であるようにみえるのに対し、いかに空白の時間によって追及されたとはいえ、自己に記憶のない殺人行為を認めるだろうかとの疑問が生じるからである。

しかし、そのような疑問は、ある程度冷静で合理的な判断のできる状況を前提にしていることに注意すべきであろう。仮に被告人が無実だとすると、これまで前科前歴のない二二歳の女性が、無実の罪で突然逮捕され、接見禁止の上毎日長時間の取調べを受け、その中で前記のとおり記憶のない部分の説明を求められているという状況になるのであり、このような状況を想定するとき、被告人の精神状態がかなり追い詰められると考えられ、また、その間の事情について原判決が第十一の五2(1142頁)「無意識殺人供述に至った経緯」及び同3「四月一七日の自白経緯」(1176頁)の中で詳細かつ適切に説示するように、取調べの状況として取調官側において理詰めでかつ例えば母親の健忘症の話や父親のため息の件、黒い証拠ばかり上がっている等々いわば手段を尽くして追及し、取り調べられる側も捜査官を信頼して何とか記憶にない空白の時間を積極的に説明しようとの見方によってはかなり特異な状況にあったと想定してみれば、被告人が無実であるにもかかわらず客観的殺害行為を認めるという行動に出ることも、あながちあり得ないことではないといえる。もちろん、そのような行動が自然であるとまではいえないとしても、そのような行動があり得ないことと考え、だから犯人による真実の吐露であるともいえないのである。

なお、検察官は、原判決が取調べ状況の判断において被告人の精神的圧迫感について述べているところをとらえて、「(被告人は。)決して社会的経験に乏しい若い女性というような甘いものではなく、その中に極めてしたたかな側面をみせている。」旨主張するが、これは被告人の過去の行動のごく一部を取り上げて極端な評価をしているものであって考慮し難い主張である。

さらに付け加えるならば、検察官の主張する「犯人が説明に窮して事実を一部認めながら苦し紛れの弁解をする。」という経過が一見自然であるとは述べたが、具体的な供述内容までみて考えると、仮に被告人が真実犯人であったとして、取調官の追及に耐えられなくなって客観的事実について認めざるを得なくなったときに、「無意識のあいだに、X君を殺ってしまったような気がいたします。」という弁解を思いつくのがそもそも本当に自然といえるのかという疑問も生じる。すなわち、取調官の中には、この「無意識」という言葉を責任無能力に逃げ込もうとしているのではないかと危惧した旨証言する者がおり、検察官も、被告人の責任逃れの供述である旨主張しているのであるが、交通事故のような過失犯ならばともかく、前記のように殺害行為について気が付かないうちの犯行ということは通常あり得ないのであって、あたかも責任能力を意識したかのような「無意識」という言葉を真犯人が弁解として思いつく可能性はそれほどなく高くないように思われる。刑責を免れたい、軽くしたいという弁解ならば、「何らかの理由で発作的だった。」と犯情のみに訴えることはとっさに思いつくとしても、酒や薬の影響もない状況での「無意識」はかなり特異な主張である。また、調書記載上の細かな点ともいえるが、否認しなかったもののアリバイ供述に疲れて客観的事実のみは認めざるを得なくなったとすれば「記憶がないが殺したかもしれない。」というやむを得ず認めた形になるのが自然であると思われるのに、これが「殺ってしまったような気がいたします。」「殺ってしまったと思うのです。」などと、むしろ自発的に認めたような雰囲気の文言になっていることも、真犯人の弁解としては不自然さを感じさせる。

4  四月一七日以降の自白と否認の交錯の理由について

(一) はじめに

検察官の主張によれば、四月一七日、一八日、一九日(二通目)、二〇日及び二一日付の各警察官調書における被告人の供述が自白である。ここでも、真実の犯人でない被告人が自白をすることが考えられるかという基本問題が存在するが、過去、歴史的に虚偽自白が存在したという事実を前提に抽象的に考えれば、無意識殺人の供述の際に述べたのと同様に、精神的に追い詰められた被告人において虚偽の自白をすることもあり得る状況であったということができよう。問題は、個々の自白に至った具体的経緯を前提とした上で、そのような取調べ状況において虚偽自白が生み出されるおそれがあったか否かの判断であり、「真犯人でない者が自白をした理由として、被告人の述べるところが合理的であるのか、証拠上そのような形跡が認められるのかという観点」が重要である。これについては、原判決が、第十一の五3(1176頁)から6(1209頁)において各供述調書ごとに被告人の弁解と取調官の証言を対比させて供述調書の記載等も検討し、被告人の弁解の方が合理的に説明できる、ないし、被告人の弁解が排斥できないものとの判断を示して、虚偽自白の可能性を認めたのに対し、検察官が、この判断に対しても、種々反論している。

そもそも取調べは密室内の出来事であって、自白に至った際の取調状況については、取調官と被告人との対立する供述しか存在しないことが多い。このような場合、取調官が虚偽自白をもたらすような不当な取調状況を積極的に供述することも、否認している被告人が真の自白をした状況を積極的に供述することもほとんどあり得ないので、具体的経過についてどちらが信用できるかの判断はなかなか困難である。一般論としては、現実に存在した取調べ状況を供述する場合には具体的で迫真的供述ができるのに対し、事実と異なる供述で取り繕おうとする場合には具体性を欠いた不自然な供述になり易いとはいえるものの、基本的には真実を供述しようとする側にも、記憶違いがあったり、立場上、事実の捉え方や感じ方が偏ったりしてしまうことがあり得るだけでなく、自己の正当性を強調しようとする余り、事実を一部誇張・脚色してしまうこともないとはいえない。また、虚偽の事実経過を供述しようとする者も、荒唐無稽の事実を供述したり、全く虚偽の事実を供述するようなことは少なく、現実の事実を一部構成し直すことによって自己を正当化しようとすることが多いと考えられるのであって、具体性・迫真性というのも、自然・不自然というのも、明確な基準があるわけではなく、結局程度の問題といわざるを得ない。したがって、個々の自白調書の作成経過について、双方の供述のどちらが信用できるかを無理矢理判断してその結論を示そうとすると、総合判断である信用性判断の過程を適切に表現できない危険性がある。しかし、総合判断も個別の検討の上に立つものであることは否定できないので、双方の主張についての当裁判所の見方を示しておくこととする。

(二) 被告人の主張する取調べ状況について

自白と否認が交錯した理由について被告人の述べる弁解の要旨は、原判決が第十一の五3(一)(1176頁)、同4(一)(1190頁)、同5(一)及び(二)(1198、1201頁)並びに同6(二)(1210頁)に各記載するとおりであるが、その内容は具体的で一応の合理性が認められ、また、そこで述べられている事実関係の一部については、若干趣旨が異なることはあるものの取調官も事実の存在を認めており、供述調書自体にも被告人の弁解に沿うような記載もなされているのであって、これらを全体的にみれば、被告人の弁解は十分あり得ることと考えられる。

特に、被告人の弁解は、例えば、取調官が他の証拠をつきつけて被告人を追及する様子、被告人が心の支えとする父親や支援者が必ずしも被告人を信じていない旨伝えるなど言葉巧みに孤立感をもたせて精神的に追い詰めてゆく様子、犯人ではないかと厳しい追及をする一方でアリバイさえ明確になれば釈放されるなどと被告人の立場に立っている態度を示して揺さぶりをかける様子などかなり詳細に述べるものである上、その際の自己の心理的な動揺に関する供述も具体的であって、そこに取り立てていうほどの不自然さがみられないこと、身柄拘束による取調べの経験が初めての被告人においては、このような供述をしていることは、先に述べたように仮に虚偽を述べようとする場合にも現実の事実を一部構成し直す場合が多いということを考慮に入れても、被告人が事実経験したことを述べているのではないか、逆に創作して述べることはできないと感じさせるものがある。

この被告人の弁解に対する検察官の反論は、無意識殺人のときと同じように、事実殺人行為を行っていない者が自白することはないという基本的立場と、被告人が「自分が殺して、それを忘れたのではないかと思った。」という弁解に対する、「被告人は、四月一四日にいったん無意識殺人の供述をしながら、翌日には『無意識にやったなどあり得ない』として撤回しているのであって、そのような被告人が、たとえ母親の健忘症のこと等を聞かされたとしても、殺したことを忘れたかもしれないなどと思い込むことはあり得ない。」というものである。しかしながら、この後者については、一般論の観点からみれば不自然であること自体は否定できないものの、本件における取調官と被告人の前記のような取調べ状況からすれば十分考えられることであって、必ずしも不自然とはいえない。

(三) 取調官の証言による取調べ状況について

これに対し、被告人の自白状況、特に被告人の弁解に関する取調官の各証言の要旨は、原判決が第十一の五3(二)(1181頁)、同4(二)(1193頁)、同5(二)(1201頁)及び同6(二)(1210頁)に各記載しているとおりであるが、基本的には、「取調官の説得の中で、被告人が悔悟の念から自発的に自白したが、その後弁護人との接見等をきっかけに否認に戻ったり、説得の中で自白したりし、結局否認に戻ってしまった。」という趣旨を述べているものである。しかし、内容を子細に検討してみると、以下のとおり、これが事実を供述しているとみるには疑問が生じる点がいくつか存在する。

(1) 四月一七日自白調書に記載のある手紙について

被告人の四月一七日付警察官調書には、概括的自白の記載の後に「私はこの本当のことを お父さん 学園の人達に対して二通の手紙を書きました。私が全部しゃべったときにこの手紙を渡して下さい。」との記載があるが、この手紙は同月二〇日に取調室において焼却され現存しない。この経緯が、取調官側、特に山崎の証言によれば、「四月一七日も、被告人に対して精神的な話等をしていたところ、被告人が話をする前に手紙を書かせてくれと申し出たので田中警察官一人を取調室に残して被告人に手紙を書かせた。その後田中警察官の『今日はY子の命日である』との言葉をきっかけにして被告人は泣き崩れて自白した。」「しかし、その手紙は被告人が封をした状態で取調官側は内容を確認することなく取調室内に保管し、数日後に被告人から焼却してくれといわれたので、そのまま焼却した。」旨、あたかも被告人が覚悟を決めて犯行を認めるような手紙を書いたが、その内容は取調官の誰も確認せず、その後本人の申出があったためにこれを焼却したとでも述べているかのようである。しかしながら、取調官においてその手紙の内容を見なかったというのは取調官の行為として不自然極まりないといわざるを得ず、さらに、仮に取調官において内容を見ており、それが自白を内容とするものであった場合にこれを焼却することはほとんど考えられないといってよい。すなわち、当時被告人が自白したとはいえ、その自白内容は極めて概括的であり、かつ、その自白は、自白した翌日には否認するといった不安定なものであった。捜査官において、重大事件において自白を得た場合にその信用性を確保しようとして自筆の「自供書」を書かせることはしばしばみられるが、被疑者が自ら犯行を認める手紙を書いたとすれば、捜査官において、それは何物にも代え難い証拠価値を有するものと考えるはずである。当時、被告人は接見禁止中であり、仮に信書を発信しようとすれば当然その内容を検閲する状況であったこと、その手紙が被告人の手元ではなく、取調室に保管されていたことをも考えるとき、被告人が自白内容を書いたかもしれないような手紙(四月一七日付調書の記載は、『本当のこと』とまさに犯行を認めた手紙であるようなものになっている。)の焼却を求めた際に、内容の確認もしないままにこれに応じて焼却することはほとんど考えられない対応といわざるを得ない。四月二六日付警察官調書における「問 あなたは二〇日の夜の調書は、真実のことを供述したため、手紙の内容が、真実ではなかったから、不必要だと思ったのではありませんか。」の記載も、取調官において手紙が否認を内容とするものであると知っていたことを窺わせるものといえる。現実に焼却したことは動かし難い事実であるから、捜察官が事前に手紙の内容を確認しており、その内容は犯行を否認するものであったと考えるのが相当であり、そうすると、この手紙の作成、焼却の経緯については、取調官らはことさら虚偽の事実を供述していると考えるほかない。

なお、検察官は、手紙に否認内容の記載がなされ、あるいは、手紙を書いたのが自白後であったとしても、そのことゆえに被告人の自白の真実性が減殺されるものではない旨主張するところ、確かに右の手紙の内容や作成された時期そのものによって、被告人の自白が虚偽自白であるとの推認が働くものではないが、被告人がこの手紙の作成、焼却経緯について一応の説明をなし得ているのに対し、取調官側が場合によれば重大な意味を持ち得るこの点に関して多かれ少なかれ虚偽の供述をしていることは、取調官側の述べる自白経過に対する疑問を生じさせる事由になるといわざるを得ない。

(2) 四月一七日付自白調書に「Y子をやった」との記載があることについて

四月一七日付自白調書には、被告人がY子をも殺害したことを認める記載がなされている。被告人がY子の死に関与していないことは既にみたとおりであるが、それはさておいても、右の自白が、検察官の主張する本件事件経過を前提とした、取調官側の述べるような経緯での真実の自白であるとすると、自己が殺害したのではないY子の殺害を認めるかのような供述をすることは極めて不自然である。この点、検察官は、「被告人のY子死亡への関与は単なる見殺しではなく、浄化槽の蓋を閉めるという殺人にも匹敵する行為と評価できるものであるから、自ら殺害したことを認める供述をしたことはむしろ自然である。」旨主張する。確かに、真犯人が心から反省悔悟して罪を認め、すべてが自分の行為による結果であると責任を感じたような状況であるか、又は、結果としての意味をも含む表現である「殺してしまった」というような自白であれば、自然であるとまではいえないものの、検察官の説明もあながち的外れとはいえない。しかし、検察官は、次項(3)で述べるように、被告人は自白しながらも自己の刑責を免れたいとの気持ちを残しており、すべてを述べるような状況ではなかった旨主張しているのであり、しかも、右調書の記載は、「Y子ちゃんとX君をやった(末尾部分は「殺った」という漢字をあてる趣旨と考えられる。)」とか「Y子ちゃんとX君をマンホールに落して殺したのは本当に私に間違いありません」というものであり、自ら落として殺害した行為を明確に認める供述になっているのであって、検察官の主張では説明がつかない。

(3) 四月一七日付自白調書に動機についての具体的供述が全くなされていないことについて

また、四月一七日付自白調書における具体的自白の内容は、「Y子ちゃんとX君をやったことは私に間違いありません。」と「Y子ちゃんとX君をマンホールに落とて殺したのは本当に私に間違いありません。」の二か所だけであり、犯行の動機が全く述べられていない。本件において、被告人が真犯人であるとするとその動機が大きな問題であり、取調官においてこれを聞き出す必要性が高かったことは明らかであるところ、その日の取調べにおいても、被告人が泣き出して自白した後、取調官がさらに動機を追及した事実が認められるのであるが、それにもかかわらず概略的な一言でさえ動機が述べられていないのである。この点、検察官は、取調官山崎の「状況的にはそれ(動機)を一つ言ってしまったら全部ずるずるっと話をしてしまわなくてはいけない。ここだけは何としても言えないという、こう、歯をくいしばっておるような状況でした。」との証言をとらえ、「被告人が一時悔悟の気持ちから自白に至ったとしても、それが真の反省・悔悟によるものではなく、いまだ心底では犯行を否認して刑責を免れたいとの願望を持ち続けている状況であったために犯行態様や動機について具体的供述がなされなかったのである。」旨主張する。しかしながら、取調官の述べる自白状況は、自己の気持ちの整理のためと思われるような手紙を書き、ついには悔悟の念からか大きな声で泣き出して自白したというものであり、前項(2)で述べたように、Y子については自己の行為以上の責任を認めるかのような供述をしているのである。そのような状況で自白をした者が、いったん取調べを中断して房に帰るなどの状況の変化もないままで、ここで動機を述べては不利だなどと考えるであろうか。取調官自身、被告人が動機を述べなかったことにつき、山崎において「よっほど深い事情がある、これは何かある。」と感じたり(検察官の主張する動機は、結果的にそれほど深い事情といえるものではない。)、田中において「この被告人の対応は意外だ。」と感じたりするものであったというのであり、動機が一切述べられていないことは、真犯人の悔悟による自白という取調官側証言とはどうしても馴染まないものといわなければならない。

(4) 四月一八日付及び一九日付の自白の経緯があいまいなこと等について

被告人は、四月一七日夜に自白したものの、翌日はいったん否認に戻り、その夜の取調べにおいて再び自白するに至り、さらに翌一九日にも否認に戻って否認調書まで作成されたが、その後同日中に再び自白し、同日(二通目)、翌二〇日と自白調書が作成されている。このように自白と否認が交錯していることからすると、その取調べの際には、(それが真実であるか虚偽であるかはともかく)自白を拒もうとする被告人と、自白を得ようとする取調官の間において種々のせめぎ合いがあったものと推測されるのであるが、取調官の証言は、原判決が第十一の五4(二)(1193頁)及び同5(二)(1201頁)の中で説示するように、否認から自白に変わった経緯について、何も述べていなかったりあいまいであったりして具体性に欠けるものである。本件における被告人の取調べで最も重要な時期であったと考えられるこの間の取調状況が、このようにあいまい若しくは不自然といわれても致し方のない内容に過ぎないことは、取調官の証言が果たして実体験に基づくものであるのか疑問を生じさせる要因となる。

検察官は、自白経緯があいまいであるとの原判決の判断に対し、被告人が四月一八日に再び自白した経緯に関し、山崎が「自分が取り調べる以前の昼の段階では、また少し元に戻ったような話だったので、取調べに入って、被告人に『あなたがゆうべ本当に涙を見せて自供をしてくれたと私は思う。あなたは、その後で、Y子ちゃんとX君の冥福を祈ります、そういう具合にあなたは言ってくれた。あれは嘘だったのですか』という具合にいうと、被告人が『それは本当です。私がやりました。』ということで自供し、真摯な態度に戻った。」旨の証言をしている点をとらえて、これが具体的であると主張する。しかし、被告人が同日の朝から昼まで「やっていない。」との否認に戻っていたことは勝の証言からも明らかであり、そのように否認に戻っていた被告人が再び自白するに至る経緯として右の程度の証言をもって具体的であるとは到底いえない。山崎自身も、否認の状況から再び自白を引き出した状況を十分証言できないためか、反対尋問においては、自分が夜の取調べに入ったときに被告人がまた否認したままだったのか認めていたのかさえはっきりしない旨の証言をしている。勝も、「いつもそうだが、調べの間も説得すると被告人が落ち着いて話をするように変わる。」と述べるのみで、どのように説得したのか何も述べていない。これらの点からすると、取調官の証言は、被告人の弁解に比したとき、具体性に欠け、あいまいであると評価せざるを得ない。

(5) 四月一八日付の青葉寮侵入口に関する供述及び同月一九日付の動機供述について

取調官山崎は、四月一八日付の青葉寮侵入口に関する供述及び同月一九日付の動機供述のいずれについても、自分にとって予想外の供述であったとして被告人の自発的供述であったことを強調するかのようである。しかしながら、原判決が、青葉寮入口については第十一の四5(四)(3)(1111頁)において、動機については第十一の四5(二)(2)(1054頁)において説示するように、取調官において、右各供述内容を選択肢の一つとして想定していた可能性は高いと認められる。この点、所論は捜査官において想定できなかったとして種々の主張をしているが、いずれも右判断を左右するものとは考えられない。そして、右のとおり想定していた可能性が高い事実をことさら想定していなかったとしているのであるから、山崎証言はこの点に関し事実とは異なった供述をしているのではないかと考えざるを得ず、このことは、その証言全体の信用性に疑いを持たせる事情の一つとなる。

5  自白内容に関する問題点

(一) 概括性、具体性について

本件の自白内容の概括性、具体性については、原判決が第十一の四2(1019頁)に述べるところであるが、結論として、被告人の自白を全体としてみたとき、内容が概括的であり、その信用性を高めるほど具体的とはいえないとの判断は相当である。ただ、否認と自白の交錯の項でも述べたように、真犯人であっても自白することに心理的抵抗は存在し、自白をしながらその詳細を意識的に述べないことも十分考えられるのであるから、この具体性が足りないことを、利害関係のない証人が積極的に記憶していることを述べようとするにもかかわらず具体的な供述ができない場合(そのような場合、記憶が正確でない、あるいは事実と異なるなどと評価されてしまう。)と同様な意味で、自白の信用性を減殺するものと直ちに考えるのは相当でないであろう。

なお、自白の具体性について、検察官は、原判決の判断に対し、被告人の自白は概括的ではあるものの、食べさしのみかんを持って行ったこと、女子棟仕分室から三つ目の部屋から青葉寮に入ったこと、「さくら」の部屋からXを連れ出したこと、Xを浄化槽に落としたこと等の供述は相当具体的な供述であって、真実性を窺わせる旨主張するが、その主張内容は、「本件被告人の場合は、否認と自白とを繰り返している状況における自白であって、完全な自白ではない。」旨の、自白が具体的でないからといって信用できないとはいえないという消極的な部分の説明としてなされているものであって、自白に積極的に信用性を認めることのできる事情の主張とは解されない。本件程度の自白を「相当程度具体的」と評価するか否かは、原判決も述べるとおり、「見方の違い」といわざるを得ない。

ただ、被告人の自白の具体性を考察するに際しては、四月一八日付警察官調書の内容を見過ごすことができない。すなわち、原判決が第十一の二2(980頁)の中でも触れているように、同調書は供述部分が約三頁のわずかなものであるにもかかわらず、事実として記載してある女子棟子供部屋からの侵入については「うすぼんやりと憶えて」おり、Xに声をかけた「感じがし」、「はっきり断言出来(ない)」がXの右手を引いて非常口から出、その際マスターキーで鍵を開けて外へ出た「ような気がする。」など記憶があいまいであることを示す言葉が何回も使われ、一方、靴を履いて上がったのか脱いで上がったのか、侵入した園児居室にいた子供が誰で何人いたのか、寝ていたのか起きていたのか、Xの鬼ごっこの相手は誰だったのか、ほかにも誰がいたのかの点について、覚えていないと記載されている。検察官が主張するように、真犯人が自己の犯罪を認めることに対する抵抗感から言葉をあいまいにすることは考えられないことではないが、それにしてもこの調書における記載は異常ともいえるほど、肝心で本来あいまいであることが考えにくい事柄について、記憶があいまいであることを強調したものであり、「記憶がないが殺したのかもしれないと思った。」旨の被告人の弁解に沿う記載があると評価すべきである。

(二) 犯行決意時期及びこれにかかわる問題について

被告人の四月二〇日付警察官調書には、「若葉寮を出てから私の不注意でたくさんの人に述惑をかけたという自責の念でいっぱいになり、そのことは終始脳裏から離れないまま、グランドを通って青葉寮へ行ったのです。」となっているのに引き続き、「さくらの部屋で遊んでいたと思うX君を見て、『X』と呼びました。Xを見た瞬間カモフラジューするためにはこの子をマンホールに投げ込み殺そうと思ったのです。最初からX君を目的で来たのではありません。」との記載がされているが、この調書が殺害を決意した経緯と時点について最も詳しく述べられたものであって、他の調書にもX殺害の決意について述べた部分があるが、いずれも比較的簡単なもので決意の時点については明確になっていない。

右被告人の自供調書を文面どおり読むならば、青葉寮に入る時点ではいまだ園児殺害の決意を固めておらず、入った後たまたまXを見て同人をマンホールに投げ込んで殺害することを決意したことになるが、それでは犯行を予定しているわけでもないのに「こすもす」の部屋から土足で入り込む(出るときには非常口から出ているのであり、靴を履いたままと考えざるを得ない。)ということになり、いかにも奇妙な行動といわざるを得ない。したがって、検察官は、この被告人の自白のうちの犯行を決意した時期については虚偽であり、被告人が青葉寮に向かっているときには既に犯行を決意していると主張していると考えられる。すなわち、検察官は、被告人の自白のうち客観的事実に反すると考えられる部分、例えば既に述べたY子転落の際浄化槽の上で園児が遊んでいた事実等、「こすもす」の部屋から侵入する際、同部屋に他の園児が寝ていたかのように供述する部分、四月二〇日付警察官調書において若葉寮に行ったことを供述している部分などについて、「被告人の自白が完全自白でない場合は、その内容に往々にして虚偽の事実を交えて供述することはよくあることである。」とか、「不利な事実を一遍に供述するとは限らず、一部を隠して供述するのは決して珍しいことではない。」との論理で説明しており、殺害を決意した時点の供述についても同様の論理をもって説明するのである。右に例示したような点についての検察官の説明が全く説明になっていないことは一部について既に述べたところでもあり多言を要しない。すなわち、自白内容と客観的事実との間に食い違いがある場合には、特段の事情がない限り、自白が真に自己の体験を述べていない疑いがあるとして、自白の信用性を否定する方向に働く要素と考えるべきは当然であり、ただ、体験した者において簡単に認識できないような事項、まぎらわしい事項、枝葉末節にわたる事項などのほか、後に自白を覆すことを考えてわざと事実と異なる供述をする場合や自己又は他人を庇ってあえて一部を変えて供述するなどの事情が存する場合には別の観点からの考察が必要であるというに過ぎない。右に例示した点については、被告人が間違えて認識するような事項ではなく、また、あえて虚偽を創作するような事情も考えられないのである。もっとも、殺害を決意した時点に関しては、犯行決意を遅らせて突発的犯行とすることで犯情を軽くしようとしているとの説明も全く理由がないわけではない。しかし、それにしても奇妙な内容の自白であることは否定できないし、重要な点について検察官の想定するところと食い違っているという事実も否定できない。この事実は、やはり自白の信用性に疑問を投げかけると評価すべきものであって、軽視できない事柄である。

しかも、この点について、検察官が主張するように、被告人が、青葉寮に行く時点で犯行を決意していたとすると、原判決が第十二の三2(一)(1277頁)で指摘する「検察官が主張する本件犯行前後の被告人の行動及びその時刻からみた疑問」、すなわち、園児を連れ出して殺害するという行為は普通に考えれば短時間で容易に実行できるようなものではなく、犯行時間帯とされる午後八時ころというのは、青葉寮における年少園児の就寝時間帯であり、宿直勤務者であるB野及びB川が青葉寮内にいて就寝準備をしているのであって、右両名に目撃される危険性が極めて高いのであるから、このような時間帯に犯行に及ぶことは考え難いという疑問が、まさに問題とならざるを得ない。

これに対し、検察官は、「被告人は青葉寮の保母であって、青葉寮内及びその周辺の状況、さらにはXの性格や扱い方についてもこれを熟知しており、被告人の本件犯行が短時間で終了したのは不自然でない。被告人は、青葉寮女子棟へはグランドに面した無人の園児室『こすもす』の部屋から侵入しており、『こすもす』から女子棟廊下に出る際にも廊下上の様子を窺うことができるのであるから、当直職員に目撃される危険は避け得る。また、『こすもす』を通って廊下に出た後、まずデイルームの方に行き、その様子をのぞき込み、当直のB川が年長園児らとテレビを見ていて、しばらくは女子棟を見回りに来る様子のないことや、デイルームにB野の姿はなく、同人は男子棟にいるであろうことを確認し、今ならX連れ出しを当直職員に目撃される危険が低いことを確認した上で犯行に及んでいること、当夜はY子捜索のため当直以外の保母が学園内に残っていたのであるから、被告人が青葉寮内にいたとしても格別不審に思われる状況はなかったし、仮に誰かに見られたとしても、何とでも弁解できる状況にあったことからすれば、Y子の捜索活動状況を見て追い詰められた気持ちになっていたと思われる被告人がE田が既に管理棟事務室から若葉寮に戻っている状況下で、園長のB山が管理棟事務室を出たことを汐に、今こそ園児殺害を実行に移す時期と考えたとしても何ら不合理というようなものではない。」とし、また、一方で、「被告人の本件犯行は、B山が急に三宮に出発することになった経緯からみて、あらかじめ計画していたものとは考え難く、Y子の捜索活動が大々的に行われているのを見て、追い詰められた気持ちになっていた被告人が、かかる不安定な精神状態の中で焦燥感を募らせていたところ、Y子行方不明事件に対する自分への疑いを他へそらすため。園児の殺害を思い立ったと認められる。もっとも、被告人は、以前から、他の職員の当直の際に青葉寮園児を殺害することを漠然と考えていた可能性がある。」ともいい、さらに「Y子の捜索活動に従事するうち、次第に精神的に追い詰められた結果の偶然的な犯行である。」旨の第一次控訴審の判示をも援用している。

しかしながら、検察官の右主張は、もちろん被告人の自白にない事柄であり、あくまでも一つの推測に過ぎないものであるが、「もっとも、被告人は、以前から、他の職員の当直の際に青葉寮園児を殺害することを漠然と考えていた可能性がある。」とする部分は、被告人が一九日の当夜急に犯行を決意することの余りの不自然さを説明しようとして新たに付加された主張のように見受けられ、この点をはじめ、検察官の主張は余りにも前記犯行決意に関する被告人の自白とかけ離れてしまうことになるのではなかろうか。そして、被告人が、午後八時の時間帯に青葉寮に行けば、いくら注意しても、園児が就寝準備で動き回る時間帯である以上、いつ園児に見つかるかも知れず、そうすれば当直職員にも当然自己の存在を知られてしまうのである。仮に誰かに見られたとしても、何とでも弁解できる状況にあったというが、確かに当夜はY子捜索のため当直以外の保母が学園内に残っていたのは事実であり、もちろん誰かに発見された場合には殺害の実行行為を止ることは当然であろうが、それでもなお、そのような時間帯に青葉寮に、しかも土足で侵入してきた事実についてどのように弁解できるであろうか。その場は何とか逃れても、疑いを持たれることは免れられない。原判決がいうように、午後八時ころという時間帯に検察官の主張するような態様で犯行を実行することが「奇跡的な犯行」というべきかはおくとしても、「成功する可能性が極めて少なく、大きなリスクを伴う犯行」であるといわざるを得ない。検察官は、被告人が以前から犯行を漠然と考えていた可能性があるというが、事前に考えて実行を決意するような時間帯ではないのである。そこで、検察官は、被告人が追い詰められた不安定な精神状態の下で偶然的に行った犯行であるとすることで、その不自然さを薄めようとするのであるが、そもそも、Y子の捜索は一七日の行方不明のときから学園を挙げて熱心に行われており、B山出発後のこの時間に特に被告人が追い詰められるような状況は存在しない。ことが大きくなるという意味では、ラジオで捜索を呼びかける放送がされることはその一つであろうが、これはほかならぬ被告人の提案に基づき被告人の積極的な行動で実現したことであり、これをもって被告人が犯行を決意するきっかけであると考えることは背理である。検察官の、不安定な精神状態でつい行ったという主張と、青葉寮の様子を窺い、見つかったときの言い逃れも考えるなど冷静な計算に基づいた行動であるとの主張が絶対に結び付き得ないわけではないであろうが、同一人間が殺人という重大犯罪を実行しようと決意する際の心理状態としては、やはり相容れない異質のものが同時に存在することになり、不自然であるとのそしりを免れない。

(三) みかんをXに食べさせたことについて

自白内容のうち、被告人が食べさしのみかんを持って行ったことについて、原判決は第十一の四2(一)(1022頁)において述べており、当裁判所もこの点についての原判決の説示は全く相当であると考える。すなわち、被告人の四月二〇日付警察官調書では、「青葉寮に来るときは何も持っていなかったと思う。そしてXにも食べものを与えた記憶はない。」となっていたのに、翌日である同月二一日付警察官調書では、「食べさしのみかんを持って青葉寮へ行った。食べさしのみかんはオーバーのポケットに入れた憶えはないので手に持っていたと思う。」「Xを呼んですぐ手に持っていたみかんをやったように思う。」と供述しているが、前日に否定していたのに供述するようになった理由や、なぜXにやったのか、Xはそのみかんをどうしたのかなど一切なく、被告人がみかんを買ってきたことやXの胃の中から未消化のみかんが検出されたことから単純に推測される事実の供述しかないといわれても致し方ないものである。そして、被告人が自白調書で述べる「若葉寮にみかんを持って行った。」というのは、被告人も後に供述を撤回しており、若葉寮職員による裏付けもなく、これが事実でないことは検察官も認めているとおりである。そうだとすれば、ますます、一体どういうきっかけで、何のために青葉寮にみかんを、しかも食べさしのみかんを手に持って行ったのか、しかも検察官の主張によればみかんをさして好まないXになぜやったのか、Xがそのみかんをどのようにして食べたのか疑問が増すばかりである。

検察官のみかんに関する主張には、自白内容の面からも疑問があるといわねばならない。

6  自白についてのまとめ

以上、自白の信用性を判断する要素について検討してきた結果を中心とし、その他所論の主張をすべて考慮しても、被告人の自白は、「任意性の否定されない供述において自白した。」ということ以外に自白の信用性を高めるような事情は認められないのであって、逆に、事実でないにもかかわわらず自白してしまった理由として被告人が述べるところに沿う証拠が散在し、その弁解が排斥できない以上、冒頭に述べたとおり、その信用性は乏しいといわざるを得ない。

七  結論

これまで述べてきたとおり、本件における証拠のうち、園児供述及び自白を除いた情況証拠からは、被告人が犯人であるとの推認はほとんど働かず、また、園児供述によっては、被告人がXを青葉寮から連れ出したとの認定ができないだけでなく、その可能性が高いとの心証も抱くことができず、さらに、被告人の自白はもともとその信用性は乏しく、情況証拠と照らし合わせても、その信用性は高まるものではない。結局、被告人に対する本件公訴事実はその証明が不十分であって、これと結論を同じくする原判決に、所論の事実誤認は認められない。

よって、刑訴法三九六条により、検察官の本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 河上元康 裁判官 飯渕進 裁判官 鹿野伸二)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例